Episode 14

 いい匂いがした。温かくて柔らかい。

 うつ伏せで目を閉じたまま、心地の良い感覚に身体を預ける。そうしていると何だか心が落ち着いた。どこか懐かしい感覚に、このままずっと身を委ねていたいと芳文は思った。


「……芳文先輩」


 呼ぶ声がした。

 聞き覚えのある声だった。明るくて、笑顔の絶えない少女の声。ふわふわとはっきりしない意識の中で、その声につられて直前までの記憶がぼんやりと浮かび上がってくる。

 そこへもう一度。


「芳文先輩!」


 今度はそう強く呼ばれて、意識は一気に現実へと引き戻された。

 はっとなって上体を起こす。


「……あ」


 その瞬間、芳文は息を詰めた。

 自分がどこに身を委ねていたのか理解したからだった。

 目の前に、少女がいた。

 それも、とびきりの美少女だ。

 すらりとした体躯に、さっきまで芳文が顔を埋めていただろう意外と大きな胸。乱れたシャツの襟元から覗く白い肌。薄っすらと紅のひかれた唇と、そしてほんのり赤く染まった頬。

 ウェーブがかった長く艶やかな黒髪に、大きな蒼氷色の瞳が印象的なその少女は、学院一の美少女と言われる同級生で――

 つまり芳文が覆い被さっていたのは、常盤遥子だったのである。

 その事実に頭が回らず固まっていると、不意にこちらを向いた遥子と目が合って心臓が止まりそうになった。


「う……」

 

 真っ直ぐにこちらを射抜く、彼女の青い瞳。

 普段なら感情を読み取らせないその瞳には今、誰が見てもわかるほどの怒りの感情に溢れていた。


「……えっと。これは、その」


 何か言わなければ、と口を開きかけた瞬間。

 乾いた音が、落とし穴の底で鳴り響いた。


「早くどきなさいよ、この変態!」


 そんな怒声とともに、頬に走った強烈な痛み。

 弁解の余地はなかった。引っ叩かれた勢いで地面に倒れ込んだ芳文は、そのまま端の方で左頬を押さえながら涙目になって蹲る。


「あー、もう!」


 その横で、苛立たしげに起き上がった遥子。

 彼女の怒りはそれだけに収まらず。円形の窓のように青い空と緑の葉が覗く落とし穴の口をキッと睨め上げ、そして――


「何なのよ、この森! 狼に、落し穴に、ガイコツに、また落とし穴! 馬鹿にしてんの! 絶対、馬鹿にしてるわよね! どうせどっかで見てるんでしょ! 笑ってるんでしょ! 今すぐ出てきなさい! ボコボコにしてやる! 絶対、許さないんだから!」


 ここに至るまでの出来事が、積もり積もった遥子の感情を爆発させる。

 およそすべての原因がクライブにあると決まったわけでもないのだが、それでも少女の矛先はただひとり、この森へ来ることになったそもそもの起因であるあの男へと向けられた。

 そうして怒りにまかせて叫び散らす彼女には、もはやいつもの凛とした姿はどこにもない。


「……えー」


 そんな先輩たちの傍で、何とも言えない表情を浮かべるのは弥里だった。


「ごめんなさい……」


 落ちたのは自分のせいでもあるが、まさかこんな状況になるとは。

 謝ること以外、弥里にはもうどうすることもできない。しばらく呆然と立ち尽くしていた彼女だったが、やがて意を決したように遥子の背中へ声をかけた。


「……あ、あの。常盤先輩」

「なに?」

「とりあえずここから出ましょう。じゃないと合流もできないですし」

「それもそうね」


 振り返った彼女はひとしきり叫んですっきりしたのか、思いのほか穏やかな表情で弥里に応じた。彼女は後輩の提案を素直に受け入れ、そして端の方で未だに蹲っている芳文へと視線を向ける。


「いつまで丸まっているの、そこの変態落ちこぼれ。行くわよ」


 声をかけられ、芳文はようやく動き出した。

 不名誉な呼称がまた増えてしまったが今さらである。否定する気も起きず、もはやどうでもいいという気分で立ち上がった、そのとき。


「なーにやってんだお前ら!」


 と、頭上から声が降ってきた。

 その荒っぽい口調には覚えがあった。


「……あ」


 振り仰げば、やはり石動直也がこちらを見下ろしていた。

 その横には拓海の姿もあった。彼はこちらを確認したのち、直也へ何か指示をしている。それを受けた直也が、面倒くさそうに足元の地面へ手をついた。


「うわっ」


 突然、地面が揺れて芳文は思わずよろめいた。

 直也によるものだった。地響きとともに地面がせり上がり、落とし穴の底にいた三人はそのまま地上の高さまで上昇していく。


「よかった、合流できましたね」

「そう、だね……」


 安堵する弥里に対し、芳文はどこか曖昧な返事をする。

 なんとも見られたくないところを、一番見られたくない相手に見られてしまった気がしていたのだ。幸いだったのは、あの瞬間を見られなかったことだろうか。

 それでも目敏く、直也が指摘してくる。


「お前、それどうしたんだよ」

「……これは、落ちたときにちょっと」


 未だにヒリヒリする頬を押さえつつ、芳文は視線を逸らす。

 そのまま、これ以上の追及を躱すように疑問を返した。


「それより、よくここがわかったね?」

「たまたまだ。石動から地面に妙なへこみがあるって聞いてな。もしかしてそこにいるんじゃないかって思ったんだ」


 拓海が答え、直也が言葉を継ぐ。


「ったく、突然いなくなりやがって。一体何やってたんだよ」

「こっちだっていろいろあったんだよ」

「いろいろ?」

「そう。穴に落ちたり、動くガイコツが出てきたり、また穴に落ちたり」

「は? なんだそりゃ」


 芳文のざっくりした答えに、直也たちが怪訝な表情を浮かべた。

 その様子を見兼ねた弥里が、芳文に代わって今までの経緯を詳しく説明する。さしもの拓海や直也も、動くガイコツや髑髏が転がり落ちてきた話のあたりで奇異の目を向けていたが、それでも否定はしなかった。

 むしろ、こう応えたのだ。


「何だ、そんなもん想像したのかよ」

「想像?」

「ああ。ここでは考えたものが現実になるんだと」

「……なるほど。そいうことだったのか」


 それを聞き、芳文は納得したように頷く。

 意外とあっさり受け入れることができたのは、心当たりがあったからだ。

 実は、魔狼が出てきそうと思ったのは芳文だった。父と同じように本が好きな芳文は、そこで読んだ物語のように狼が襲撃してくる場面を思い浮かべていた。それが後に現実となり、本当に魔狼が襲ってきたときは心底驚いたものだ。その際いち早く気づいていながらその攻撃を避け損なっていたのは、それが理由だった。

 そして、立て続けに起こった不思議な出来事。

 落とし穴に動くガイコツは、少女たちが考え恐れたものなのだろう。どうりで突然目の前に穴が現れたり、笑う髑髏どくろが出現したりするわけである。

 すべては、この古森の特殊なエネルギーによって生み出された現象だったのだ。




  ***

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