5 変わるもの、変わらないもの
「ええ!? い、いや、そんな、いきなり言われても困るぞ!?」
マリエルの同居宣言を聞き、兄があからさまに動揺する。
「ご安心ください、お兄さん。わたくしは食事も必要と致しませんし、天使の衣服は汚れることもありませんので、お洗濯も不要です。ご家計の負担になることはありませんので」
兄が家計の負担を心配していると思っているのか、マリエルが補足する。
「ケーキ食べてるじゃないのよ」
「んふふ、生きるためには不要でも、美味しいものを食べると美味しいですし、温かいお風呂に入ると気持ちいいものですよ」
マリエルは幸せそうに微笑み、ケーキを口に運ぶ。
「あんた、そういえば昔から人間界のスイーツ好きだったっけね……。ていうか、兄さんが気にしてるのは、そういうことじゃないと思うけど」
「あら? そうなんですか?」
「いきなり、そんな、その、若い女の子が一緒に住むってのは、倫理的な問題があるだろ?」
「若い女の子って……こいつ、もう三百超えムググ!?」
「んふふ、やだ、お兄さんったら。もしかしてドキドキしちゃいます? わたくしのこと、そういう目で見ちゃいますー?」
マリエルは嬉しいのか楽しいのか、目をキラキラさせながら言う。媚びるように左手を頰に当てているが、右手では余計なことを言わせまいと理恵の顔面をがっちりと掴んでいる。
「いやいやいや、そういう目で見てるわけではなく……なくてだな……」
改まって言われると否が応でも意識してしまい、兄は見る見る間に顔が赤くなり、視線が泳いでしまう。
顔は理恵と同年代のように見え、あどけなさが残っているが、体の方は……いやいやいやと首を振って邪念を振り払う。
「天使には……人間の気持ちがぜーんぶわかるんですよ、んふふぅ……」
マリエルが兄にずいっと身を寄せ、妖艶に笑う。
「だーっ! そこまでよ!」
理恵はマリエルが兄にべったりと擦り寄ったことで拘束から解放され、二人の間に割って入った。
「あらら、残念です。んふふ」
言葉とは裏腹に全く残念そうではない様子で身を引き、ニコニコと笑うマリエル。
「兄さんも! こんな三百歳超えてる天使の色仕掛けで鼻の下伸ばしてんじゃないわよ、エロ兄貴! ほんっとキモい!」
「の、伸ばしてない!」
「伸びてた! 三センチは伸びてたぁ!」
「そんな伸びるか!」
伸びた伸びてないの言い争いがしばらく続いたが、兄が根負けし、多少は鼻の下を伸ばしたことを認めたことにより、鼻の下論争は終結した。
二人は時間にして二十分は言い争っていただろうか。その最中、マリエルは我関せずといった様子で、勝手に紅茶を淹れてくつろいでいた。
「あら、終わっちゃいました? お二人の喧嘩は見ていて楽しいので、続けていただいても構いませんよ?」
「まるで悪魔みたいなことを言うな……」
「こいつはこういう奴よ……」
二人は長い言い争いにより疲れ果て、ぐったりとテーブルに突っ伏した。
「それで、お兄さん的には、やはりわたくしが一緒に住むというのはまずいのでしょうか?」
「いや、うーん……」
「どうしてもダメ、ですか?」
涙目で、しかも上目遣いでマリエルが懇願する。
「……わかったよ」
溜息を吐きながら、渋々といった様子で承諾するが、実際のところはあんな目で見つめ続けられたらまた鼻の下を伸ばして理恵に怒られてしまいそうだからであった。
「やったぁ、やっぱり、お兄さん優しいですね」
「えぇぇ……マリーと一緒に住むとか絶対疲れる……。兄さんチョロすぎ……」
嬉しそうなマリエルに対し、理恵は心底嫌そうにしている。
「そもそも、ここに住むって言っても部屋がないでしょ」
理恵の言う通り、兄妹二人暮らしで2LDKのマンションに住んでいるのだが、二つの部屋はそれぞれ兄と理恵とで使用しているため、マリエルが住める部屋はない。
「んふふ、お構いなく。わたくしはお兄さんのお部屋にお邪魔しますので」
「「構うわ!」」
兄妹のツッコミがシンクロする。
「残念です。それでしたら、セリーのお部屋にお邪魔しますね」
「うぐ、それはそれで嫌ね……かと言って居間で寝泊まりされても邪魔だし……はぁぁ……仕方ないか……」
「やったぁ。セリーはなんだかんだ言ってても、最後には優しいから好きですよ」
心底嫌そうに溜息を吐く理恵に、マリエルが抱きつく。
「う・ざ・い!」
「お二人とも、今後ともよろしくお願いしますね」
「あー、うん、よろしく、マリエル」
「んふふ、気軽にマリーと呼んでください。お兄さんはなんて呼ばれると嬉しいですか?」
「え? 別にそのままでいいよ」
「例えば、そうですねぇ……にぃにぃ、とか?」
その言葉を聞いた理恵の顔がボッと赤くなる。その呼称は、理恵が幼いころに兄を呼ぶときに使っていたものだ。
「ああ、懐かしいな、それ」
「お、おお、お、おま、な、なんで知ってる!?」
慌てふためく理恵を見て、その反応を待っていたと言わんばかりに満足気に笑うマリエル。
「んふふぅ、わたくしはセリーのことを愛してますから。天界から定期的に観察……じゃなくて、見守ってたんですよ」
「引くわ……いや、引くを通り越してキモいを通り越して、怖いわ……」
理恵は割と本気で言っているが、マリエルは全く気にする素振りを見せず、穏やかに微笑んでいる。
「あらら、わたくしの愛を受け入れていただけないなんて、寂しい限りです。さて、わたくしもお引越しの準備をしなければいけませんので、一度失礼しますね」
「ああ。また明日来るのか?」
「いえ、天界での手続きに一週間ほどいただくと思います」
「願わくば、もう来ないで欲しいわ……」
「ああ、それと、お兄さん。一つ、いいことを教えて差し上げますね」
マリエルは立てた人差し指を唇につけると、悪戯っぽく笑った。
「うん?」
「通常、天使から人間や人間界の物に干渉はできても、逆は不可能なんです。残念ですが、お兄さんからは、わたくしに触れることができません」
「さっさと帰れ、エロ天使」
マリエルがまたロクでもないことを言い出すことを察知し、理恵が家から押し出そうとするが、理恵の手はマリエルの体をすり抜けてしまう。
「この通り、人間からは天使に触れることは叶いません。今はわたくしが意図的に姿を見せていますけど、通常は視認することもできないんです」
「へぇ、そうなんだ」
たしかに最初はマリエルの姿が見えなかった。
「でも……」
マリエルが唇を兄の耳元に近づけ、そっと囁きかける。
「次に会うときには受肉してきますから……触れますよ」
瞬間、兄の顔が一気に赤くなる。
「な、な、な、なに言って!?」
「あーもう! 絶対そういうこと言うと思った! あの顔はそういう顔だった! そんで、また鼻の下伸びてる! 兄さん最低!」
「の、伸びてない! これくらいで伸びるわけがあるか!」
「んふふ、それでは失礼致しますね。ごきげんよう」
また先ほどと同様の論争が始まろうとするが、マリエルは気にせず姿を消し、退散した。
「…………」
「…………」
元凶が消えたことにより、二人の言い争う気も消え失せた。
「なあ、理恵」
「セリエルだけど……まあ、もうどっちでもいいや……なに?」
「なんか色々大変そうだけど、困ったことがあったら兄ちゃんも力になるからな」
「……マリーの色仕掛けにやられてなければ、格好いいと思える台詞なんだけどねぇ」
あんなドギマギした姿を見せられては、兄の威厳も格好良さも九割減である。
「うぐ……つ、次からは、ああいうことはない。兄ちゃんを信じろ」
「はーいはい。マリーのせいでドッと疲れたから、もう寝るわ……」
「歯磨けよ」
「わかってる。おやすみ、兄さん」
歯を磨きに洗面所に行く途中、理恵が立ち止まる。
「い、一個だけ、言っとく」
兄の方を振り返るが、赤面し、体はぷるぷると震えている。
「あのエロ天使よりも! わたしの方が! 絶対に兄さんのこと好きだから!」
言うや否や、一目散に洗面所へと逃げ出していく。
「そっか……ありがとな」
妹は天使の生まれ変わりで、唐突に前世の記憶が蘇ったとか言われて、挙げ句の果てには変な天使も現れた。
これからは今までと違う生活になるのかもしれないが、根本にある兄妹の絆に変わりがないことを確認できた。それならきっと、大丈夫だろうと兄は安堵した。
三人の人間を救い出す天使セリエルの物語は、ここから始まる。
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