Episode 3
「……やっと、終わったー」
外に出て、ぐーっと身体を伸ばす。
昼間のぽかぽか陽気も、日が暮れてくるとまだ少し肌寒い。でも今の芳文にとって、このひんやりとした空気が心地よかった。自然の中へと身を置くように目を閉じ、何度か深呼吸を繰り返してからほっと一息。別に何を成し遂げたわけでもないけれど、緊張が解けて身体から力が抜けていくような感覚に包まれる。
一日の終わりを告げる、黄昏時。芳文にとって、この時間が一番幸せだったかもしれない。夕方になれば授業から解放される。そうすれば、自分の駄目ぶりを誰にもさらさずに済むのだから。
だけど、それも束の間。すぐにまた明日はやってくる。ぼんやりと空を見つめながら、繰り返される毎日の憂鬱さに自然とため息が零れた。
そのとき。
「――よう、芳文」
右後方から軽やかな声が聞こえて、思わずびくりと肩を震わせた。
振り返ると、そこには白い狼の姿があった。
「ソラか……」
安堵とともに、その名を呼ぶ。
雪のように白い毛並みに、蒼穹を思わせる鮮やかな青色の隈取りのような模様をその身に刻む狼ソラ。〈
「びっくりしたー」
と言いながら、前にも似たようなことがあった気がして。僕はこんなにビビりだっただろうかと自問しつつ、不意打ちはやめてほしいなんて思う芳文だった。
「どうした、ぼうっとして。また自虐タイムをお楽しみか?」
「違う」
ソラの言葉を否定しつつ、肩を竦める。
「てか自虐タイムって……」
「的確だろ」
ドヤ顔で言ってくる彼に、芳文は眉を
「変な名前つけないでよ。それに楽しくてやってるわけじゃない」
「そうなのか?」
「そうだよ」
楽しいはずがあるわけない。
ただ、またと言われる自覚は確かにあった。むしろあり過ぎて、そこは反論できなかった。実際、芳文はいつも落ち込んだり自分を責めたりしたりしている。今ではすっかり、そうやって過ごすことが日常となっていた。
考え過ぎ、なのかもしれない。
でもそれは、仕方がないことなのだと思う。そういう部分もまた、高木芳文という人間の一部で。だからきっと、そんな性格も受け容れて上手く付き合っていくしかないのだろう。
ざあっと吹き抜ける風に誘われて、芳文の視線が流れる。
「あ……」
その先で、姿勢良く歩く少女の姿が目に留まった。
美しい少女だった。ふわりと揺れる、ウェーブがかった艶やかな長い黒髪。凛とした強さが宿る、蒼氷色の瞳。端正な顔立ちに浮かぶ、静かで澄んだ表情。華奢な身体に同じ色の制服を纏い、一冊の本を持って颯爽と歩いていく彼女に、芳文は思わず見惚れてしまう。
「気になるのか?」
「べ、別に……」
訊かれて、慌てて視線を逸らした。
その様子を見て、ソラがからかうように続ける。
「好きなんだろ、遥子のこと」
「なっ……」
わかりやすく動揺する芳文に、ソラはにやりと笑みを浮かべた。
「やっぱり好きなんだな」
「いや、そんなんじゃ――」
「告白したのか?」
「するわけないだろ、そんなこと」
「何で?」
「何でって……、そもそも無理に決まってるし。彼女は
口を利いてくれるかだって怪しい。
そんな風に断言する芳文に苦笑を浮かべるソラだったが、そう言うのも無理はなかった。
常盤と言えば、〈
それに加え、彼女の美しい容姿。学院一の美少女としても知られている遥子は、男女問わず憧れの対象で、誰もが注目してやまない存在である。
なのに、彼女に声をかけでもして変な噂でも立てば、それこそ散々な目に遭うことが容易に想像できる。落ちこぼれというだけでもうんざりしているというのに、そんなのは死んでも御免だ。
「でも、やってみなければわからないだろ」
「やってみなくてもわかるよ」
「そんなことないさ」
そう言い返したソラは、少女が歩いて行った方向へと視線を向ける。
「声かけづらいんなら、俺がかけてやるよ」
「は? ちょ、待っ――」
引き留めようと慌てて伸ばした手は虚空を掴む。
駆け出したソラの素早いこと。見れば、もう声をかけていて。それから間もなく戻ってきた彼の後ろには、果たして常盤遥子の姿があった。
「話したい人がいるって、こいつのこと?」
「ああ」
肯いたソラが、引き継ぐようにこちらへ顔を向けてくる。
あとは頑張れよ、という感じの表情。そんな彼に、勝手に何してくれてるんだと言いかけて口をつぐむ。今さら文句を言っても仕方がない。こうなったらもう覚悟を決めるしかなかった。
顔を上げ、思い切って遥子の方へと向き直る。
「…………っ」
瞬間、息を止めた。
向けられる彼女の視線にドキッとした。こうして対面すると彼女は本当に美人で、その澄んだ双眼にじっと見つめられるだけで鼓動が高鳴る。
「それで、話って何?」
「あ、ああ……えっと……」
言葉に詰まり、困ったように視線を彷徨わせる。
どうしようかと考えを巡らせていると、途中でソラと目が合った。彼は『行け!』と言わんばかりに顎をしゃくる。
しかし、告白とかそんなことできるはずがない。
そもそも彼女と話をする心の準備すらできていないのである。憧れの少女を前に緊張して頭の中は真っ白で、そのうえ俄かにざわつき始めた周囲の気配に早く話を済ませなければという焦りが加わって余計に頭が回らない。
何だかくらくらしてきた芳文は、彼女の手元を見て咄嗟に口を開く。
「――そ、その本」
「本?」
小首を傾げ、遥子は左手に持っていた本を示すように持ち上げる。
小説だろうか、彼女が手にする四六判サイズの本にはブックカバーがされていた。こくこくと頷き、芳文は続ける。
「そう、それ。何読んでるのかなって。僕も本が好きで、気になってさ……」
「あんたには関係ないでしょ。そんな下らないことで話しかけないで」
そう冷ややかに告げると、遥子はそのまま踵を返した。
去っていく彼女を、芳文は呆然と見送る。
「……ですよねー」
もっともな返答に苦笑するしかなかった。
***
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