Episode 5

 月のない夜だった。頭上で煌めく星々が美しい。

 人里から離れた場所に拠点をおく〈焔凪えんな〉の夜は、昼間の喧騒とは打って変わって静寂に包まれている。あまりにも静かすぎて、初めは草木が揺れるたびにビクビクと怯えていたが、今となってはもう慣れたものだった。

 宝物庫の裏手。風に揺れる梢の音も気にせず、芳文は木剣を振るう。

 誰に言われたわけでもなく、父から教わったことをひたすら繰り返し続ける。この場所で、人知れず鍛錬を積むのが日課だった。数時間前には心が折れていた芳文だが、それでも日々の鍛錬を怠らないのは、まだどこかで完全に諦めてはいないからだろう。

 木剣を握る手には、自然と力がこもった。

 それに呼応するように、手元で燃え上がる小さな炎。

 その萌黄色の炎は、木剣を燃やすこともなく宿り続ける。

 振るって、振るって、振るった。

 悔しさも。

 情けなさも。

 湧き出る感情、そのすべてを振り払うように。

 湧き出る感情、そのすべてを焼き払うように。

 ただ、ひたすら。

 一心不乱に振るい続ける。

 動きにはブレこそないが、その様はほとんど自棄だった。

 だけど、止まらない。

 それでも構わず続けた。

 勢いに身を委ね、また一歩。

 次の一歩を踏み出した、その瞬間。


「――――――っ!?」


 衝撃が、意識を現実へ引き戻した。

 宝物庫の石壁を、何かが突き破ったのだ。


「えっ……」


 動きを止め、呆然と立ち尽くす。

 少しの間を置いてようやく振り返った芳文は、何事かと視線を巡らせた。

 見れば、ぽっかりと口を開けた宝物庫の分厚い石壁。その傍らには散乱した瓦礫があり、それに紛れて蹲る良く見知った獣の姿――空色の隈取りに、純白の毛並みを持つ狼の姿があった。


「――ソラ!?」


 弾かれたように、その名を叫ぶ。

 芳文は慌てて彼のもとへ駆けつけた。


「大丈夫か? 何があったんだ?」

「ああ……」


 その声に応え、ソラは朦朧とした意識の中でゆっくりと言葉を口にする。


「……《ルミナス》が、盗まれた」

「え…………」


 そう呟いて、思わず硬直した。

 一瞬の戸惑いの後、その言葉の意味を理解した芳文から素っ頓狂な声が出た。


「《ルミナス》が盗まれた!?」


 愕然とする。信じられなかった。

 最初、聞き間違えかと思ったくらいだった。しかしこの状況だ。嘘などつくはずもないし、確かに『盗まれた』とそう聞こえた。それでも、簡単には受け入れられなかった。

 ――光の石『ルミナス』。

 それは、〈焔凪えんな〉が所有する至高の宝玉。かつてこの地にある山に棲んでいた龍から授かり、歴代の首領が現代に亘って受け継いできた唯一無二の宝である。その見た目から『龍の瞳』という異名を持つ《ルミナス》は、宝石という美しさと同時に計り知れないほど強大で純粋な光の力が秘められていることでも有名だ。

 そして――

 その保管場所は、ここ〝宝物庫〟の最深部にある。

 といっても、当然ながら簡単に手に取れるような場所にはない。実物こそ見たことがない芳文だったが、その事実を知っているからこそ受け入れ難かった。

 なぜなら、最深部に至ることは絶対に不可能だからである。

 そこへ行くことができるのは、首領と相棒のソラのみ。それ以外の者が許可なくその区域に足を踏み込めば、即座にセキュリティが作動し、侵入者を容赦なく撃退する。たとえ、それを運よく逃れたとしても、その道のりにはありとあらゆる仕掛けが施されているのだ。そこを潜り抜けるなんて、もはや不可能。

 事実、過去にまだ学院を出たばかりの青年たちが腕試しと称して宝物庫の地下に侵入したことがあったが、彼らは皆一様に命を落としかけている。首領とソラによって無事救い出され事なきを得たが、もし二人が不在だったらと考えると本当に恐ろしい。

 結果として、この騒ぎは許可なく宝物庫へ入ることがどれほど危険な行為であるかを知らしめることとなり、それ以降そのような無謀で愚かな挑戦をする者は一人もいなくなった。

 それほどまでに厳重で、誰もが恐れる宝物庫の最深部。そこへ侵入し、ましてや《ルミナス》を盗み出して戻ってくるなんて考えられない。しかし、もはや奇跡としか言いようのないその所業をやってのけた者がいると言う。

 それは一体、何者なのか――


「…………っ!」


 近づいてくる足音に息を詰めた。

 恐る恐る振り返った芳文は、やがて宝物庫の壁にぽっかりと開いた穴から現れた人影の、その正体に思わず目を大きく見開いた。


「――おや。また会ったね」


 その眼差しを平然と受け止め、柔らかな笑みで応じる男。


「あなたは……」


 星明りの下、姿を露わにしたその男には見覚えがあった。

 年は三十代半ばくらい、くせのある茶髪に碧眼。穏やかで優しげな雰囲気の彼は、確かソラが『れい』と呼んでいた男である。

 つい数時間前のこと。段ボール箱から溢れるほどの本を運び、宝物庫に持っていくよう首領に頼まれたのだと言っていた彼のことはまだ記憶に新しい。

 それだけに、見間違うはずもない。

 黎、本人で間違いなかった。

 そして、彼がこのタイミングで宝物庫に開いた穴から出てきたということは……。


(でも……)


 決めつけるのにはまだ早い。

 考えてみれば、宝物庫に彼がいても別におかしくはないのである。ただ疑問に思うのは、頬には擦り傷が見られ、きっちりと着こなしたスーツやその上から羽織っている漆黒のコートは汚れ、破れているところがあること。

 真偽を確かめるべく、芳文は尋ねる。


「黎さん。こんなところで何をしているんですか?」

「何って? 言っただろう、宝物庫へ荷物を運び込んでいたのさ」


 困ったような表情を浮かべ、黎は質問に応じた。


「書物の整理に思ったより手こずってしまってね。こんな時間になってしまったが、今やっと終わったところなんだ。それで、戻ってみればこの有様だ。一体、何があったんだい?」


 納得のいく返答だった。

 それを告げる彼の声はとても自然なもので、思わず信じ込んでしまいそうになる。

 しかし、それに流されてはいけない。見逃してはならないものが、そこにはあった。いくら芳文でも、その事実を無視できるほど愚かではなかった。


「惚けないでください。そのポケットの中に入っているものは、《ルミナス》なんじゃないですか?」


 彼が着るコートの右ポケットを指し示し、芳文はそう指摘した。

 よく見れば、暗がりの中でポケットが仄かに光をあげていたのである。それほど、強力な光を放つ物。明らかに、ライトなんかの人工物とは違う強大なエネルギーの存在感。その光源は《ルミナス》以外には考えられなかった。


「ああ、そうだよ。君の言う通りだ」


 別に隠す気などなかったというように、驚くほどあっさりと黎は認めた。

 その様子に困惑し、芳文は眉をひそめる。


「黎さん、どうして……」




***

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