10 約束

 生徒会での雑務をこなし、その後塾に通い、家に帰る。茜はいつも通りの日常をこなしていたが、頭の中にはずっともやもやとしたものがわだかまっていた。


「苦悩を抱えている、か……」


 塾帰りの夜道、天使に言われたことを復唱するが、茜にはこれといった心当たりがない。


 理恵から心配されたように生徒会や遅くまでの塾通いも無理をしてやっているわけではない。

 あることないこと噂をされるのも、最初は嫌だったがもう慣れた。

 家庭環境も、世間一般で言えば複雑な家庭なのだろうが、それに不満を持ったこともないし、むしろ家族には感謝しかない。


 大丈夫だ。何の問題もない。わたしは大丈夫。悩みなんかない。頭の中でそう繰り返すが、頭の中のもやもやは晴れない。


 ――そもそも何でこんなに頑張ってるんだっけ。


 思考のもやもやの中から、この数年間一度も考えたことがなかった疑問が湧き出てきて、形のない焦燥と不安にかられる。


「さやか先生……」


 不安が高まったせいか、思わず恩師の名前が口から漏れる。




◇◆◇



 小学生のとき、茜には大好きな先生がいた。

 その人は音楽の先生で、若くて綺麗な彼女はその他大勢の先生たちよりも親しみやすく、他の生徒たちからも人気者だった。

 茜もその例に漏れず、音楽の時間が楽しみで仕方がなかった。

 先生と一緒にいたいからという理由で、クラブ活動は合唱クラブを選び、毎日色々なことを話した。


 小学校三年生のとき、父親が事故に遭い亡くなってしばらくの間、周りの大人も子供も茜からは一定の距離を置いていた。

 今はそっとしておいた方がいいだろうという大人たちの空気を子供も察知したためだったが、誰とも話す気分になれない茜にとってもそれはありがたかった。


 次第に茜は学校を休みがちになり、自室に引きこもるようになっていった。茜の父親はテレビゲームが趣味で、生前は茜もよく一緒に遊んでおり、茜は父親が遺したそのゲーム類に没頭する毎日を送ることになった。そうすることで、いなくなった父親を少しでも身近に感じられる気がしたからだ。


 余談だが、その当時触れたファンタジー物が、後に悪魔になりきる趣味に繋がっている。

 不登校になり、昼も夜もゲームに没頭する茜を母親も担任も心配していたが、茜が他者との関わりを拒んだため具体的な対処を何もできずにいた。


 そんな茜の心の扉を開いたのが、音楽の先生であった篠宮しのみやさやかだった。

 不登校になり半年が経ち、三月になったころ。茜がいつも通り自室でゲームをしているとき、部屋のドアがノックされた。

 先ほど家の呼び鈴が鳴ったのは聞こえていたため、また担任の先生が話に来たのかとうんざりしていたが、ドアの向こうからは予想外の、懐かしくも優しい声が聞こえてきた。


「茜ちゃん、起きてる? 篠宮です、わかる?」


 大好きだった先生のその声を聞いた瞬間、コントローラーを握る手が止まる。そして、嬉しかったのと同時に怒りも湧き出てきて、茜は返事ができずにいた。今までずっと放っておいて、今更何をしにきたのか。


「……聞いてると思って話すね。今まで来れなくて、ごめんなさい。先生も来たかったんだけど、教頭先生に担任でもないのに深入りするなって止められてて……本当にごめんなさい……」


 そんな大人の事情は知らないし、聞きたくもない。茜には言い訳にしか聞こえず、耳を塞ごうとしたその時、ドアの向こうから先生の嗚咽が聞こえてきた。


「信じてもらえないかもしれないけど、茜ちゃんのことずっと心配してたの。だから、最後にどうしてもって、特別に許可をもらったの」


 涙まじりのその言葉に、茜は無意識に部屋のドアを開けていた。今まで担任が何度来ても、一度も開けたことがなかったドアを。


 そこには久しぶりに見る先生の、けれど一度も見たことがない、ぐしゃぐしゃになった泣き顔があった。その顔を見た茜の目からも、自然と涙が零れ落ちる。

 先生が泣きながら茜を抱きしめ、その頭を撫でるが、茜にはどうしても先ほどの言葉に気になる点があった。


「先生、最後ってなに……?」


「先生ね、お仕事の都合で別の学校に行かなくちゃいけなくなったの」


「なんで? やだ、お父さんがいなくなってこんなに悲しいのに、先生までいなくなっちゃうの? やだ、いやだよぅ……」


 先生は泣いて駄々をこねる茜を落ち着かせるように背中をポンポンと叩き、優しい声で語りかける。


「大丈夫。隣町の小学校に行くだけ。いなくならないよ。いつだって茜ちゃんに会いにこれる距離なんだから」


「ほんとに? ほんとに会いに来てくれるの?」


「茜ちゃんが望むなら、ううん、望んでなくたって来ちゃうんだから。先生は、ずっとずっと茜ちゃんの味方だよ」


 そう言いながら、茜の体をより一層強く抱きしめる。


 大好きな先生が味方になってくれると言う。それに安心した茜は一度は泣き止んだが、今度は先生がまた泣き出してしまい、それに釣られて茜も涙が止まらなくなってしまった。


 二人で泣き合い、謝り合い、小一時間が経ったころ、茜が空腹でお腹を鳴らしたことに二人とも吹き出してしまい、その後みんなで母親が作った夕食を食べた。


「茜ちゃん。今度ね、離任式っていう、先生のお別れをする式があるの」


 帰る間際、先生が茜の頭を撫でながら言う。


「無理はしないでいいの。でもね、茜ちゃんが来てくれたら、先生嬉しいな」


「行く! 絶対行く!」


 大好きな先生が、自分のことも大好きでいてくれた。そんな先生が自分に来て欲しいと言っている。茜にとって、学校に行く理由などそれだけで十分だった。

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