新聞と記者

助手

プロローグ

「ん、っん、ああっ……」

 若い女性のくぐもった声が狭い部屋に響く。

 ベッドに横たわる女性はスーツを身に纏い、きっと仕事場ではその黒くて品のある服装が彼女に自信と誇りをもたらしているだろう。

 しかし、今はそれも胸元は大胆にはだけ、細い腰を支えているベルトも外れて中から淡い白色の布地が見えている。

「っう、……、んん、はぁっ……」

 赤く紅潮した頬と額からうっすらと浮かぶ汗は、何かドラマの濡れ場を想起させるものがあり、思わずどきりとしてしまう。やや粗い吐息は何かを求めているようにも聞こえ、僕の理性に鋭い打撃を加えてくる。

 深夜三時。

 夜明けまではまだまだ遠いそんな夜中に、僕のベッドに今まで見たことがない美人が寝息を立てて眠っている。

 たっぷりと艶のある黒髪は彼女の腰まで届いており、時折寝返りを打つたびにさらさらと波を打っている。

 くっきりとした目鼻立ちは日本人離れしていて、寝息を立てるわずかに開いた唇はとても小さな赤い花びらのようにも見える。

「ん、んんっ、はぁ……」

 時折、息苦しそうに悶え、顔をキッときつくゆがめる。

 何か悪い夢にでもうなされているのだろうか? と思う一方、僕の中の邪な気持ちがもたげてくる。

 上下揃ったスーツ姿は彼女の凛々しさを象徴するかのようで、仰向けになると胸からのなだらかなで健康的な体のラインがはっきりと分かる。

 ジャケットははだけ、真っ白いシャツの下には汗で透けた下着が浮かびあがり、テーパードですらっとしたパンツは彼女の脚線美を表していた。

(と、とにかくこの場を離れないと……)

 僕の変態的考察を一通り終えると、理性がそう告げていた。

 女性への免疫が全くない、というほどに初心ではないが、大学二年生といういくら澄ましても本能に忠実な年齢の僕としてはこの光景は刺激が強すぎる。

「勢いで家まで連れ帰ってしまったけど、これはちょっと予想外だな」

 この部屋の主である木南陽介は、ベッドで寝息を立てている女性を穴が開くほど見つめながら—というかいっそ別の穴に突入したいが—その前に胡坐をかいて座っていた。

 ひょんなことからこんな状況になってしまったが、そろそろ僕の理性と欲望、さらに睡魔の限界に到達しそうにあった。

 その三つ巴の戦いを頭の中で繰り返し、行きついた結果、寝袋を抱えてキッチンへ向かうことに決めた。

 キッチンでなら寝袋を敷いて眠るだけのスペースがある。

(彼女が起きても、玄関に向かうにはキッチンを通らないといけないんだ。何とかなるだろう)

 そう思い寝袋を探した後に立ち上がる、僕がこの期に及んでもヘタレだなと思う一方、そういう僕でよかったとも思う。

「さて、行くか」

 そう言ってベッドに背を向けて一歩踏み出そうとした瞬間。

 がくんっ。

 体が前に進まなかった。その感覚とともに、右腕を後ろに強く引っ張られる。

「?」

 そう思って、後ろを振り返ると、さっきまで眠っていた女性が上半身だけ起こして、こちらを見ている。

 意識が朧気なのか目は胡乱としていて、焦点が定まっていないようだった。ただ、僕の腕を握る強さだけははっきりしていた。

「……」

「えっ?」

 音は聞こえなかったが、彼女の口が動いていたので何かを言おうとしているらしい。

「行かないで……」

 今度ははっきりと聞き取れる声で、彼女がそう言った。

 今にも泣きだしそうな顔とともに、絞り出すような声はとても息の詰まるものだった。


     *


 事の発端は僕のバイト先の居酒屋で酔いつぶれていたお客さん—つまり家に連れ込んだ女性だ—を彼女の会社まで送り届けようとした、というところにある。

 居酒屋で泥酔していたこの女性を見つけて声をかけてみたが全く反応がなく、店長を呼んできてもう一度声をかけてみたが、やはり反応がなかった。

 時刻は夜の八時。営業時間はまだまだあったが、女性は一人だけで店に来ていたので店を出てもらおうにも自力で出てもらうほかない。

「どうします、店長?」

「どうしますもなにもこんだけ潰れてりゃあ何もできん」

「ですよね……。参ったなあ」

 店長と二人で考え込んでいると、ふと女性の上着のポケットから小さな紙が出ているのが分かった。

 何とはなしにそれを取ってみるとどうやら名刺のようだ

「近畿新聞社会部、早川冴姫……」

「ん? 近畿新聞なのかこいつ」

 名刺の内容を読み上げると、店長がやや驚く。

「ええ、そうみたいですね。僕も取ってますよここの新聞」

 そう言うと店長がぎょっとした顔でこちらを見た。

「お前、新聞なんて読んでるのか?」

「はい」

 その返事に店長はやや顔を曇らせるが、

「最近の若けぇ連中で新聞を読むやつなんか初めて会ったよ。偉いもんだ」

 どうやら関心しているらしい。

「じゃあ、給料上げてください」

「どうしてそうなる、あほんだら。とにかく、近畿新聞ならちょうどいいな」

 僕の軽口を流した後、店長の顔が安堵の表情に変わる。

「近畿新聞といやここらでもでかい所だからな、ちょっとここからは離れてるが、このお客さんが本社勤めなら会社の人間に拾いに来てもらえる」

「あ、なるほど」

 そこで、店長を呼ぶ声が聞こえた。どうやらまた別の所でトラブルらしい。

「おうっ! 待ってろ! 木南、悪いんだが近畿新聞に電話して迎えをよこすように連絡してくれねえか。お前丁度あがりの時間だったろ? それが終わったら帰ってくれていい」

「了解です」

 僕の返事を聞くが早いか、店長はあっという間に別の場所に向かってしまった。

 僕もレジに向かい、備え付けの電話の受話器を右手に、名刺を左手に持って慎重にダイヤルを押し始めた。

「……27っと」

 最後の下四桁の番号を入力し終え、しばらく待つとトゥルルという音がし始める。

 その音をぼんやりと聞きながら、この名刺の主である「早川冴姫」について少し思う。年齢は僕より上、だがそこまで僕との年齢差はないだろう。顔はカウンターにうつ伏せになっていたのでよく分からないが、何というか大学にもいる美人だけが発する独特な雰囲気のようなものを感じさせていた。

「まあ、僕には新聞の仕事もそんな女性も縁のない話か」

 と、一人呟いた瞬間、

「はいっ、こちら近畿新聞!」

 と、かなり威勢のいい……、というよりは逼迫した男性の声が受話器から流れてきた。

「あっ、こ、こちら『鳥問屋 東筋店』の木南と申します。そちらに『早川冴姫』という方はご在籍ではないでしょうか?」

 何とか噛まずに言い切れたが、突然のことでかなりびっくりした。

 しかし、胸を撫でおろしたのも束の間、相手方の返答は、

『早川? 誰? というか、居酒屋がうちに何の用? 東筋って結構遠いところだったと思うけど』

「はい、店で酔いつぶれているお客様がいまして、その方持っている名刺が近畿新聞のものでしたから……」

 と、何とか説明を続けようとしたが、

『あー、今うち忙しいのよ。訳の分かんない話に付き合う時間ないから。あっ、今行く、待ってろ。じゃあそういう訳なんで』

 慌ただしい言葉を最後に、プーッ、プーッ、プーッと電話が切れてしまった。

 何とも無礼な対応だなと少し頭にきたが、それよりも「早川冴姫」をどうするのか、いよいよ分からなくなってしまった。

 さっきの調子だと仮にもう一回かけ直しても迷惑電話の類で処理されてしまうだろう。ともかくどうにもならないので店長に相談することにした。

 運よく店長も客とのトラブルを解決したらしく、調理場に戻ろうとしていたところを捕まえた。

「店長」

「おう、どうだった」

 そこで首を横に振る。

「あっちかなり忙しいみたいで、迷惑電話か何かだと間違われたみたいです」

 そう言うと店長の顔が少し曇る。

「ふーん、そいつは参ったな。」

 店長は腕を組んでしばらく考え込む。そして、なぜか僕と早川冴姫を見比べると一人で頷き始めた。

「て、店長。何考えてるんです?」

 躊躇いがちに聞くと、

「いや、丁度お前があがりなんだし、なあ、このお客さん、近畿新聞まで連れてってくれや」

 と言い出した。

「タクシー代はこっちが出す。というかこのお客さん勘定済んでないんだからな。その分とタクシー代を近畿新聞に払わせればいい」

「出来るんですか、そんなこと……」

 無茶苦茶に思える考えに疑問を投げかけると、

「今までにこういうことがなかったわけじゃねえさ。勘定やら木南が電話したことやら証拠はこっちが持ってんだからな。とりあえず今日は近畿新聞前にこのお客さんを運んで、金は後で払いに越させよう」

 笑顔で店長は言うが、やらされるほうはたまったものではない。

「簡単に言ってくれますねぇ……」

「ほら行った行った、今なら近畿新聞もぎりぎり開いてるはずだ。タクシー呼んどいてやるから、裏で準備しとけ」

 店長はそういうとすぐにレジ近くの電話でタクシー会社に連絡を取り始めた。

 色々いきなりすぎて戸惑うが、とりあえず帰り支度を済ませるために休憩室へ行き、着替えを済ませて店内に戻ると、

「木南、タクシーあと十分で着くらしいから、お客さんに肩貸して立たしてやれ」

 手際よく連絡を済ませた店長が声を掛けてきた。

「よし、多分一人でできるな、ほれこれタクシー代。領収書もらうの忘れんなよ」

 渡された五千円をポケットに入れて、まだ机に突っ伏している女性をどうにか肩で支えながら立ち上がらせる。

「んぁっ……」

 立ち上がらせたときに女性が色っぽい声を出すが、店長がいる前なので努めて冷静を装う。

「お、これはまた美人さんだな。お前、ラッキーだぞ」

 やはりというか、すかさず店長が茶化してくる。僕からは近すぎる女性の横顔を見ると確かに美人だった。

 酒で潰れていても分かるほどの美人なら素面の時はどれほどなのか、と想像してやめた。

「バイトにこんなことさせといて、何言ってんですか店長」

 気を逸らすために、そんな軽口を叩いてみる。

「この店では俺が神様だ、神の言うことに逆らうんじゃない」

 その呆れた返答にやれやれという気分になったので、女性に肩を貸しながら店の出入り口へと向かう

「送り届けたら連絡しろよー」

 店長の声を聞きながら店を出ると、目の前の小さな駐車場に出る。

「ほら、しゃんとしてください」

 時折崩れ落ちそうになる女性を支えながら、出入り口の隅でタクシーを待つ。

 数分後、店長が呼んできたタクシーが到着したので、運転手に助けてもらいながら、何とか後部座席に座らせる。

 僕は助手席に座ろうかと思ったが、念のために女性と一緒に後部座席に座ることにした。

「行き先は?」

「近畿新聞に行ってください」

「本社のほう?」

 運転手の言葉に返事をすると、車の扉が閉まり、ゆっくりと進み始める。 

 思った通り、座ったままの姿勢でいられない女性に肩を貸しながら、揺れる車内からぼんやりと夜のネオンを眺めていると、

「彼女さんかい?」

「はい?」

「彼女さんかい? その人」

 初老の運転手がルームミラーを見ながらそう話しかけてくる。どうやら、僕とその女性を見比べているようだ。

「あっ……、いえ、そうではなく」

「だったらお友達? 良い心がけだねえ、そんな美人さんをモノにするならこれくらいの甲斐甲斐しさはないとだめだよ」

「は、はぁ……」

 肩に女性の頭の重さを感じながら、そう生返事で返す。どうやら何か勘違いをしているらしい。

「あなた、近畿新聞で働いてるの?」

「いえ、僕ではなく、彼女が・・・」

 僕の返答に「へぇ」と運転手が返す。

「そのお嬢さん、近畿新聞で働いてるんだ? じゃああの事件とか知ってるのかね、ほら、最近ニュースであったじゃない『女子中学生の集団自殺』。どこの新聞社もあの話でてんてこまいみたいだよ」

「あー」

 そう言われて気づく。

 確かにここ最近新聞やテレビを賑わせている女子中学生の集団自殺事件。

 一か月前に起こったこの事件は、女子中学生の集団自殺に端を発していて、捜査の結果それは単なる自殺だったがマスコミが報道合戦を繰り返し、捜査より先に犯人捜しをしようとした結果、自殺した女子中学生達の担任だった男子教諭まで自殺するという事態にまでなった。

 この男子教諭は事件当初に女子中学生を自殺に追いやった犯人として連日マスコミに騒がれていたが、結果は完全な無実。しかし、度重なる心労で心を病んでしまった。

 そしてつい先日、女子中学生の後を追うように自殺してしまった。

「そうですね。今ではどの新聞もテレビもその事件ばかりですね」

「物騒な世の中になったよ。私らの時代にはこんなことなかったんだけどねぇ」

「そうですね」

 運転手の言葉に曖昧に相槌を打ちながら、ふと隣を見ると、女性が苦しそうに呻いているのが分かった。

 よく見ると額に汗も浮かんでおり、息も粗く、浅い呼吸になっていて少し心配だ。

 どこか具合が悪いんだろうか? と手で揺さぶろうとしてみようとするが、

「おっと、こりゃまずい」

 運転手の言葉に遮られた。ルームミラーを横目に見ながら運転を続けるが、今までとは打って変わった焦りのようなものがある。

「そのお客さん、そろそろ吐くね」

 一瞬その言葉を理解できなかった。

「吐く?」

「長いこと運転手をやってるからね、こんな経験もあるもんさ。あんちゃん、もし車内で吐かれたら弁償だからね」

「えっ、えぇっっっ!」

 突然の事に驚愕してしまう。

「一応お嬢さんが吐くまでは運転できるけど、近畿新聞の本社までは後少なくとも二十分は見てもらわないとだめだね。どう? それまで持ちそう?」

 ど、どう? と言われても……。いきなりの事で面食らってしまうが、確かにこの車内で吐かれると運転手はもちろん、隣に座る僕の被害もただではすまない。

 かといって、タクシーに乗ってせいぜい十分程度、近畿新聞の本社まではまだまだ距離があるようなら、この女性に吐かずにいてもらうほかない。

 ただそうしているうちにも街頭やネオンだけで照らされる暗い車内でも分かるくらいには、女性の顔色は悪くなっている。

 どうしようかと、頭をフル回転させていると、一つの答えが頭に浮かんだ。

「あ、あのっ!」

 いきなり声を掛けられた運転手はやや驚いていたが、今はそんなことを気にしている場合ではない。

 その勢いのまま、運転手に車を僕の自宅に向かうようお願いした。



「すうぅ、すぅ……」

 寝息を立てている女性の寝顔をみながら、タクシーが自宅についた辺りの事を思い出す。

 僕の家に着くと、タクシー代を払った後に何とか女性を車から降ろした。

「じゃあ、あんちゃん、頑張って」

 そんな声とともにタクシーは走り出してしまい、僕と女性だけが月明かりの下に残される。

 とにかく僕の家に入ろうと女性に肩を貸して歩き出したが、この時ばかりは僕の部屋がアパートの二階にあることを恨んだ。

 その間にも女性の体調は悪くなる一方らしく、何度かえずくような仕草を見せたが幸いにも僕の部屋に辿り着くことはできた。

 苦心してドアを開け、何とか僕と女性の靴を脱がせるとそのままトイレに向かった。

 後は……、とても思い出したくない光景だが、気のすむまで女性の胃袋をカラにさせた。

 ある程度終わった後に口を水でゆすがせた後、僕のベッドに連れて行って今に至る。

「んっ、んん……、すうぅ……」

 女性をベッドに寝かせた後は、起きた時に備えてコンビニへ適当に買い出しに行った。一人暮らしでの食糧備蓄の少なさに愕然とする瞬間でもあったが。

 後はみずぼらしくないようにと部屋の掃除をできる範囲でやったり、眠ろうとも考えたが、それは寝ぼけたこの女性に引き留められてしまったので眠る気にはなれず。

 少したまっていた大学のレポートを進めたりして時間が流れた。

 そんなこんなで深夜3時。

「ふうぅぅ、すうぅ、ふぅ、すぅ……」

 今までの僕の苦労を思い出しながら、目の前で呑気に寝ている人間に少し何か言ってやろうかとも思うが、

「……やめとこ」

 それは何だか惨めなので溜息を一つ吐き、部屋を見渡す。

 見慣れた部屋だけに、見知らぬ女性が一人いることの異様さが際立つが、それ以外は何の変哲もない部屋だ。

(そういえば……)

 タクシーの運転手との話を思い出し、テーブルに置きっぱなしだった近畿新聞の朝刊を手に取ると、パラパラとページをめくった。

 一面にでかでかと出るほどではないが、やはり女子中学生の集団自殺という興味を引く話題ということもあり、数ページめくれば目当ての記事を見つけることができた。

「『女子中学生集団自殺。無実の教師までもが巻き添えに』、か」

 やはりかなり痛ましい事件だったようで、コラムにも当時の様子がありありと書かれており、カラー写真には集団自殺の引き金となったシンナーの写真が暗い背景の中で怪しく映し出されている。

 今朝もざっくりと読みはしたが、これも何かの縁だしもう少ししっかり読んでおこう。

 そう考えて、コラムを読み始め、分からない所や納得いかない所をスマホで調べながら出来る限り丁寧に読み込んでいった。

「ん? この名前は……」

 しばらくしてから、一人そう呟く。その名前はとても意外なもので、もし本当だったら、ぜひ確認したい。

 そんなことをしていると、時間が経つのは早いもので後ろから人の声がするまで新聞の記事にのめりこんでいた。

「ぅう、ううっ……、ここは……?」

 酒の飲みすぎなのか少し潰れてしまった声でベッドの上にいた女性が目覚めると、少しびっくりしてしまった。

 すぐに落ち着いて、座っていた座椅子をベッドの方に向ける。

「気づきましたか?」

 出来る限り優しい口調で声を掛ける。

「ええっと、早川さん……、ですよね? お店で酔いつぶれてしまったの覚えていますか?」

 僕の言葉を聞くと、一瞬宙を見上げた後、「あっ!」

 と目を見開く。

「そ、そうだ私、お酒飲みすぎちゃって、えっ⁉ じゃあ何でここ? ここどこですか? というかあなた誰です、まさか……!」

 途端に敵に剝き出しの目線で、僕から遠い方のベッドの端まで後ずさる。

「ま、待ってくださいっ! これには事情が……」

「近づかないでください! 警察呼びますよ!」

 誤解を解こうとしたらとんでもないことを言われた。人助けをしたのにこの年でお縄を頂戴したくはない。

 ただ、僕が何を言っても聞く耳を持ってくれそうもないので、打つ手なしかと頭をフル回転させていた時、僕のスマホが震えた。

 何かと思って見ると、電話の着信で発信者は店長になっている。

 とにかく出てみると開口一番、

『おい木南、連絡がねぇなんて珍しいな』

 と言われた。そうだすっかり忘れていたが、目の前の女性を送り届けたら連絡する約束だった!

「す、すいません店長。連絡し忘れちゃって」

『んー、まぁ、いいってことよ。で、どうだ? ちゃんと送り届けられたか?』

「えっ?」

 ま、まずい。

 送り届けられなかった上に、自宅に連れ込んだとあっては流石に色々とまずい……。

 必死に言い訳を考えていたが、無常にも時間だけが過ぎてしまい、それでどうやら店長が気づいてしまったようだ。

『まさか、お前……、お客さんがお前の目の前にいるってことは、ねえよな?』

「あっ、い、いえ、そんな……」

『いるんだな』

「……はい」

 店長の有無を言わせぬ声に成すすべもなく、認めてしまった。

 こんな失態をしたんだ、か、解雇とかされてしまうんだろうか……?

 そんなことに怯えながら店長に言い訳を言うべく口を開いた瞬間、

『いやーっ、そいつはよかった!』

 安堵の声でそう言われた。

「店長実はっ! ……へっ?」

『いやすまん木南、お前が出て行ったあと気になって近畿新聞本社の営業時間調べてみたら、とっくに閉まっててな。でもあの後忙しくてついお前に連絡するの忘れててな、いやいや、よかった!』

 な、何だ? つまり、お咎めなしということなのか? 待てよ、ということは……。

「店長」

『おう、何だ』

 朗らかな声で店長が答える。

「……ええっとですね。確かにお客さんは目の前にいるんですけど、その、僕の家にいることにかなり怯えてまして……」

『お前っ、家に連れ込んだのか⁉ はっー、若い連中の行動力ってのは……』

「仕方なかったんですよ! お客さんがタクシーでもどしそうになったんで慌ててて……」

 勢いでそう言うと、目の前にいる早川さんが目を丸くしてしまう。

「そんなことより! その、お客さんに説明してくれませんか、今回の事。僕が言っただけでは何とも」

『あー、それもそうだな。じゃあ変わってくれるか?』

 僕の必死の訴えが効いたのか店長が話してくれるようだ。

「じゃあ、えっと……」

 スマホを横目に目の前に座っている早川さんを見る。まだ怯えた表情だが、さっきの敵意剥き出しの感情は収まっているようだ。

「はい、これ、うちのお店の店長が電話に出てるので」

 そうしてスマホを早川さんに差し出す。早川さんは少し躊躇うようだったが結局は受け取り、話し出した。

「もしもし……」

 それからしばらくは早川さんと店長の話が続いた。その様子をじっと見ているのは何だか気まずかったので、読みかけていた新聞を読み直す。

 時折「はい」や「そうだったんですか」という声が聞こえ、「それについては……、申し訳ありませんでした」と言った辺りで早川さんの語気がだんだんと弱くなっていった。

 それには店長が面白おかしく話したことも多分にあるようだが、やはりその時の行動を説明されて恥ずかしがっているようにも見える。

 そんな会話が十分ほど続き、「今日は本当に申し訳ありませんでした」と早川さんが頭を下げた後、僕にスマホを返きながら、

「えっと……、木南君。今日はその……、本当にごめんなさい」

 と謝られた。

「いえいえ。それよりも店長との話はどうでしたか?」

 読んでいた新聞を閉じながら笑顔でそう返し、できるだけ早川さんの気を重くしないように努める。

「ええ、君と店長さんにはすごく迷惑をかけちゃったみたいね、ごめんなさい」

 と早川さんは深々と頭を下げた。

「そんな謝らないでくださいよ。明日は大学も休みだからそんな大きな問題じゃないですし」

 言って、僕も口が下手だなと思う。こういう時にもう少しうまく言えればいいのだが。

「今、飲み物持ってきますね。早川さんが寝る間にコンビニ行ってきたので」 

「大丈夫。私はもう帰るから、ありがとう」

 そう言って早川さんはベッドから立ち上がり、玄関まで歩き出そうとする。ただふらふらとした歩き方は前がしっかりと見えているのか怪しく感じるものだ。

「危ないっ!」

 そして、キッチンに出たところで廊下に置きっぱなしにしていた寝袋に足を取られる。間一髪で早川さんの体を受け止めることができたが、その体が小刻みに震えているのが分かる。

「僕は気にしませんから、まだベッドで横になっててください。危ないですよ」

 体を支えながら早川さんの体がやけに軽く感じたが、それと同時に暗い表情で地面を見つめる早川さんが気になった。

 その瞳からは生気のようなものがなくなっている。

 恐ろしく冷たい、感情が抜け落ちてしまったような表情だった。

 ともかく、早川さんをベッドに連れ戻し、ゆっくりとベッドに座らせる。

「ありがとう」

 その言葉を最後に、早川さんは頭を下げてベッドに体操座りのまま固まってしまった。

 明らかにただ事ではないが、そんな人にどう声を掛けてよいか分からず、とにかくさっき僕が言ったように飲み物を用意するためキッチンの冷蔵庫を開ける。

 グラスを二つ用意してお茶とオレンジジュースを注ぐと、部屋に戻る。

「お茶でいいですか?」

 テーブルに飲み物を置いたが早川さんは無反応。

 いよいよどうしたものかとおろおろし始める僕だったが、幸いにもその沈黙は長くは続かなかった。

「君」

 そう早川さんが独り言のように呟いた。

「え、はい」

「君、新聞読むの?」

 早川さんの視線が少し上がり膝の上から顔が見える、その顔はテーブルの上に置いてある新聞を見つめていた。

「え、ええ……」

 何を言いたいのかよく分からず曖昧に返事をする。

「それ、うちの新聞でしょ?」

 と、ぶっきらぼうに早川さんが言う。

「ええ、そうですけど……」

 早川さんの意図が読めない。

「そのページ、女子中学生の集団自殺についての所、君、読んだ?」

「……はい」

「じゃあ、誰が記事を書いたのかも?」

「あ」

 そこまで言われて早川さんの意図に気づく。

 早川さんが起きる直前、僕が新聞を読んでいた時に気になる名前を見つけた。それは早川さんが言っていた新聞記事の著者の名前だ。

 

 早川冴姫


 女子高生集団自殺の記事末尾にはそう記されていた。

「はい。確認なんですけど、この記事って……」

「うん、私の記事」

 沈んだ顔のまま早川さんが続ける。

「えっと……、良くできた記事ですね」

「なにそれ? お世辞? だったらやめて」

「いえ、本心なんですけど……」

「だったら尚更やめて。君、分かってるの? その記事の意味?」

 煽るような言い方に早川さんは大分参っているのだなと思う。

 そりゃそうだ、うちの店で深酒をしてしまうくらいなんだ。僕だったらもっとひどいかもしれない。

「分かっている……、つもりです。少なくとも早川さんが僕ら読者に伝えたかった事なんかわ」

「へぇ……、言ってみてよ」

 膝から見える顔ははっきりと僕を睨みつけている。けど、敵意というよりはどこか悲しみの籠った目をしていた。

(懐かしい、か……)

 ふと数年前を思い出し、懐かしくなる。昔一度こんな視線を向けられたが、あの時は必死になったものだが、そうか、僕もそう考えることができるくらいには大人になったのかもしれない。

 とにかく、早川さんの質問に答えないといけない。

「この集団殺人が起こったのは明らかに女子中学生達の意志によるもので、それは残念ながら防ぎようがなかった。というものです」

 僕はそう語りだす。

「彼女達は別段仲良しというわけではなく、『クラスメイト』以上の関係になかった。でも、共通していたのは自分と自分達の未来への絶望感でした。ある娘は小学校からの進級によるギャップ、ある娘は家庭問題、ある娘は中学の勉強についていくのが難しくなった、理由はそれぞれですけど、根底には『もう自分は限界だ』という気持ちがあったんだと思います。だから彼女たちは自殺した」

 僕の演説に対して早川さんは無言だ。ということはまだ大丈夫らしい。

「シンナーを吸っての自殺、と聞けばかなりセンセーショナルな話題ですけど、きっと彼女達にはどうでもよかった。単純に飛び降り自殺でも、入水自殺でも、あるいは練炭でもとにかく死ねれば何でもよく、多分それを一番楽しく行えるのがシンナーを吸っての自殺だったから、そうしたんだと思います。けど、これが後々大きな問題になってしまった」

 ここからが重要なところだ、と僕に言い聞かせる。今までの恐らくほんの前座に過ぎない。

「問題は、その後の学校や彼女らの町全体の対応です。学校は僕の責任を回避するため教師を吊し上げ、町の委員会はこの問題を大きく取り上げられるのを殊更嫌っていた。町の住人もこの『不祥事』を恥ずかしく思っており、警察の捜査にすら協力を渋った。でもその間にもこのお茶の間にとって楽しい話題は世間を駆け抜け、結果として全くの無実である教師一人を殺してしまい、そこでようやく終止符が打たれた、あるいは打たれようとしている。……これが記事を読んだ僕の感想なんですけど、どうですか?」

 全てを話し終えて、恐る恐る聞いてみる。

「間違っているわ、全然だめね」

 そんな答えだった。

 膝に顔をうずめながら、早川さんはそう返事をした。だけど、その肩が僅かに震えているのが分かった。

「そうですか……」

 だから僕もただそう返す。

「ぜんっ……、全然違うわよ。あんな奴ら!」

 早川さんの語気が強くなる。

「違ったんですか?」

「違うわよっ!」

 早川さんは頭を上げてカッとこちら見る。その眼には涙が浮かんでいた。

「あんな奴ら! 人が死んでるのよっ! なのに、『私には関係ない』? 『あなたに話しても理解できない』? ふざけんじゃないわよっ! 警察に嘘の情報まで流しておいて!」

「う、嘘……、ですか?」

「そうよ! 町長選が近いから死んだ子供達は『失踪』ってことに最初はなってて、後で死体が警察に見つかっても、身元が分からないように深夜に遺体を盗もうとして。それでなに? シンナーの出所は通販サイト? そんな訳ないでしょっ! 町長選の買収のために使うシンナーが数日前に盗まれてたんじゃない」

 堰を切ったような勢いで捲し立てる早川さんに驚く、なかなか度肝を抜かれる光景だ。

「そんなことがあったんですね……」

「親も最低よ! 僕達が村八分に合わないように、って必死に事実を隠して、警察に『娘さんが亡くなられました』って聞かれてなんて答えたと思う? 『そんな子知りません』よ? 戸籍謄本持ってきてようやく認めるとか人間じゃないわ!」

 それが事実なら確かにどこに出しても恥ずかしい親だ。

「でもそれは、どこの新聞社も報じてませんよね……、それって……」

「そうよっ! 上から口止めが来たの! 今回の件はこれ以上記事にしないように、って。警察の事件捜査のトップと町の町長がグルで取材陣は全員締め出されるし、こんな、こんなバカな連中に殺された教師は……、あんまりじゃない……」

「……」

 全てを言い終えた早川さんはそのまま泣き崩れてしまった。

「最後に残ったのはそれだけ、その記事で最後なのよ、今回の事件記事は……」

 早川さんは吐き出すようにそう口にした。

 しばらくは愕然としていたが、取り乱した僕に気づいたのか、ハッとこちらを見やると少し照れた表情を浮かべる。

「……ごめんなさい。ちょっと今、僕をコントロールできなくて」

「大丈夫ですよ。そういう事は何時までも溜めておけませんから。早川さんの場合は特に」

「ありがと、優しいのね」

 笑顔を見せるが、やはりどこか空元気だ。

「でも、話を聞く限り、かなり綿密に取材したみたいですね」

「そうね、今回の取材を始めた頃は嬉しかったわ。事件性は薄いと思われてたから、新人の私にもチャンスが巡って来て」

 早川さんは涙を拭いながら、ベッドに座り直す。

「『女子高生の集団自殺』というよりも学校側や警察への聞き取りをメインに考えていたから、ここまで大変だなんて思わなかったわ」

「じゃあ、さっき言ったことは全部早川さんが取材したんですか?」

 僕がそう話題をすると、早川さんの顔がやや曇る。それは事件の事を聞かれたからなのか、それとも先ほどの僕の取り乱しを思い出してなのか。

「え、んっと、そうね。一週間の予定だったから四日目からずっと町を取材して回ったの。警察は捜査を妨害されて思うように情報を貰えないし、町の人は全然事件の事を話さないしで、かなり苦労したわ」

 そんな中でよくあれだけの事を引き出せたなと感心する。

「でも、どれも無駄になっちゃったし、それに……」

 早川さんはそこで声を潜めた。

「教師も殺しちゃったしね」

「別に早川さんが殺したわけじゃないんですから……、そこまで……」

「いえわたし、私達が殺したようなものよ。世間がこの『楽しい話題』を面白おかしく見ていたのは、私達の報道が原因だもの、言い逃れはできないわ」

 僕に厳しいんですね。

 そう言おうとしてやめた。今は下手な慰めが出る幕ではない。

「でも、早川さんは違ったじゃないですか」

 代わりにそう返す。

「私だって同じよ、違いなんてないわ」

「いえ、違いますよ。ほら」

 そう言って近畿新聞の一面を早川さんに見せる。

「私達の新聞が……、何よ」

「ここです」

 そう言って日付の下辺りを指さす。

 目を凝らすように見た早川さんは「それ」に気づいたようだ。

「『訂正のお知らせ』……」

 今日の—深夜で日を跨いだからすでに昨日の—朝刊の下にはこう書かれていた。


「六月二十九日に掲載されていた『男子教諭。女子中学生殺害に関与した疑い』についての記事は内容に誤りがありましたので、訂正させていただきます。誠に申し訳ありませんでした」


 その後には、「今後とも近畿新聞はご購読者様の信頼に応えるためにも……」というような定型文が記載されていた。

「それが、何だっていうのよ……」

「これ、早川さんがしたんじゃないですか?」

 僕の言葉に早川さんは驚くが、それと共に、

「そうだけど……、どうして分かったの?」

 と続いたので僕の読みが外れていなくてホッとした。

「この訂正文、最初読んだときは何とも思いませんでした。でも、さっき早川さんの話を聞いて気づいたんです、『もしかしたらこの訂正の記載は早川さんがしたんじゃないかって』、僕の予想……、というよりこの場合は願望でしたけど」

 言って僕も馬鹿なことを考えているな、と頭を掻く。これが外れていたらえらく恥ずかしい思いをしてしまっていただろう。

「僕のバイト先……、居酒屋なんですけど、そこって結構年配のお客さんも来るので、そういう人達向けに色んな新聞を置いてあるんです。で、その新聞のうちいくつかに目を通しましたけど、近畿新聞以外はどこも訂正文は載せていませんでした。どれも教師が自殺した記事ばかりだったのに」

「だから分かった、って言いたいの?」

 僕の言い方を回りくどいと感じたのか、早川さんが答えを言ってしまう。

「ですね。この事件は早川さんが担当されていたらしいので、きっと事件の真相を知って過去に書いた記事が間違いだと気づいた。だから、訂正のお知らせを書いたんじゃないかなって、……違いましたか?」

 ぎこちない笑みと共にそう言ってみる。僕でも穿ったことを言っているという自覚はある。ただ、黙っているのは何だか僕がしたくないことだなと、そう感じた。

 早川さんは僕の言葉に一瞬驚いたものの、深く溜息を吐いて、

「まあ、そんな所ね。何もしてやれなかったけど、せめて間違いは正しておきたかったから」

 酷い自己満足ね、と彼女は笑った。

「早川さんは、優しい人なんですね」

「? 今の流れでどうしてそうなるのよ」

「いえ、結局人の為にあれこれ悩んで、あれこれしてるじゃないですか。それは根が優しくないと出来ないと思うので……」

「あなたも『お節介』って言いたいの? 会社の人にもそう言われるんだけど」

 そう言って早川さんはムッとする、その表情がおかしくて僕は笑ってしまった。

「ふふっ、会社の人が言ってること間違ってないと思いますよ」

 僕が笑ったら早川さんは尚更ムッとしてしまった。これはフォローしておかなければ。

「でも、今できることを今する人って、意外といないですよ。早川さんはそれが出来てるから凄いな、と」

 素直な感想を言う。

「どんな所が?」

「いえ、あの訂正文ですよ。間違ってても普通は訂正しませんから。その点、ちゃんと訂正した早川さんは凄いです」

「何それ? そういうものじゃないの?」

 そして、やっぱり凄い人だなと思わせる返事をする。

「『今かNOW』ですから、やっぱり。それが出来るのはやっぱり凄いですね」

 僕がそう付け加えた瞬間。

「ぶっ! 何それ?」

 早川さんが盛大に噴き出した。

「ちょっと待って……、い、今『今かNOW』って言わなかった?」

「言いましたよ」

 僕はそう認めるが、早川さんの声はかすかに震えている。

 それは笑いを堪えながら話している声だ。

「あ、あはははっ、はははっっ! 何それ⁉ ダサすぎるでしょ⁉ 今時そんな親父……ギャグ……、よく真顔で言えるわね」

 中々ぐさりとくる事を言われたが、人生で二度目なのでそこまで気にはならない。

「僕は良い言葉だと思うんですけどね『今かNOW』」

「いやいや、それはセンスが可笑しいわよ。彼女出来ないわよそんなんじゃ」

 余計なお世話だな、と今度はこちらがムッとするとその表情に気づいたらしく、早川さんは少し落ち着く。

「ちょっとはしゃぎすぎちゃったわね」

「いえいえ、少しでも気が紛れたなら」

 僕はそう笑顔で返した。

「ええ、そうね。ありがとう」

 ベッドの上で笑う早川さんの顔には幾分生気が戻っており、僕はそれを見てホッとした。

 それからしばらくは他愛のない話をした後、日の出が近づいていることを部屋の窓から差し込む光で察した早川さんが慌てて支度をし始めた辺りで会話が途切れ、

「それじゃあ、お暇させてもらうわ。今日は本当、色々とありがとう」

 と早川さんは言って、玄関で姿勢を正して僕に深々とお辞儀をした。

「僕の方こそありがとうございます。久々にこんなに面白い話が聞けてとても嬉しかったです」

「その『面白い』っていう言葉は『私』と『会話』のどっちにかかってるのかしらぁ?」

「それは、また今度会った時のお楽しみということで」

 そんな僕の軽口にニコリと笑った早川さんは、

「それじゃあ本当にありがとうね。でも今日の事は他言無用にお願いね、じゃっ!」

 そう言って人差し指を口元に当てウィンクをすると、玄関のドアを開けてするりと出て行ってしまった。玄関で手を振った僕はその後を追いかけるのもなんだか恥ずかしくて、ゆっくりとドアが閉まるのを見ていた。

 そして、ガチャリ、というドアの閉まる音を聞いた後、無音になった部屋を見渡した。

 先程まではあれほど活気に満ちていた自分の部屋は、途端に魂が抜けてしまったかのように静まり帰っている。

「これが、僕の日常、というわけか」

 そんな独り言を呟きながら、部屋に戻る。

 テーブルには未だ早川さんが使っていたコップが残っていて、先程までの出来事が夢でなかったのだと、自分を安堵させるようだった。

 そんなコップ一つにも慈しみを感じるようになったのか、と自分を気味悪く思っていると、その隣の「もの」に気が付いた。

「これは……」

 それは近畿新聞で、早川さんが担当していた記事がまだ開かれたままになっていた。

 世間が大騒ぎし、それによって奪われた命についてを淡々と記した記事。

 ただ、その裏側には真実に向かおうとする意志と、それが挫折してもなおめげなかった人がいた。

 今、この記事を読んだら早川さんの思いを節々に感じることが出来るだろう。苦悩して葛藤して、それでも実ることがなかったことへの無念が、それでも記事にしてやろうという気概が。

 そこまで考えたとき、自分の進路をまだ決めていないな、とふと思った。

 テーブルの新聞を横に寄せ、空いた場所にノートパソコンを置く。

 起動させて、検索画面を立ち上げ、入力する。


「近畿新聞 新卒採用」


 そうして僕は僕の将来を変える人に出会った。

 大学二年生の初夏のある日。

 この日、今まで空欄のままだった就職先第一志望に、「近畿新聞」という名前が書きこまれるのである。

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