後編・終
花さんに案内されたそこは、そこそこ大きなマンションだった。
綺麗なマンションだが、家賃はそう高くはなさそう……多分、埼玉あたりなら、9万円くらいで借りられる程度のマンションだった。
「さあ、どうぞ上がってください」
花さんはそう言って、俺に中に進むように促した。
俺は言われるがまま、スリッパを履き、中へと入る。
部屋は狭くはなかった。かといって、タワーマンションとかの部屋と比べると、秘匿はないだろう。
大体、家族4人が暮らすのには、丁度いい程度だろうか。
「悟さん、お客様ですよ」
その一室を、こんこんとノックする花さん。
すると中から、「どうぞ」と若そうな声が聞こえてくる。
ガチャリ、と中に入ると、そこには大量の本棚に囲まれた部屋……書斎、とでも言えばいいのだろうか。
中は少し埃っぽく、遮光カーテンがかけられており、電気がついている。部屋の隅には一人用のソファが置かれており、その前にはコーヒーとお茶菓子を置ける程度の小さな机が備わっていた。
その部屋の中心に、勉強机サイズの机が置かれており、そこに一人の男性が座っていた。
男性は背中しか見えないが、少しほっそりとした印象を受ける。
キーボードを鳴らす、『カタカタ』という聞きなれた音と、デスクトップパソコンのファンが回る音が、やけに耳に残る。
「悟さん、今朝、町長さんが言っていた、記者さんです」
「こんにちは。どうぞ、そちらに腰かけてください。花さん、悪いんだけど、お茶を入れてくれるかな。僕にはいいから、記者さんにだけ」
「ああ、お構いなく。館長さんのところで、お茶を3杯も飲んでしまいましたから」
「そうですか。そういうことなら……」
「わかりました、私は失礼します」
花さんは一言だけそう言って、部屋を後にする。
俺は少しだけ様子を見て、遠慮がちに部屋の隅のソファへと座った。
「初めまして、悟といいます。すみませんね、こんな格好で」
そう言う男、悟さんは、キーボードを打つ手を止めて、くるりと回転椅子を回して、こちらに体を向ける。
彼はだぼだぼのシャツに、スウェットズボンといった格好で、髪はぼさぼさ、髭は3,4日は剃っていない程度には伸びている。
あまり肉はついてはいないが、やせすぎているというわけでもなく、運動不足な若者、というように見えた。
「いえ……お仕事中、でしたか?」
「ええ、まあ。一応、小説書いていましたが、一休み入れるところだったので、気にしないでください」
「小説家なんですね」
「はい。といっても、全国的にはそこまで売れてませんが。この町の人たちには、ありがたくもそれなりに読んでもらってます」
悟さんは恥ずかしそうに顔をうつ向かせながら、後頭部を掻いた。
「どんな小説をお書きに?」
「恋愛小説ですよ。昔の恋、というやつを書いています。昭和風の作風を書いてるもんで、高齢な方に好まれているようですね」
「なるほど。ところで、先生も、記憶を消す薬を飲んでいらっしゃる、んですよね?」
「悟でいいですよ。先生、と言われると背中がむずがゆくなります……飲んでいるのかという質問に対しては、答えはイエス、です」
「なぜ、と聞いていいでしょうか」
花さんからは、楽しい記憶を消すため、と聞いていたが、あくまでそれは個人の感想……全員が全員、とは思っていない。
だからこそ、なぜ消すのか……それが知りたかったのだが。
「楽しい記憶を消すため、ですよ」
「悟さんもですか?」
「はい。というより、この町の人達は、多分みんな、同じだと思います」
「……なぜ、なのでしょう?」
「なぜ、と言われても、少し困りますね……。ただ、消す記憶は人それぞれだと思います。好きな人との楽しい記憶、好きな漫画の記憶、好きなスポーツの記憶……人にはそれぞれの価値観がありますから」
「……では、質問を変えてみましょう。悟さんは、どんな記憶を消しているのですか?」
「僕ですか」
悟さんは一瞬だけ考えるように顎に手を当てて、続けた。
「そうですね、色々ありますが、やっぱり、一番は『自分が書いた小説の記憶』でしょうか」
「自分の書いた小説が好き、ということですか?」
確かに、自分が書いたものが一番面白い、と考えるのは、物書きの性かもしれない。
俺自身、俺の書いた記事はほかの記事よりも面白いと思いながら書いているし、実際、面白いからこそ、それなりにファンも定着していると思っている。
「少し違いますね」
「違う?」
「僕は、面白い小説を書くことが好きなんです」
「………何が違うんですか?」
「わかりにくいですかね……。英語でいうところの、DOが好きなのであって、ITEMが好きではない、ということです」
「つまり、面白い小説自体ではなく、面白い小説を書くことそのものが好き、ということですか」
「はい」
悟さんはパソコンのキーボードに指を滑らせて、感傷的な表情を浮かべながら、パソコンを流し見た。
「僕は自分の書く小説は面白いと思いながら書いています。でも、いつまでも自分が満足するような、面白い小説が書けるわけじゃない。書いているうちに、次はもっと、次はもっとと、自分の書く小説に満足できなくなる時が来ると思います。所謂スランプも、そういった思考から陥るものだと思っています」
「つまり、自分の『面白いの基準を、リセットしている』……そういうことですか?」
「ああ、それです。流石は記者さんだ、うまい言い回しですね」
悟さんはぽんっ、と手を叩き、うんうんと頷いた。
スランプに陥る物書きは、何が面白いのか、自分では全く分からなくなっている、か。
つまらない話も面白いと思い込むし、面白い話もつまらないと思い込む。
僕自身、未だその状況に陥ったことはないから、わからないけれど、彼はそれを恐れているのだろう。
「よろしければ、悟さんの『面白い』を、僕にも共有させてもらえませんか?」
「構いませんよ。僕は仕事をしていますから……僕の書いた本は、花が持っていますから、リビングででも読んでいってください。僕は、仕事がありますので」
●●●
「どうですか? 記事の参考になりましたか?」
部屋を出てリビングに行くと、リンゴを向いている花さんに声をかけられた。
「ええ、とっても。悟さんの書いた本があると聞いたのですが、良ければ読ませていただけませんか?」
「ああ、それなら、テレビの下の棚の本がそうですよ」
言われてそちらに眼をやると、そこには明らかに有名どころの漫画本やライトノベルにしか見えない本が10冊ほど並んでいた。
「カバーは違いますけど、中身はすべて彼の小説です」
俺の疑問を察してか、花さんは先回りするようにそう言って、
「でも、読むのは一冊でいいと思います」
と、続けた。
「なぜです?」
「読めばわかりますが、記者さんは、小説って何からできてると思いますか?」
「え、そりゃあ、文字でしょう」
「そういう話ではないのですけどね……小説は、人の記憶や経験から生まれているんですよ。いわば、積み重ねなんです」
「…………」
花さんは剥き終わったリンゴを大根おろし器ですりつぶし、皿に山を作りながら、言った。
「彼の小説、名前や言い回しが違うだけで、内容は全部同じなんですよ」
花さんの顔は、それはもう呆れ困っていた。
【短編・完結済】記憶を消せる町 一般決闘者 @kagenora
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