第1話
一章
「平塚さん。今回出演なさるドラマはどういったものなんですか?」
「はい、このドラマは小さい頃に日本を離れて海外に移住した女の子が、大人になって日本に戻ってきた時、子供の頃に約束しあった男の子と再会するドラマになります」
「へー、少し変わっていますね。それに今回は平塚さんの初主演作ということで話題を集めていますが、その辺についてはどう思われていますか?」
「主役に抜擢していただいたことは光栄なことですけど、それよりもしっかりこの作品の良さを引き出すことが大事なので、私の演技が足を引っ張らないように頑張ります」
「なるほど。それでは来月から始まる新ドラマ「夢の中で会えたら」でヒロイン役を務める、平塚凪咲さんに今回はお越しいただきました」
そういってテレビ画面に映る女優は司会者に頭を下げる。
それを僕は近畿新聞オフィスの天井から吊るされているテレビでぼんやりと見ていた。
凪咲はちゃんと女優になったんだと驚く一方、あいつならそれくらいはできる才能があったんだなぁ、ぼんやりと思う。
しかし、僕も新しい社会人生活をスタートさせなければならないのだ、ここは気合を入れ直さなければならない。そう思い、背筋を正す。
四月。
大学二年生の時に介抱した女性と別れた後に僕、木南陽介はパソコンを開いて近畿新聞の新卒採用について調べ、そこから残りの大学二年間をそこへの就職を目指すのに費やし、そしてこの春、僕は晴れてこの新聞社に入社することが出来た。
自分でもなかなか酔狂な理由をしているな、とも思ったが、それまで就職について一切考えていなかった自分にここまでの行動力を生み出させるほどには、あの初夏の夜の体験は強烈なものだった。
今は入社式を終えた直後で、僕を含めた新入社員は先輩の社員に連れられ簡単に社内を案内された後、少し開いたスペースに集められている。
「おっしっ、全員集まってるな。じゃあ今から新人のお前らにそれぞれの所属部署を言い渡す。その前に、各デスク担当から挨拶……、というか部署の説明だ」
野太い声の持ち主に顔を向ける。新聞紙を丸めて肩を叩いている白髪のおっさんの名前は「石水康弘」、ここ近畿新聞の社会部キャップだ。
「ちなみに俺の肩書の『キャップ』というのは……、まぁ記者のまとめ役で、あれだな、お前らよりも白髪が増えた爺さんってことだ。」
と、先に集まった僕等新人に向かって、石水さんは自分の役職については少し投げやりに説明してくれた。
一目見た印象は頼りがいのあるおっさんそのものだが、その通りの良すぎる声は少し怖い印象を与えるらしく、他の新入社員の何人かは石水さんが声を発するたびに驚いている。
そんな石水さんの先導で始まった各デスク担当の挨拶。
新入社員の前に横一列に並んだ数人が順番に自分の部署についての説明をする。
デスク担当というのは一般的な新聞記者とは違い、記者が書いた原稿の最終校正をする人で、簡単に言えば君らの上司のようなものだ、と石水さんが社内について案内してくれているときに説明してくれた。
「政治部担当の鈴木明日香です。うちのデスク担当は今急用で外しているので私が代わりに」
何人かデスク担当が挨拶した後、新入社員がどよめいたのが政治部だった。
それはひとえに挨拶の代役をしている「鈴木明日香」という女性の容姿ゆえだ。
背は僕と同じくらいで、スーツが浮かび上がらせるすらっとした体と、タイトスカートから伸びる白く長い脚はとても上品に感じる。眉毛が長いせいなのか目元がくっきり大きく見え、整った鼻筋や口元との調和も取れており誰もが美人と認める顔立ちをしていて、新入社員の男はもちろん女の子の中でも思わずその容姿に声を上げる人もいた。
本人はそんな反応に慣れているのか、笑みを浮かべたまま流すと簡潔に政治部のしていることについて話した。
話し方や声音からも鈴木さんの人柄の良さを感じることができ、「あの人と一緒に働けたらいいね」と小声で話し合う新入社員の女の子の声も聞こえた。
「ありがとうございます」
そう鈴木さんが締めると、皆が一斉に拍手をした。代役を労うの半分、彼女へ向けての好意半分という感じで、彼女はそれを笑ったまま照れくさそうにしていた。
「さて、最後は……、ってあいつまだ来てないのか?」
鈴木さんの挨拶が終わると石水さんがそう呟く、その直後。
「すいませんっ! 遅れました!」
後ろから大きな女性の声が聞こえた。
「おっ、来たか。お前で最後なんだ、頼むぞ」
石水さんが首を動かして促し、最後のデスク担当者が移動する。
準備が整うまでの間、「デスク担当の女性って、そういえばこれが初めてか」なんていうことを考えていた。
「ええっと、皆さん初めまして」
その声で現実に戻され、声のする方を見た。
「あっ」
思わず声が漏れてしまった、周りの新入社員が一瞬こちらを振り向くが、僕が気づいていないように振舞うと、そのまま前に向き直った。
「早川冴姫と言います」
知ってる。
「社会部のデスク担当をしています。デスクは今年から始めたばかりなので、皆さんと同じですね」
そうやって笑った顔は、二年前に僕の家で見た時よりも自信に満ち溢れていた。
そうか、あの後もちゃんと頑張ったんだ、この人は。やっぱり凄い人だ。
「私も君達も新しく学ぶことが多いと思うけど、きっとそれは良い経験になると思うから、これからしばらくの間一緒に頑張っていきましょうね」
そして彼女は社会部について説明していったが、そんなのは全く頭に入ってこなかった。
ただ彼女をずっと見つめていた、彼女は僕が見つめていることに気づいていないだろうから、ただ彼女をじっと見つめた。
彼女が自暴自棄になっていたあの日が夢なんかじゃなく、あの日見た彼女の強さは僕の見当違いなんかじゃなく、そして僕の信じた決意が実を結んだこの瞬間が、ただただ純粋に嬉しかった。
*
各デスクの挨拶が終わると、すぐに新入社員の割り振りが行われた。
オフィスの壁に掛けられた大きなボードに各々の配属先が書かれており、それを見て新入社員が一喜一憂していた。
特に経済部に配属された人達は先程の鈴木さんと一緒に仕事ができる、と凄いはしゃぎようで、まあ確かにそうだな、と内心少しがっかりしている自分がいるのが何か悔しかった。
そんな僕の配属先はというと、
「えーっと……」
「おう、若いの」
自分の名前を探している最中、後ろからいきなり声を掛けられた。
振り返ると石水さんが立っている。
「あ、石水キャップ」
「お前の配属先はうちだ、他にも何人かいるからそいつらと一緒に俺についてこい」
「は、はい。えっと、すいません石水キャップの担当って……」
「ああ、そうだったな言い忘れてた。社会部だ、どうだ嬉しいだろ?」
そうやって笑顔を作る石水さんの意図が分からない。
「で、ですね。はい」
「なんだお前……、えっと木南って苗字だったか? 木南はうちの『お姫様』に一目ぼれしたんじゃないのか?」
「えっ?」
いきなりの事で驚く、というか「お姫様」ってなんだ?
「あ、こりゃ言っちゃまずいんだったな。すまん忘れてくれ」
口に手を当てて、左右を見ながら「しまった」と顔に書いてある石水さん。とにかく頷くが、それにしても「お姫様」というのは何だろうか?
「まあ、とにかくお前がうちの早川が挨拶してた時に、鼻の下を伸ばしてたってのには気づいてんだよ、俺は」
「そ、そんな鼻の下なんて伸ばしてないですよ」
慌てて訂正するが、石水さんはどうもそれを許してくれないらしい。
「いいや、俺は見たね、間違いなく。あれは早川に下心ありとしか見えない」
どうにも早川さんを見た時、僕は感動のあまり周りが全く見えなくなっていたらしい、傍から見ると早川さんを凝視していたのは変質者のように見えてしまったのかもしれない。
「そんなことありません、ただ女性のデスク担当は珍しいのかなと、そう思っただけで」
本当か~? と疑いの眼差しを向けてくる石水さんだったが、追求はその程度で許してくれるらしい。
「分かった、そういう事にしておこう」
と、締めくくった。何とも押しの強い人だ、だが、どうにも嫌になれないのはこの人の人となりなのかもしれない。
「とにかく、お前で最後だ。皆で社会部に行くぞ」
「はい」
そうして二人して他の新入社員の待つ所へ行き、そのまま「社会部」というプラカードが天井からぶら下がった場所に移動した。
向かい合わせになった二つのデスクが一直線上に並んでいて、一つの長方形を作っている。デスクの上にはパソコンや電話、書類やファイルが山積みになっており、そこを縫うように人が行きかっている。正に自分が想像していた新聞社のオフィスだった。
「さて、ここが今から君達が働く『社会部』だ。うちではスポーツと政治以外のほとんどを取り扱っている。まあ国内で起こるほとんどの事はまずうちを通ると思ってもらっていい。だから人数も多いがやる事も多い、まずは俺以外のキャップも何人か紹介するから何人かはそいつらについてもらう」
石水さんの言う通り、社会部に配属された人数は新入社員の中でも一番多いようだ、ざっと十人はいるだろう。
数分して数人が社会部内からやってきた、皆僕らよりも十歳は年上で石水さんと話し合っている、新入社員の割り振りを話しているようだ。
話し合いが終わるとキャップ達が名前を呼び、僕らを振り分けていく。一人また一人とキャップに連れられていき、そして最後に僕を残して三人ほどが残った。
「よしっ、じゃあお前らで最後だな。お前らは俺が受け持つことになる、ビシバシ働いてもらうからそのつもりでいろよ」
「「はい!」」
石水さんの言葉にそう返事をした。
「じゃあ、まずはそうだな。俺の事からでも話すか。俺らみたいなキャップはお前らも知っての通り、記事の作成やら取材が主な仕事だ、ただ実際には部下の統括もあるからな、デスクをお前らの上司だとさっき説明したが、俺や他のキャップもそれに当たる」
石水さんはそこで言葉を切ると白髪頭をバリバリと掻いて、
「いかんな、どうもこういうのは俺の性には合わん、まあまずは初日なんだ、言うよりやった方がいいだろうな。おいっ伏見! 頓宮! 丹原!」
石水さんはそう声を上げると、二人がやって来て、
「なんすかおやっさん」
「ああ、こいつらにお前らの仕事を見せてやってくれ……、って、丹原はどうした?」
「ああ、今『お姫様』にお折檻くらってる所です。後でおやっさん呼んでたっていいますか?」
「またか? ったくあの馬鹿は……。そうしてくれ、後『お姫様』は新人の前では辞めろ。早川が知ったら大変だぞ」
「へいへい。じゃあええっと、どうすっかな」
石水さんに呼ばれた二人が僕ら新入社員を見る。
「じゃあ……、僕は丹原さんを待ちましょうか? 他の人は先輩方について行ってもらって構わないので」
僕は手を挙げながらそう発言する。
「お、悪いね、じゃあそうしてくれるかい? 丹原はすぐに来させるようにするからさ」
渡りに船といった感じで先輩二人はそれぞれ新入社員を一人ずつ連れてその場を後にしていった。
新入社員も丹原という先輩の第一印象が悪いせいか「丹原さんじゃなくてよかった」というような表情をしていたのは、何だか丹原さんが可哀想な気もした。
結局、石水さんと僕だけが残る。
「あー、そのなんだな、ここで待ってても仕方ねえから俺のデスクに行こう」
「分かりました」
そうやって、僕は石水さんのデスクに移動した。
プラカードに「石水」と書かれたデスクには書類が山積みで、パソコンに関してはキーボードとディスプレイが辛うじて見えるというようななかなかの荒れっぷりになっていた。
「まあ、座ってくれや」
他の空いている机から椅子を引っ張てきながら言う。
「ありがとうございます」
そのまま椅子に腰を落とし、石水さんも自分の椅子にどかりと腰を落とすと、少し妙な間が出来る。
ここは何か僕から話をしておいた方がいいなと思い、話題を振ることにした。
「石水キャップ、さっきまで言ってた「お姫様」って、あれ、何なんですか? 早川……デスクの事みたいですけど」
僕がそう聞くと、石水さんは思い切り渋い顔をする。
「ああ、それは……、あれだな、新人のうちには知らなくてもいいことだ。」
「はあ、そうですか」
入社初日にあまり深いところまで突っ込んでも仕方ないので、そう引き下がる。
「おやっさん」
その声は僕ではなく、書類を持ってやってきた別の人からのものだ。
「おう、なんだ」
「ここ、ちょっと見てほしいんですけど、いいですか?」
そういって書類を石水さんに差し出す、どうやら記事の校正をお願いしているようだった。ただ、わずかに石水さんの顔が曇る。
「ああ……、そうだな、今なら時間があるからいいだろう。やって、後でお前の所に帰しておく」
石水さんはそう返し、書類を持ってきた人もホッとした様子お礼を言うと、その場を後にした。だが、僕にはさっきの石水さんの表情が気になった。
「何か、問題があるんですか? その記事」
記事を眺めている石水さんにそう話しかけてみる。
「ん? どうしてだ?」
「いえ、さっき記事の……、校正ですか、それをお願いされてるときに表情がちょっとムッとしてましたから」
僕がそう言うと、石水さんは自分の顔を少し撫でる。
「あー、直したつもりだったんだがな、まだ出ちまうか」
「いえ、一瞬だったのであの人には気づかれていないと思いますよ」
そう付け加えると「そうか」とホッとした様子で、石水さんは椅子に深く座り直す。
「いや、まあお前の言う通りだ。あいつはまあ仕事ができないわけじゃないんだが、文章の言葉遣いに問題があってな、ほれここ」
そう言って石水さんは問題の部分を指さしながら僕に記事を見せる。
「国内の電子商取引はアマゾンやアリババなど大手が業界全体を支配しているが近年では消費者同士での取引も発展しており、それを含めて今後とも拡大していくだろう」
「お前、これ読んでどう思う?」
「読みにくい、ですね……」
石水さんの問いに僕はそう答えた。電子商取引についての記事だということは分かるが、読んでいるだけで疲れる文章だ。
「だな。これは最初の読点までが遠いし、どこで言葉を区切るのかが分からん。それに最後の『拡大していくだろう』がどの言葉を修飾……、修飾の意味分かるか?」
「はい、ある部分を詳しく説明することです」
「そうだ。これだと『拡大していくだろう』がどの文の修飾語なのか分からん。だから何度も読み返すことになる」
そう言って石水さんは自分のデスクへ記事を雑に置いた。
「『今時の奴らは』っていう言葉は使いたくないんだが、若い連中の中にはこういう所をきちんとできない奴が多いな」
目頭を押さえながら唸る。きっとこういう記事を何度も直してきているのだろう。
「お疲れ様です」
「おう、ありがとうな」
お礼を言った直後、石水さんは何か思いついたようでパッと目を見開いて僕の方を向いた。
「な、なんですか」
「そうだ。木南、お前この文を直すのやってくれないか? まだ丹原来ないみたいだし。丁度いい肩慣らしになるだろ」
石水さんは笑顔だが、何だか体よく仕事を回されてしまった感じはある。しかしこれから自分がしなくてはならない仕事の一つではあるし、断る理由もない。
「分かりました。やってみます」
「おう、ありがとうな。最近の奴らはとかく遠慮気味にする奴が多いが、木南は返事が良くて助かる」
おっと、こんな年寄り臭いこと言うとまた白髪が増えるな。と、石水さんは笑顔で付け加えた。
「じゃあ俺の隣が空いてるし、そこで記事の修正を頼む。校正記号はとりあえず無視していいからさっきの記事を読みやすくしてくれ、ただし文字数と内容はそのままでな。終わったら呼んでくれ」
「分かりました」
僕はそう言って石水さんから記事を貰い、デスクに向き直る。白紙の紙とペンを用意して、修正する記事に目を通す。
「国内の電子商取引はアマゾンやアリババなど大手が業界全体を支配しているが近年では消費者同士での取引も発展しており、それを含めて今後とも拡大していくだろう」
よし、いける!
記事に数回目を通し、自分の中である程度の言葉が固まったところで紙にペンを走らせる。
そしてその勢いのまま最後まで書ききり、最後に文字数と内容をチェック。問題ないようだ。
「石水キャップ」
「おっ? もう出来たのか? 見せてみろ」
石水さんは自分の仕事を止めると、僕の書き直した文章を受け取る。
「アマゾンやアリババなど大手が業界全体を支配しているが、近年では消費者同士での取引も発展しており、それを含めて国内の電子商取引は今後とも拡大していくだろう」
「どう、でしょうか?」
自信はあるが、いざ人に見せるとなると緊張する。
「ふん、そうだな……」
石水さんは顎に手を当てて僕の文章を眺める。ドキドキする瞬間だ。
数秒間がとても長く感じられた後、石水さんが口を開く。
「お前、文章の校正経験とかあるのか?」
「いえ、大学である程度は勉強しましたが……」
「ほぉ、だったら大したもんだ、読点や修飾についてもちゃんと出来てるし、いやいや若いのに大したもんだ。」
石水さんの言い方に嫌味は感じられなかったので、素直に受け取ってよさそうだ。
「ありがとうございます」
そう頭を下げる。
「まあ、俺がお前くらいにはここでコラム書いてたんだ。一面だぞ? どうだ、凄いだろ?」
そう言う石水さんは鼻高々で、腕を組んで嬉しそうに威張る。
「一面……、というと『冬夏』ですか? もしかして?」
「おお、何だお前知ってるのか?」
「ええ、僕の家は近畿新聞を取ってるので。家族でもあの一面のコラムについては良く話してましたよ」
「冬夏」というのは近畿新聞の一面に毎日掲載される五百文字程度のコラムで、その時々に話題になった出来事を軸に書かれるものだ。掲載場所も一面の広告の真上と決まっており、僕も毎日朝刊を手にしたときは必ず目を向ける。
「でも、木南の年じゃ俺の『冬夏』は読んでないだろ。十年くらい前に担当から外れたからな」
「んー……、多分僕が中学上がるかそれくらいですかね? 母が『「冬夏」が変わった』っていましたし、僕も割と若い感じのトピックになったなぁと思ったので」
僕がそう言うと、石水さんが深く溜息を吐いた。
「どうしたんです?」
不思議に思ったので聞いてみると、
「いや、こんなに若い奴の中でも、ちゃんとそこまで読んでくれてる奴がいたんだなと思ってな。あれを書いてた人間として、嬉しいよ」
石水さんは僕を見ながら穏やかに笑った。
「多分お前の言う通り、その頃だろ、俺が担当を外されたのは。確かに俺のコラムは人気があったが、如何せん古臭くてな。それで上から新しさを出したいと言われた、ただ、もう二十年近く「冬夏」を書いてたから書き方も変えられん。『新しくしたかったら、書く奴を変えてください』と言って自分から降りたよ」
そんなことを石水さんはどこか懐かしむような顔をして語る。
「まあ、もう大昔の話だ。でも、降りた当時は大分悔しかったよ。毎日毎日『明日は何を書こうか?』って事が頭にあったしそれが俺の生活の一部だったからな。腹も立つし面倒くさいとも思ったが、それよりも上手く書けた、自分の納得いくものになった、って時の達成感みたいなものは本当に好きだったよ」
そう語る石水さんを見て、きっと今、石水さんは二十年前に戻っているのだろう、そう思った。
椅子を軋ませながら石水さんが遠くを見つめているのを、僕は横で静かに眺めていた。
少しして、先程他の新入社員を連れて行った内の一人がやってきた。胸のプラカードに伏見と書いてある。
「おやっさん、丹原がもう少ししたら来ます」
伏見さんに気づいた石水さんが椅子に座り直す。
「おう。早く来いと催促しとけ」
「了解です」
そう言って、伏見さんは足早に去っていった。
少しして、慌てた様子で一人の社員が見えた。
「すいませーん、遅れました!」
僕等、というより石水さんがいることに気が付くと、頭の後ろに手を当てて、軽く頭を下げながらこちらにやってくる。
「遅いぞ丹原! いつまで待たせるんだ」
「いや、早川デスクに呼ばれてたもので……」
「どうせまた取材先でナンパしてたことでお折檻されたんだろ? いい加減にお前も懲りろ」
「いえ、僕は良い女性がいたら口説かずにはいられませんって!」
キメ顔にポーズまで決めてそう言い放った丹原さん。それとは対照的に石水さんは見るからに頭を抱えたくなるような顔になっている。
なるほど、これが噂の丹原さんらしい。何というか、とんでもない人のようだ……。
「はぁー、まあいい。とにかく今日一日、お前の仕事ぶりをこの木南に見せておけ」
石水さんは溜息とともに首で僕の方を示す。
「あ、伏見さんが言ってたやつっすね。えっと、木南君? 今日一日よろしく!」
「は、はい」
丹原さんは満面の笑みでそう言われるが、どこか抜けている人のような印象を受ける。
「まあ木南、こいつの前で遠慮なんかしなくていいぞ。分からないことがあったらじゃんじゃん聞いていけ、というかこいつが答えられない事があったら俺に報告しろ」
「あ、酷いっすよおやっさん。俺だってちゃんとここで働けてるんですから、心配いりませんって」
「そういう奴は取材先でナンパなんてしないだろ、さっさと木南連れてお前のデスクに戻れ」
しっしっ、とでも言いたげに手を払う石水さんに笑って返した丹原さん。
「じゃあ、行こうか?」
「分かりました」
丹原さんに促されて僕は席を立つ。
「石水さんお邪魔しましたー」
そう言って丹原さんは石水さんに手を振る。石水さんはというと、憮然とした表情でそれを見ていた。
「おやっさん、良い人でしょ?」
少し歩いたところで、丹原さんがそう切り出す。
「え、何ですか?」
「おやっさん。話とかしたんでしょ?」
「あぁ……、確かに良い人ですね」
「だろ? 時々お説教がうるさいんだけどね」
丹原さんのその言葉には曖昧にうなずく。それはさっきのを見る限りほとんど丹原さんが悪いと思うが。
「まあ、社会部は他にも色々面白い事とかあるし、楽にしてればいいよ」
「は、はぁ……」
ニコニコな丹原さんだが、何だか笑顔で色々誤魔化しているような気もする。
「さてと」
そう言って、丹原さんはとあるデスクの前で止まる。
「ここが丹原さんのデスクなんですか?」
「いや違うよ」
僕の質問に即答する丹原さん。じゃあ、一体どういう事なんだろうか?
戸惑いを隠せないまま僕は丹原さんと一緒にデスクの前で突っ立っていると、ふとあることに気づく。
ついさっきの石水さんのデスクでもそうだが、ここでは各デスクにそのデスクを所有している人の名前が書いてある。
そして、僕等が突っ立っているデスクにも当然名前が書いてあるのだが、そこにはこう書いてあった。
早川
まさかっ! と思った瞬間、
「あ、丹原どこほっつき歩いて……、って? 誰? その子?」
不機嫌そうな顔をした早川冴姫が突然顔を出した。
二年前とほとんど変わらない、けれど二年前よりキチンとしていて自信に満ち溢れているのが良くわかる。薄暗いあのボロのアパートで見た時よりももっと奇麗に見えて、思わずどきりとしてしまう。
「木南君です。俺、石水キャップに呼ばれてて」
そういって丹原さんは僕に目を向ける。
「それで? それが私との話し合いから抜け出した理由?」
「いやいや、ついさっきから俺はこの子の指導役になったんですよ、石水キャップに頼まれて」
丹原さんはそう言うと得意げになる。
「石水キャップがあなたに? この子の指導役を? それってなんかの冗談じゃないでしょうね」
早川さんは眉をひそめて訝しむ。
「やだなー、俺ちゃんと石水キャップに頼まれたんですよ? 何だったら直接おやっさんに聞いてきましょうか?」
実際その通りなので丹原さんは強気のままだが、早川さんはまだ疑っているようだ。
「遅刻の常習犯で、仕事の納期を何回もぶっちして、挙句取材先でナンパしてるような部下に仕事を頼むような石水キャップじゃないと思うけど?」
そう言って、耳にかかった髪を手でかきあげる。そんなちょっとしたことが僕をどきりとさせた。
早川さんの言葉に丹原さんはへらへらと笑っているが、とんでもない事ばかりしでかしているようだ。
「それが今回は違ったんですよ。いやー、やっぱりおやっさんは人を見る目がありますね」
胸を張る丹原さん。それは多分違うと思うが……。
「はぁー、ちょっとどいて」
呆れた様子の早川さんはそう言って丹原さんと僕を押しのけて自分のデスクの椅子に座る。
「じゃあ、俺、この子の指導があるんで」
そう言って丹原さんはその場を立ち去ろうとする。
「待ちなさい」
その後ろ姿に有無を言わせぬ口調で早川さんが声を掛ける。
「どうせあなたの事だからサボりでもするんでしょ? そんなことを新入社員が知ったらこの子……、ええっと、ごめんなさい、名前は?」
そう言って、早川さんはこちらを見る。
「あ、はい、木南と言います」
突然の質問に僕は慌てて答えた。上手く答えられなかった自分がとても恥ずかしい。
「きなみ……、どこかで聞いたことある名前ね……」
僕の名前を聞くと、早川さんが一瞬考えこむ仕草をするが、すぐに目的を思い出す。
この様子だと、どうやら二年前の僕の記憶はどうやら彼女からは消えてしまっているようだ。
「とにかく、丹原。あなたが木南君の指導役になったのは良いとしても、私はそれを信頼していないわ。だから、あなたには仕事をしてもらう。それを彼と一緒にやりながらここでの仕事を教えていきなさい」
「えっ! そんなあんまりですよ早川デスク! 俺、昨日やっとのことで記事上げたばかりですよ!」
「その記事だって締切三日も過ぎてるやつでしょ? ごちゃごちゃ言わずにちゃんと仕事しなさい。それともここで新人君の目の前であなたの今までの悪行を説教してあげましょうか?」
その言葉は丹原さんにはとても効くものだったらしい。
「ぐっ、ううっ……、分かりました……」
抵抗をつづけた丹原さんも、不承不承という感じではあるが、早川さんからの指示に頷いた。
「素直でよろしい」
そこで早川さんは満面の笑みを浮かべる。
「じゃあ、早速取材先の資料を渡すわね」
そう言って早川さんは自分のデスクを漁る。少しして、クリアファイルに入った紙を取り出した。
「はい、これ」
早川さんはそのクリアファイルを丹原さんに渡す。
「『人気急上昇中の新人女優、平塚凪咲の素顔に迫る!』。何ですか、これ?」
受け取った丹原さんは首を捻る。
「あれ? あなた確か平塚凪咲のファンじゃなかった? だからあなたにこの仕事を頼もうと思ったのに」
「そりゃ僕は『なぎさ』の大ファンですけど……」
早川さんからの言葉に丹原さんは口を濁す。
「平塚凪咲はこの辺りが出身でしょ? で、上から彼女が新しいドラマの主演をするのに合わせて彼女の略歴について載せたいって社会部に依頼が来てるの。それをあなた達にやってもらおうってわけ」
そこで丹原さんは合点がいったようだ。
「『夢の中で会えたら』でしたね、僕も楽しみですよ」
そこで、僕は凪咲がテレビのインタビューを受けていたのを思い出す。新聞社に入社したとはいえ、まさか最初の仕事で凪咲に関わることをするとは思いもしなかった。
それから少しの間、丹原さんと早川さんは僕を蚊帳の外に話し合いを続ける。新入社員で一日目なのだ、こうなるのも仕方ないなと黙って待つ。
「じゃあ、そういうことだから、取材の方お願いね」
そう早川さんが言って、話し合いは大方終わったようだ。
「了解です、まずはこの『多度高校』に行けばいいんですね?」
そう答えた丹原さんの言葉が引っ掛かった。
「あのー、多度高校に行くんですか?」
僕は二人の話に割って入る。二人は驚いた様子でこちらを見たが、僕は言葉を続けた。
「もし、多度高校に行くんだったら、僕そこの卒業生なので先生に取材のアポとか取れるかもしれないですけど、どうしますか?」
「お、だったらありがたいな。木南、後で電話しておいてくれ」
丹原さんは渡りに船を得たようだ。
「ええ、ついでに言うと凪……、平塚さんとは同級生でした」
僕がそう続けた言葉に丹原さんも早川さんも驚く。
「木南君?」
「はい、クラスは別でしたけど」
早川さんに僕はにこやかにそう返したが、丹原さんは冷静ではいられないらしい。
「お、おい木南。じゃあお前は『ファイングルーヴ』時代のなぎさと一緒の学校に通ってたってのか?」
ファイングルーヴというのは、数年前まで活躍していた五人組アイドルユニットでそのセンター兼ボーカルを務めていたのが他ならぬ平塚凪咲だった。
ただ、凪咲は高校卒業と同時に女優業へと転向、ファイングルーヴも解散してしまったが、今でも根強い人気のあるグループだ。
そんなことを知ったせいか丹原さんは僕にいきなり顔を近づけてきた。その目は血走っているようにも見えて、恐怖すら感じる。
「ちょ、ち、近いです丹原さん。確かにアイドル時代の彼女と一緒でしたけど、僕なんか話しかけれもしませんでしたよ」
確かに僕からは一度も話しかけたことはない。僕なんかが話しかけれる次元に彼女は存在しなかった。
しかし、ある日偶然にも彼女が僕という存在に気づいたという。それだけの話。
「ま、まあそうだろうな……」
僕の言葉を信じた丹原さんは僕から顔を離して息を整える。
「と、とにかく」
早川さんは咳払いをする。
「今回の取材の件は頼んだわよ丹原、木南君」
丹原さんの豹変ぶりに驚きながらも早川さんはそう言った。
「……分かりました、うーんでも……」
ただ丹原さんの返答にはキレがない。それは先程とはまた別の事が原因にも見える。
「どうしたの丹原? さっきの反応を見ても、あなたにうってつけの仕事だと思うんだけど」
早川さんが不思議そうに尋ねる。
「そりゃ嬉しいですよ。ただ、こういうのってどっちかって言うと週刊誌向けの内容でしょ? うちみたいなのが取材する必要はないと思うんだけどなあ?」
丹原さんは頭をバリバリと掻く。早川さんからの仕事の依頼は嬉しいとはいえ、あまり気乗りではないようだ。
そんな丹原さんの言葉に早川さんは目を見開いて驚いている。
「いや、あなたって、意外とそういう事も考えてるのね、驚いたわ」
「それは心外ですよ早川デスク。俺は『なぎさ』の大ファンだから、週刊誌が書くようなくだらないスキャンダルやスクープなんて別に知りたくないんですよ」
「だったらあなたの手で『なぎさ』の魅力を世間にちゃんと伝えなさい。ほらさっさと行きなさい『今かNOWよ』、丹原」
そう言って笑顔で、早川さんが丹原さんを急かす。
「またそんな親父ギャグ言って」
「うるさい、さっさと支度なさい」
「はいはい、じゃあ木南君、行こうか?」
丹原さんはこちらに顔を向けるが、僕の頭の中で一瞬前の早川さんの言葉が頭に響く。
「今かNOW」
どうやら早川さんは僕が誰だか忘れてしまったようだが、あの言葉は、あの言葉だけは覚えてくれていたようだ。
それはまるで今までの二年間を取り戻すような、とても心地の良い瞬間だった。
「あー、木南君?」
反応がない僕に戸惑っている丹原さんに気づく。どうも過去に浸ってしまっていたらしい。
「は、はい! 行きます」
僕はそう慌てて返事をし、丹原さんの後を付いていった。
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