第9話

 ブリュンヒルデがバルシュミーデに到着してから、半月が過ぎた。


「ブリュンヒルデさま、お早うございます」

「お早う、キーラ様」

「ブリュンヒルデさま、ご機嫌麗しゅうございますか」

「ええ、ありがとう、ミルテ様」


 起床して身支度を整え、広間へ行くと、顔馴染になった貴族令嬢たちがにこやかに声をかけてくれる。今日も天気は良く、心地よく過ごせそうな気温だ。バルシュミーデの風は穏やかだ。そして、人々も。

 他国者のヒルデを、バルシュミーデの宮廷人たちの多くは気持ち良く受け入れてくれた。最初はみんな邪悪な魔族ではと警戒していたヒルデだが、流石に数日も経つと、相手の笑顔がうわべだけか心からか、奥に悪意があるのかないのかくらいは判る。祖国の宮廷でも社交をこなしていたのだから。祖国での彼女の評判は概ね良かったが、複雑な人間関係がある以上、誰もが善意の人である事はあり得ない。ただ、バルシュミーデに嫁ぐ事が発表されてからは、気が付く限りの全ての人が同情的ではあったと思うのだが。

 しかし、婚約者である魔王は、自分が結婚相手として気の毒な物件であるとは思っていない。正確には、他国から自分と国がどう思われているか位は勿論知ってはいるものの、相手がヒルデとなると、自分がこんなに愛しているのだから彼女も愛を返してくれて幸せな筈、と、変な自信を持ってしまうのだ。……その自信は心の中に留まり、一向に言動には表れないので、出会いから半月が過ぎても未だ空回ってばかりなのではあったが。


「おはようございます、陛下」


 広間の人波の向こうに婚約者の姿をみとめてヒルデは淑やかに挨拶した。側近のフェリクスと書面を見ながら何事かを話し合っていた魔王はぱっと顔を上げて、


「おお姫、ご機嫌はいかがか」


 と笑顔になる。ぽふっと犬耳と尻尾が出る。もう見慣れてしまった光景だ。


「はい、大変気持ちの良い朝を過ごさせて頂いておりますわ」


 柔らかなもふもふの耳と尻尾を見ると、ヒルデも笑顔になる。初めてモフってから半月、あれから毎日とまではいかないが、ヒルデが喜ぶと知ってヴォルフは、なるべく時間をとっては夜の庭園を二人で散策する機会を作っている。勿論、ヒルデに夢中であるヴォルフにとっては何よりも幸せで嬉しいひとときだ。

 だが相も変わらず、かれは若い娘をときめかせるような気の利いた台詞を口にする事は出来ない不器用なので、ヒルデにとっては未だ『モフモフのスイッチ』の地位からあまり昇格してはいない。ただ、最初は警戒心を解かなかったヒルデも流石にこの半月で、ヴォルフがとにかく自分を喜ばせたいという気持ちに溢れているのは感じられたので、もう、悪い存在だとは思っていない。望めば、最高のそして専用のモフモフを思う存分モフらせてくれる『いいひと』だと思い始めている。……あくまで、恋愛対象ではなく『いいひとなんだけどねー』枠ではあるのだが。


 側近のフェリクスや王弟のディートリヒ、宰相他、主だった王に近しい者たちは、若い婚約者同士が次第に打ち解けて来たのをとにかく歓迎してくれている。近づいた女性の顔を小動物に変えてしまう、魔力のお漏らしの為、今まで女っ気のなかった22歳の王が、恋い焦がれて得た許嫁の心を開かせて、婚儀の後は早く御子を……と誰もが望んでいるのだから、この宮廷にあって、王とその婚約者の恋路には、本人同士の意向以外にはなんの障害もない、筈だった。


「姫、今日は特に何も起こらなければ夕方には仕事は終わる筈だ。夕餉を一緒にどうかな」

「ええ、喜んで」


 夕餉の後にはモフモフタイム……そう思うとヒルデのお澄まし笑顔もいっそう綻ぶ。笑みを交わす初々しい婚約者同士を見て、周囲も微笑む。清々しい朝の柔らかな時間である。


 ――だが、最近、こうした瞬間にふと、ヒルデはどこかから、射すくめるような視線を感じる。最初は、気のせいかと思っていたが、余りに頻繁な気もする。

 ヴォルフが執務室へ去って行った後で、彼女は親しくなった令嬢に思い切って尋ねてみた。


「あのう、ミルテ様。ちょっとお聞きしたいのだけれど」

「なんでしょう、ブリュンヒルデさま」

「こちらに来てすぐに、ご挨拶頂いたと思うのだけれど、レイア・クラフト公爵令嬢……陛下の幼馴染だというかた……を、ずっとお見かけしないのだけれど、どうしてらっしゃるのかしら? あまり宮廷にいらっしゃらないの?」

「えっ……レイア様、ですか。ええとそのう、あのう、少しご病弱でいらっしゃる……からではないでしょうか」

「まあ……そうでしたの。ではそのうちお見舞いのお品でもお届けしないといけませんね」

「いえ、あの、そんなこと……きっと恐縮なさると思いますわ!」


 ミルティア嬢の受け答えは明らかに挙動不審に見える。やはりあの敵意を含んだ視線は、情報収集の末にエルザが怪しいと進言して来たレイア・クラフト公爵令嬢なのだろうか。でも、一体何故? もしや、バルシュミーデとアロイス王国が縁戚関係を結ぶのを、政治的に喜ばない一派が存在するのだろうか? だったら、それは、夫となる魔王に知らせておいた方がいいのだろうか? それとも、魔王国バルシュミーデが混乱に陥るならば、静観して祖国へ情報を流すべきだろうか? 


(いえ、まだ何もわからないし……今は様子を見る時ね)


 魔族の跋扈する邪悪な国、それが己の嫁ぎ先と覚悟して来たのに、大歓迎されてとても居心地がいい。だからほだされている……そんな事は認めたくなくて、ヒルデは無意識に、時間を稼ぐべきだと自分に言い聞かせた。



 婚約者からは無能っぽいと未だ心中で評されている若き王ヴォルフガングだが、その実は、愛しい姫さえ絡まなければ冷静で有能、バルシュミーデの国政の要である。故に日夜、多忙である。夜はともかく、昼間に許婚とのんびりしている暇はない。だから、ブリュンヒルデ姫には、退屈ならば自由に王宮内を見て回って良いと言っていた。

 すると、十日程も経った頃に、ブリュンヒルデはこう言って来た。


「陛下。宮殿の裏手の、綺麗な純白の壁の離宮はなんですの?」

「白? ああ、後宮か」

「後宮?」


 ブリュンヒルデの顔が強張る。傍で会話を聞いていたフェリクスは、他国では『魔王は後宮に数多の美女を侍らせて、夜な夜なその生き血を啜っている』という噂が流れているのを思い出す。


(陛下、陛下! そろそろ、姫に後宮をお見せする頃合いじゃないですか!)

(ああ? おまえ、最初は、見せない方がいいって……)

(それは、最初からあれをお見せしたら陛下の権威が保てなくな……いやいや素晴らしすぎるから後にとっておいた方がいいと愚考しただけです。少し打ち解けてきた今こそ、ですよ!)

(そ、そうか! 姫は可愛いものが好きだもんな! じゃあ俺、案内しよう!)


 そのままくるりとブリュンヒルデに向き直った魔王は、気心知れた側近に対する時とは打って変わった溶けるような笑顔だった。


「数日中にあの建物に案内しよう。きっと姫も気に入ってくれると思う。気に入ったら、好きな時に好きなだけ過ごしてくれて構わないから」


 と告げると、ブリュンヒルデも緊張が解けたようだった。本当に生贄のような女が閉じ込められているのならば、隠そうとする筈、と考えたようだ。



 ブリュンヒルデがレイア・クラフト公爵令嬢の事を尋ねた翌日。

 ヴォルフガングは久しぶりに午後に少しばかりの空き時間を得て、約束通りに婚約者を後宮に案内した。


「まああ!! なんって素敵!!」


 血塗られた後宮……という噂の建物の真の姿は、小動物をこよなく愛する魔王が国中から集めた捨て犬や捨て猫、その他とにかくモフモフな小動物が、清潔に保たれた屋内庭園で飼育されている憩いの楽園だったのだ。


「き、気に入ってくれたかな?」

「勿論ですわ!! 本当に好きな時に来ていいんですの?! うわあ、この子、すっごいじゃれてくるわあ!!」


 ヒルデの喜びように、ヴォルフのテンションも上がり、最高の耳と尻尾がぴんと張る。仔猫と戯れていたヒルデはそれに気づき、頬を染める。


「あ、陛下……あの、今日も『アレ』が素晴らしいですわ……」

「え、そ、そうか? 触りたければ、その、触ってくれ!」


 知らぬ者がたまたま聞いたならばいかがわしいかも知れない会話も、初心なふたりには何のやましい事もない。ヒルデはこくりと頷き、金色の尻尾に手を伸ばす……その時。


「ニャアアアアア!!」


 急に、ゴロゴロと喉を鳴らしていた仔猫たちの中から、一匹の美しい毛並みの長毛種の仔猫が飛び出して来た。仔猫はそのまま、ヒルデに近付こうとしたヴォルフの胸元に飛びついた。


「お、おお? なんだこいつ、はは、可愛いな!」

「まあっ、ふかふかの毛並み! 愛らしい!」

「ンニャ? ニャアッ!!」


 仔猫の行動で更に親し気に笑い合う二人を見て、仔猫は何故か不満そうに鼻を鳴らす。


「んん……でもこんな子、ここにいたっけ……?」


 魔王は、後宮の全ての小動物をきちんと把握している。しかしこの白い仔猫に見覚えはなかった。


(む……なんだか嫌な予感が……)


 そう感じると、警戒心が高まると共にテンションが下がる。


「え……」


 次の瞬間、目の前に現れた光景に、ヒルデは息を呑んだ。


「うわあああ!! おまっ……レイア!! こんなとこで何してるーーー!!」

「ヴォルフさまあ! わたくしをお忘れなんて酷いですわあ! ずうっとお慕いしてますのにぃ!」


 白い仔猫は、ヴォルフのテンションが下がり、漏らす魔力の減少と共に、その正体を露わにした。ヴォルフの胸元にじゃれついていた仔猫は、ぽんと音を立てて、本来の姿に戻ったのだ……一糸纏わぬ美女の姿に。


「ヴォルフさまのお心を取り戻したくて! わたくし、忍び込んだのですわあ! ねえっ、わたくしを見て下さいまし!!」

「やめろ! 服を着ろ!」

「全身猫になるには服は邪魔だったんですわ!!」

「もう猫じゃねえだろ!!」


 猫のように喉を鳴らして、レイア・クラフトは魔王にすり寄る。彼女は昔からヴォルフガングに惚れ、毎日のように言い寄っていたのだった。ヴォルフの方ではずっと、妹のようにしか思えないからときっぱり言っていたのだが、今回、夢の中で一目惚れしたという降って湧いた婚約に納得がいかず、最初からヒルデを敵視し物陰から彼女を視線で呪い、遂にはこの後宮で二人が密会すると聞いて、猫に成り切って二人の邪魔をすべく乗り込んできたのだった。


「ひ、ひめ……?」


 妹のような幼馴染だが、やけに豊満な裸体のまま抱きついてくるレイアをなんとか引きはがそうとしながら、終始無言な婚約者が気になって、ヴォルフは芝生に抑え込まれたまま、ヒルデをそっと伺い見る。

 すると、ヒルデはぶるぶると腕を振るわせ、


「ふ、不潔だわ! 信じられない!!」


 と叫んで、後も見ずに後宮を駆けだして行ったのだった。

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