12話 きせきの追憶~約束~
カラッとした晴天が続き春まき小麦の黄褐色の穂が例年通り実った。
夕方と言ってもまだ明るいこの時期に農道を一人歩く俺は酷く異質に見えるだろう。
黄金のさざ波の中にいても決して洗い流されない不吉の黒。
幼いころこの場所で大人たちがそう言っていたことは今も忘れていない。
だから決して近づかなかった。
けれど、ことが起こったのは、いつものパン屋の帰りだった。
「あの…!」
薬草の緑が染みついた白い服を躊躇いなく掴み俺を引き留める。
肩越しに見遣ると声の主はいつかの時に薬を買いに来た老婆だった。
額から頬を伝う脂汗、悲痛に歪んだ表情、片手は行き場なく宙をさまよっている。
「娘が、倒れてしまいました…!どうしたらいいかわからなくて」
老婆は数キロ離れた医者のもとへ向かおうとしていたところ俺を見つけて助けを求めたということだった。
帰り道を踵返して、小麦畑の坂道にあるおばあさんの家へ急いだ。
机に突っ伏していたその娘さんは見ると日光に当てられて弱っていただけだったので、適切な処置を施してやると数時間程度で具合がよくなった。
経過観察を終え足早に坂道を駆け下りる俺の背におばあさんの声が降ってきた。
「ありがとうございました…!なんとお礼を申し上げたらいいか」
「いえ…いいです。俺はこれで」
一瞥しただけでまた坂を下りてゆく俺に、おばあさんは何を思ったのか懲りずに言葉をつづけた。
「申し訳ありませんでした」
「あなたのこと、よく知りもしないのに勝手なこと言って傷つけてしまって」
「本当にごめんなさい。助けてくださってありがとう」
姿が見えなくなるまでいくつもの謝罪が聞こえていた。
今までのことを思い出すと足を止める気にはなれなかった。けれど、何度も何度も脳裏をよぎるうちに俺も似たようなことをしていたのかもしれないという考えがふっと湧いた。
(俺も、ただの村の人間だとしか思わなかった)
何をしようが何を話そうがわかってくれるはずがないと決めつけて、どいつもこいつも手当たり次第に威嚇していたのではないか。
娘さんは俺の治療に素直に応じた。
あのおばあさんもあの時、本気で謝っていたと思う。
話せば、わかってくれる人もいるのかもしれない。
(あの家族になら、ディディエのことも)
心の中でそう気づいた瞬間、胸にジリジリと焼け付くような痛みが走る。
足が勝手に速くなる。
駆けだすのと同時に、心の奥にしまっておかなければいけないはずの声が、聞き分けの悪い子供みたいに大声で叫びだした。
嫌だ。絶対に嫌だ。
あの子は俺のだ。俺が見つけたんだ。
誰にも譲らない。誰かの隣じゃなくて
俺が一番傍で…
「なんなんだよあの女!」
そんな言葉が耳に飛び込んできて足が止まった。
体がこわばり、息ができない。
まだ少し遠くに見える家の玄関口に、男たちがたむろしている。
体が急激に冷えていくのをその身の全てで感じた。
「ったく…ちょっとからかうだけだったのに本気で噛みついてきやがって」
「黒髪の女だぁ。しつけなんてなっちゃいねぇんだよ」
男たちをはねのけ家の中に足を踏み入れ名前を叫んだ。
「ディディエ!」
薬棚は全部開けられ、もらった絵も集めた薬草も土足で踏みにじられて床に散らばっている。
歩くたびに割れた薬瓶がジャリジャリと音を立てた。
あけ放たれた寝屋へ続く扉からあの子が顔を出すことはない。
ディディエ、もう一度言おうとしたその言葉は唇が震えて音にならない唸り声に変わる。
抱えきれない激情に涙が頬を伝った。目元を拭う度に視界に土まみれの絵が映る。
ディディエとの思い出が、日々が。
喉の奥から獣のような叫び声を吐き出したと同時に、自分が何をしているのかわからなくなった。
かろうじて我に返った時に最初に目に飛び込んできたのは地に仰向けになってみっともなく震える男。
「あの子をどこへやった」
「ひ……!」
「言え……………早くしろ」
「し、しらねぇよ!瓶で殴られてふらふらしてる間に逃げたんだ!」
背の高いこいつらを彼女が殴るような状況は一つしかない。
「あの子に何した」
「あ……こ、ころさないでくれ…なにもしてない!本当に何もしてないんだ!」
男の喉元が目に映った。
唇が震える。また意識が遠のいてゆく。
泣きわめく奴の首に手をかけるすんでのところで、あの日のことを思い出した。
ディディエはあそこにいる。
ディディエを見つけるまで一度も立ち止まることなく、俺は走り続けた。
「ディディエ!」
山中のあの洞窟の中へたどり着いた。
暗闇の中、目を凝らす。
満月ではないけれど、俺の思いにこたえるように瞳が熱を帯びて、だんだん視界が明るくなる。
高い天井、湧き水へ続く道。
そして隅っこでうずくまる小さな人影。
「ディディエ」
俺の声に反応して水色の目が見開かれた。
そうして暗闇の中を探るように両手を伸ばす。
手を取って抱きしめる。華奢な体が冷たくなってガタガタと震えていた。
「……ごめん」
壊れてしまわないように、抱きしめながら頭をなでる。
「ごめん。怖い思いさせて」
背にしがみつく手はあまりにも力が弱い。
滑らかな黒髪の女の子。
だけど、か弱い存在であるその体の大きさは、俺とあまり違わない。
俺じゃディディエをうまく抱きしめられなくて、いつまでたっても体は冷たいまま。
俺は独りだ。
俺も子供だ。
俺はこの子を守れるほど強くない。
わかっていたはずなのに、欲が出た。
俺のエゴがこの子を傷つけたんだ。
やっぱりこの子は、俺のそばにいたらいけないんだ。
俺はもっと早く、この子を手放すべきだったんだ。
「ディディエ…お前に紹介したい人がいる」
ディディエには見えないけれど、俺は笑ってそう言った。
抱きしめたまま持ち上げてそのまま暗闇の外へ連れ出すために歩き出す。
庇うように、導くように、もう誰にも傷つけられないようにするため。
「……俺がこんなだから、だめなんだ」
そうつぶやいた途端目の前が真っ暗になった。
一瞬戸惑ったその隙にディディエは俺から離れて、また手を握る。
痛みに耐えるような顔をして頭を横に振っている。
そんな顔をしてほしいわけじゃないのに
「どうして」
ディディエが俺を抱きしめる。
「離れて…俺はひどいこと考えてる」
ディディエのためを思うのに、ディディエのことだけを思いたいのに、まだ…俺の願望が頭の中を離れない。
いつまで欲しがる気だ。もう十分もらったのに、もう手放さないといけないのに。
嫌だ嫌だ嫌だ…なんて
そんなこと考える自分がどうしようもなく醜い。
「俺を……」
嫌いにならないで、そう続く言葉を必死になってせき止めた。
これで最後にするんだから、困らせちゃいけない。
平気なふりをしてディディエの手を引き離した。
「なんでもない。もう行こう」
言い終えたすぐ、ディディエが息を吸い込む音が聞こえた。
「……嫌いになんて、なるわけない」
言葉が、聞こえた。だがそのことに驚く隙は無かった。
瞬間、ディディエが俺の口をふさいだ。
頭が真っ白になって何も考えられなくなり、膝から力が抜け崩れ落ちる。
それでも離れない触れた唇から優しい熱が流し込まれて、不思議な感覚に包み込まれた。
何もかもが、許されたような気がした。
俺が俺であること。そのすべてに口づけてくれているような。
どれほどの時間そうしていたかはわからない。
気がついたときにはディディエの腕の中にいて、瞳からとめどなく滴が流れ落ちているのだけはわかった。
「エスティー」
透き通ったきれいな声が頭上から聞こえる。
「私の傷を治してくれてありがとう。私に名前をくれてありがとう。私のこと、たくさんたくさん思ってくれてありがとう」
両の掌が俺の頬を包み込み、細められた目に俺の泣き顔を映してディディエは言った。
「私、あなたのことが大好き。ずっと一緒にいよう」
優しい優しいその笑顔に全ての枷がはずれた俺は声をあげて泣いた。
反響する暗闇の中でディディエの熱だけがはっきりと感じられた。
俺が泣き止むその時までディディエが離れることはなかった。
「お母さんが言ったの。ずっと東に進めば、あなたのことを受け入れてくれるところがある。そこに行きなさいって」
うっすらと明るくなった道を二人並んで歩いていく。手を繋いで、歩幅を合わせて、自分たちの声しか聞こえない世界が何物にも代えがたい。
「倒れていたらエスティーが助けてくれた。目が覚めた時、手を握ってくれたエスティーを見てここだって思ったの」
「でも」
「わかってる。きっともっと違う場所」
「大人になったら探しに行こう」
「薬屋、やめてもいいの?」
「職業にこだわりはない。あの村にも」
「私もそうだよ。エスティーがいれば、なんでもいいの」
「……ずっといてもいいの」
「絶対ずっといて」
「じゃあ…俺と結婚するの」
「うん」
「
「似合わなくてもいいもん」
「そうじゃなくて…だから、その…俺もお前から宝石みたいだって言ってもらったから…その名前を名乗りたい。
だから、結婚したら俺はエスティー・ポードレッタ。お前はディディエ・ポードレッタ……だ」
「エスティーは、私にきれいな物ばかりくれる」
「似合うからしょうがないだろ」
はずみでそんなことを言ってしまい顔に熱が集まる。
嘘じゃないけど、面と向かって言うつもりなんてなかった。
バツが悪そうに俯く俺を見てディディエは肩を震わせて笑っている。
「約束だよ」
その言葉に強く頷き、手を繋ぎなおした。
「いつか、俺たちを受け入れてくれる国へ行こう」
「約束、忘れないで」
長い夜が終わり朝日が昇った。
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