9 噂話

 茜に会うために三年の教室へ向かおうとする道中、二階から三階へと登る階段で目的の当人に遭遇することができた。


「あ、芹沢さん」


「先輩、ちょうど良かった。昼休みの話の続きをしたかったんですけど」


 理恵の申し出に、茜が申し訳なさそうな表情をする。


「ごめんなさい、これから生徒会の仕事があって……」


「ありゃ、そうなんですね。何時くらいに終わるんですか?」


「それは五時前には終わるんだけど、その後塾があるの」


「塾は何時までですか?」


「うーん、九時は過ぎるかな? だから、今日はちょっと難しいと思うの」


 理恵はこの人は本当に努力家なんだなと感心すると同時に、頑張りすぎなんじゃないかと少し心配にもなった。


「そうですかー……じゃあ、また出直します」


 今後の方針を考えるために話を聞きたかったのだが、そういうことでは仕方がない。


「本当にごめんね、芹沢さん。そうだ、携帯電話持ってる?」


「はい。あ、番号教えてもらえるんですか?」


「うん。時間が空けれそうなときに連絡するね? あ、芹沢さんからも何かあったら気軽に連絡してくれて全然いいからね?」


 本当にいい人だな。自分やマリエルよりも、よっぽど天使的な性格をしているのに、何でこんないい人が悪魔の真似事なんかしていたのやらと、理恵は改めて疑問に思った。人間っていうのは難解だ。


 電話番号の交換を終え、別れる間際、理恵が茜へ質問を投げかける。


「先輩、一個だけ聞かせてください」


「なになに?」


「生徒会長やって、塾で夜遅くまで勉強して、無理してませんか?」


「ううん、無理なんかしてなんかないよ。わたし要領悪くってね、だから人より努力が必要なの」


 茜が照れ臭そうに笑う。その表情に、無理をして頑張っているような様子はやはり感じられない。


「そうですか。質問に答えていただき、ありがとうございます。引き止めて申し訳ありませんでした」


 理恵がぺこりと頭を下げるのを見て、茜が吹き出す。


「わ、わたし何かおかしなこと言いました?」


「あ、ううん! ご、ごめんなさい、笑ったりして! だって今朝まではすごい剣幕だったのに、今はすごく礼儀正しくって、それがちょっと面白くって」


「そ、それは先輩が悪魔だとか言うからー!」


「わーわー!? そ、そのワード禁止ー! 人に聞かれたらどうするのー!?」


「ご、ごめんなさい」


 人目を気にするなら、夜中の公園であんなことやるのもやめた方がいいのではとも思ったが、茜の勢いに気圧されて思わず素直に謝罪してしまう。


「じゃあまたね、芹沢さん」


「はい、先輩。生徒会のお仕事、頑張ってください」


「ありがとう」


 お互いに微笑み合い、軽く手を振りながら別れる。これでもう学校に用事はなくなったので、理恵も帰宅することにする。



◇◆◇



「うーん」


 下校中、茜のことを考える。

 やっぱりあの人が苦悩なんか抱えてるように見えない。もしかしてまたマリエルに騙されたのだろうかとも思ったが、頭の中ですぐにそれを否定する。


 マリエルは性格歪みまくりの快楽主義者の鬼畜天使だが、仕事に関してだけは手を抜かないし、真面目にこなすタイプだ。そのおかげで上司からの評価もすこぶる高い。だからこそ理恵のサポート役兼報告係(という名の監視役)にと遣わされてきたのだろう。


 それに対して天使時代の理恵――セリエルは、根の性格こそ優しくて真面目なのだが、どこかマイペースなところがあり、仕事はそこそこにこなし、手を抜くときは徹底的に手を抜くタイプで、上司からも目をつけられていた。


 その結果、人間に転生して、人間として人間を救うとかいう目的がよくわからないプロジェクトの第一号に選出されてしまった。要するに左遷だろうと理恵は考えているが、人間として生きるのもそれなりに楽しいので大きな不満はない。ただ、天使の力を使えない不便は感じていた。


「歩くのだるいなぁ……瞬間移動したい……」


 ため息をつきながらだらだらと歩いていると、前方に見覚えのある後ろ姿を発見する。


「おーい、藍子ー」


 先ほど教室で別れたばかりの藍子だった。呼び止め、小走りで藍子の近くまで駆け寄っていく。


「理恵? 用事は終わったん?」


 振り返る藍子はスティックキャンディを咥えていた。何か咥えていないと口が寂しくなるらしく、藍子は常にスティックキャンディを常備している。


「いや、忙しいみたいでダメだったよ」


「まあ、あの人はねぇ。なかなか空いてる時間なんてないと思うよ」


「ん? 藍子は先輩のことよく知ってるの?」


 藍子が知っているような口ぶりなので、聞いてみる。何か情報が得られるかもしれない。


「いんや、ただの噂レベルでしか知らんよ」


「噂?」


「もう東大に入学できるくらいの学力があるとか、芸能事務所からスカウトされてるとか、スポーツ万能で何やってもその部活のレギュラーより上手いとか」


「うわー、漫画の世界に出てきそう。それってマジなの?」


 自分では要領悪いとか言っていたが、それだけ聞くと全くそんなことなさそうだ。


「さあ? 噂で聞いただけだから知らんよ。んで、それがいい方の噂ね」


「いい方? てことは、悪い噂もあるの?」


「まー、あれだけ目立てば根も葉もない噂も立つやね」


「で、その悪い方の噂ってのは?」


「くだらん内容よ。実はめちゃくちゃ性格悪くて他人を全員見下してるだとか、遺伝子操作で作られた改造人間だとか、夜中に出歩いて援交してるだとか」


「はー、なるほどねぇ。本当にくだらないね……」


 もう少し有益な情報が得られるかと期待したが、人の噂話なんてそんなものか。


「ていうか、なんかムカつくなー、その噂」


 なんであれだけ努力している人間がそんな謂れのない噂を流されるのか、理恵には納得がいかない。


「これは完全にあたしの憶測だけど、会長って人望はあっても本当に仲のいい友達はいないんでないかな」


「え? なんでそう思うの?」


「いい噂も悪い噂も極端すぎるんよ。あの人のことをちゃんと知ってる人って一人もいないんじゃない?」


 言われてみれば、昼休みに茜の教室を訪れた際、クラスメイトたちは茜のことを名前ではなく会長と呼んでいた。

 クラスメイトたちにとって茜は、クラスメイトや友人である以前に生徒会長である、ということなのだろうか。それはなんだか、とても寂しいことであるようにも思える。


「もしそうだとしたら、先輩は寂しくないのかな」


「さてね。それは本人にしかわからんよ」


 もしかしたら、それが茜の抱える苦悩にも関係することかもしれない。努力することに苦は感じていないが、気の許せる友達がいない。だから一人であんな悪魔ごっこをしていたのかもしれない。


「藍子、サンキュー。もしかしたら答えが見つかったかも」


「うん? よくわからんけど、役に立てたなら良かったわ。そんじゃ、また明日ね」


 話がひと段落したところで帰路の分岐点となる分かれ道に差し掛かり、藍子がひらひらと手を振って別れを告げる。


「うん、また明日ね」


 理恵も手を振り返し、藍子の背中を見送る。


 藍子は紛れもなく理恵の親友だ。天使の記憶が戻る前にも何度助けられたかわからない。そして今もこうやって助けられている。

 自分も藍子にとってそういう存在でいられるように努めようと、理恵は強くそう思った。

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