11 約束Ⅱ

 離任式の日、茜は半年ぶりに登校した。

 恐る恐るの登校だったが、クラスメイトはみんな優しく迎えてくれて、声をかけてくれた。

 自分のことなんて誰も気にしてないと思っていた茜は驚き、それでまた泣いてしまった。最近、泣いてばかりだなと思う。


 体育館で離任式が行われ、転任する先生方の挨拶、その後校長先生の挨拶と、つつがなく式は終了した。

 もう会えなくなるわけではないとわかりつつも、さやか先生の挨拶のときには、やっぱり泣いてしまった。


 放課後、茜は先生に会いに職員室に行ったが、職員室の前では先生の周りにすでに二十人近い人だかりができており、その対応に忙しそうにしていた。

 茜はゆっくりと話したかったため、その対応が終わるのを待ちながら、お別れの言葉に何を言おうかと考える。

 きっとすごく心配をかけたから、安心させてあげなきゃいけない。まずはもう大丈夫だということを伝えよう。それと、一つだけ聞きたいことがあった。


 先生が集まった全員の対応を終えるまで数十分かかったが、その後すぐに茜の方まで駆け寄ってきてくれた。


「茜ちゃん、ごめんね。すごく待ったでしょ?」


 先生がしゃがんで茜に目線を合わせてくれる。


「いいの。先生ってやっぱり人気者だね」


「みんな惜しんでくれるの。寂しいけど、嬉しいわ。でもね、今日一番嬉しかったことは、茜ちゃんが来てくれたことよ」


 その言葉だけでもう胸がいっぱいになり、また泣きそうになるが、必死に堪える。もう先生に心配をかけないと決めたのだ。ここで泣いたら、きっと先生はまた心配になって、もしかしたら先生も泣いてしまうかもしれない。


「あのね先生、いっぱい心配かけてごめんなさい。でも、もう大丈夫だから、安心して。わたし、また学校に行けると思う」


「そう、よかった。うん……安心した」


 先生は目を瞑り、言葉通りに安心したように微笑んでくれた。


「それでね、先生に聞きたいことがあるの」


「なぁに?」


「お父さんがいなくなってから、お母さんずっと働いてるの。お婆ちゃんも、体が悪いのに、わたしとあかりのご飯作ってくれたり、頑張ってくれてるんだ」


「うん」


「わたし、いつか先生みたいに立派な大人になって、お世話になった二人に恩返ししたい。……どうすれば、先生みたいになれるの?」


 小学三年生の茜からそんな質問が出てくるとは思っておらず、先生は少しびっくりしたようだ。


「茜ちゃんは偉いわね。先生が立派な大人かどうかは、先生自身もあんまり自信がないんだけど、うーん……」


 先生はしばらくの間、真面目な顔をして考え込んでから、口を開いた。


「大事なことは、三つ」


「三つ?」


「一つは、その気持ちをずっと忘れないこと」


 うんうんと茜が頷く。


「二つ目は……そうね、勉強を頑張ること」


「先生も勉強頑張ったの?」


「そうよ。今はまだわからないかもしれないけど、将来の道を増やすために、勉強することはとても大事なことなの」


「ふぅん……?」


 言われた通り、よくわからないという風に茜が首をかしげる。


「将来、茜ちゃんが自分で納得のいく道を選んで、そのときにきっと、立派な大人になったなって思えるようになるわ。だから、ちゃんと勉強すること。わかった?」


「うん」


 言ってることは難しくてわからないが、先生が言うことなら正しいのだろうと素直に頷く。


「三つ目は、大切な友達を作ること」


「うん。どうすれば大切な友達ができるの?」


「思いやりをもって友達に接してあげるの。茜ちゃんがお母さんやお婆ちゃん、それと先生にしてくれてるみたいにね。そうしていれば、いつかきっと茜ちゃんのことも大切にしてくれる友達ができるわ」


「うん、わかった! 先生、ありがとう!」


「今の三つのことを守るの、約束ね?」


「うん! 約束する」


 二人で指切りをする。それから先生がいつものように茜の頭を撫でて、立ち上がった。


「ごめんね、先生まだちょっとだけお仕事が残ってるから、そろそろ行かなくちゃいけないの」


「うん、またね、先生」


「またね、茜ちゃん」


 二人とも満面の笑顔で手を振り合いながら、別れを告げる。


「忘れないでね。先生はこれからもずっと、茜ちゃんの味方だから」


 別れ際の先生のその言葉は、茜の心に深く刻み込まれた。


 それからも先生は宣言通りに、しばらくは月に一度は茜の家まで様子を見に来てくれて、話をしてくれた。

 先生も向こうで忙しいのだろう、徐々に頻度は減っていったが、小学校を卒業するころ、流石に何年も自分一人に付き合わせるのを申し訳なく思った茜が「もう大丈夫だよ」と言うまで、ずっと会いにきてくれていた。

 そんな掛け替えのない恩師との約束を信じて、茜はこれまで生きてきた。




◇◆◇



 ――そうだ、わたしはさやか先生との約束を守るため、頑張ってきたんだ。


 忘れていたわけではない。それは茜にとってあまりにも当たり前のことすぎて、認識するのに時間がかかっただけだ。


 けれど、自分は先生との約束を守ることができているだろうか。家族への想いを忘れたことはない。勉強も頑張っていると思う。周りの友達だって、みんなわたしのことをさやか先生みたいに慕ってくれていて――。


 そこで自分の思考に違和感を覚える。

 周囲から向けられる茜への憧れと尊敬の眼差し。それは昔、さやか先生が子供たちから向けられていたものによく似ている。

 誰かから勉強や学校の行事のことで相談を受けたことは何度もある。けれども、誰かに遊びに誘われたことは、この数年間に一度もなかった。

 その関係性は友達と呼ぶには程遠い。


「そっか。わたし、友達いなかったんだ」

 一人でそう呟く。知らなかった。いや、本当は知っていたけど、認めたくなくて無意識に心の奥底にしまいこんでいただけだ。だってそれを認めたら、先生との約束を守れていないことになってしまう。


 ――先生との、約束を、守れない?


 茜の中の何かが、ガラガラと音を立てて崩れていく。


「違う、違う違う違う……!」


 先生との約束だけを心の支えにして生きてきた茜にとってそれは耐えがたく、絶対に認められないことだった。


「みんな友達、そうだよ、違うよ、友達だよ、だって勉強教えてあげてるもん」


 鬼気迫る様子で自分に言い聞かせる。


 ――勉強を教えてあげるだけで友達なら、学校の先生と生徒はみんな友達ね。


 しかし心の中では、冷静な自分がそう言っている。


「悩み事の相談だって、されてる、し……」


 ――それは主に学校行事のことで、生徒会長の朱村茜に対しての相談。友達として、朱村茜に個人的な悩みの相談をしてきた人はいた?


「わたしは、先生との約束を……」


 気がつけば、目から涙が溢れてきて、前がよく見えなくなっていた。全身から力が抜けて、歩くことはおろか、立っていることすら出来なくなり、その場にうずくまり、ただ泣くことしかできなかった。


 離任式のあの日以来、一度も泣いたことなんてなかったのに。もう大丈夫だって、先生に言ったのに。


 ――わたしは、どこで間違ったんだろう。


 それから茜は、心配した通行人に声をかけられるまでの約三十分間、ただ泣き続けることしかできないでいた。

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