10話 きせきの追憶~名前~

 あたりがうっすらと明るくなったころ、彼女の呼吸が浅いものから深く安定したものになり、ひとまず安堵した。

 息を吐いた瞬間、赤い目が弾けるようなかすかな音を立てて深緑にかわり、蓄積された疲労がのしかかってきて瞼がゆっくり落ちてくる。

 ぼやけた視界に茶色の髪が揺れるのが見えて、彼女の手を握りまどろみの中つぶやく。


「まだ寝てろ……大丈夫だから」


 







「エスティー」


 不思議な響きを持った女にしては低い声、俺を呼んだのが誰かすぐにわかった。だから、また…胸が締め付けられる。


「明日の薬、確認できた?」


 死んだはずの母さんは機嫌がよさそうに赤毛を揺らし、俺の横に膝をついて顔を覗き込んだ。

 何かに気付いたのか一瞬顔をこわばらせると、俺の視界を両手で覆う。


「また鏡見てたの?今日は何でいじめられたの?」


 このころの俺は、いじめられたら泣くことしかできない弱い人間だった。

 喧嘩で勝てるようになったのは母さんが死んだあとのこと。

 だからこの夢は、どうして毎日痛い思いをしなくちゃいけないんだと、鏡に映った黒髪を睨みつけながら泣いていたときの再上映なんだろう。

 暗い世界の中で、母さんの声だけが響く。


「大丈夫。お母さんがなんとかする。髪も目もエスティーはきれいよ。お父さんの愛情がたっぷり詰まってるんだからね」


 じゃあなんでみんなは汚いって言うの。不気味だって言うの。

 そう問うと母さんはいつもはぐらかした。

 なんで父さんは死んだの。

 それもごまかした。

 そして不安そうな表情の俺に最後は決まってこう言うのだ。


「大丈夫。お母さんがいつまでも守ってあげるからね」


 じゃあなんで死んだんだ。

 あんたしか守ってくれないのに、どうして先に死んだんだ。

 

 救われることがないのなら、いっそ生まれないほうがよかった。





 目じりから頬に滴が垂れてゆく。

 

(嫌な、夢だった)


 幾度となく迎えた最悪な朝は慣れたけれど、平気にはならない。

 もう少し、泣いた後に目を覚まそう。

 そう思ったとき、垂れてゆく滴を誰かの指先が掬い上げた。

 離れた手は間を置かず俺の頬を包み込み、涙で冷えた顔はじんわりと人肌で温められてゆく。

 目を開けると、昨日担ぎこんできたあの少女が心配そうに俺を見下ろしていた。

 水に浸かっていた毛先以外は鮮やかなライトブラウンで、反対色の青緑の瞳は太陽をしょい込んだ影の中でも輝いて、まっすぐに俺を見つめている。


「起きたのか」


 そう言って体を起こすと自分が寝床の上で横たわっていたことに気がつく。

 おそらく彼女が寝かせてくれたんだろう。


「ありがとうな。俺はエスティー・メイソン……お前、名前は?」


 彼女は喉を抑え何かを言おうとしている。だが、聞こえてくるのは空気がかすれたような音だけだ。

 声が出ないんだ。おそらくは心因性のものだろう。

 無理もない。

 昨日の夜に夜通し看病したあの傷跡たちを思い出す。

 彼女を不安にさせぬよう、その感情を表には出さず、一旦寝床を離れ薬屋のカウンターから紙とペンを持ってくる。


「文字は書けるか…?」


 差し出された紙とペンを受け取りはするものの、彼女は困ったように眉を八の字にさせて頭を横に振る。

 そして唇を指さしたあとばってんを作る、というジェスチャーを繰り返した。


(文字が書けない。それに加えて何かあるってことか。

 声が出ないのはさっき聞いたから…これは別の意味だな)


 少しの間、彼女のジェスチャーの意味について考える。

 名前は、と聞かれて彼女はまだ答えてない。それに対してばってんをつくったのなら筋が通る。

 彼女の生い立ちはわからないが、ありえない話ではないだろう。

 おそらくだが、名前を言ってはいけないんだ。


「お前、行くところはあるのか」


 頭を横に振った後、彼女は自分の髪を指さした。

 黒髪だから。だよな。


「じゃあ、俺のところにいるといい。俺も君と同じだから心配しなくていい」


 一緒にいるのなら、呼び名はやはり必要だろう。

 俺は寝床をめくりあげ、現れたレンガをずらし、真っ暗なくぼみの中で息をひそめていたあるものを拾い上げた。

 死んだ父が残した宝石のカバンと、厚みのある古びた手帳。

 金具細工をいじって取り出した宝石たちを彼女との間にならべながら、手帳をぱらぱらとめくる。

 小さいころから宝石も、父さんの宝石の知恵が詰まったこの手帳も、何べんも何べんも見てきた。

 あの瞳を見た瞬間、どこかで見た色をしていると思った。


「あった…これだ」


 見つけ出したのは、透き通った水色の宝石。

 父さんが宝石商をしていたとき向こうの大陸から仕入れたと手帳には書いてあったはずだ。


「これ、お前の瞳に似てるだろ」


 小指の先ほどの大きさの小さな宝石を彼女の両手にのせる。

 気に入ったのか食い入るように見つめている彼女の横で、俺は父さんの手帳の該当ページにたどり着いた。


「グランディディエライト…っていう宝石らしい。自由な心って意味があるって。持ってる人間は片手で数えるほどしかいないってくらい特別な宝石。

だからお前の名前は、ディディエ」


 彼女、ディディエは宝石を俺の手に戻すと満面の笑みで何度も何度も頷いた。


(明るい子だな)


 足首に傷を刻まれても、こんな笑みが浮かべられる。

 そのことを嬉しく思ったのと同時に、密かにある決意をした。


 人は扱われたようにふるまう。

 俺はこの子に何があったか知らないけれど、大切に扱えばきっとこの子の声は戻る。

 ディディエをこの村に長くは置いておけない。俺といるだけで危険が伴う。

 この子くらい明るければ、黒髪だろうが俺以外にも面倒を見てくれる人がいるかもしれない。

 だから、早くディディエを治して、確実に安全な場所まで送り届けよう。


 俺がそんなことを考えているとは知らずに、ディディエは俺の目に別の宝石を翳して、また満面の笑みを浮かべている。

 それはたしか、父さんがグランディディエライトと同じく向こうの大陸で見つけたというレアジュエルの


「ポードレッタイト…?なんで俺に?」


 ディディエは俺の目とポードレッタイトを交互に指さす。同じだとでもいうように。

 眠る直前の緑に変わるあの時に見たのだろうけど…ディディエが差し出したそれは鮮やかなオレンジッシュピンクに、優し気な光沢


「俺の目はこんなにきれいじゃ…」


 言いかけた瞬間、続きは聞かないとでもいうようにぶんぶんと横に頭を振って宝石を指さす。


「俺の目、満月の時だけ赤くなるんだ。その時は烏みたいなこの黒髪も一層深くなる。

 だから凶兆だって……皆言って…………ディディエ?」


 ディディエは俺の話を聞かず、さっき渡した紙にペンで何かを描いている。

 柔らかな曲線を重ねて描き出したのは、二羽の寄り添う烏。

 目の前に突き出して烏を指さした後自分と俺を指さす。


「あり、がと」


 宝石と手帳はもとのくぼみに戻したが、もらった絵はどうすればいいのかわからなかった。

 看板、燃やさなきゃよかったな。

 ナイフで削ったら額縁にできて、ずっと飾って置ける。

 せめて、土ぼこりが付かないように、絵は空っぽの薬草棚の中にしまった。






 夜が更けたころ、俺たちは出会った川へ向かった。

 黒髪の人間が公衆浴場に行くのはリスキーだ。だから、誰もいないときに川へ行くのが体を清潔に保つ唯一の方法だった。

 ついでに洗濯もできる。なんて言っては天国の母さんに叱られそうだが


「ここの川……深いところでも足はつくけどディディエは泳げるか?」


 水面を見つめる表情が、なんとなく硬い。多分泳げないんだろうな。


「わかった。力抜いとけ…慌てなけりゃ絶対溺れないから」


 程よく冷たい川に入り、浅いところから深いところへ段々と歩みを進めるが同時にディディエが少しずつ後ずさる。


「…水になんか嫌な思い出とかあるか?」


 と問いかけるときょとんとして顔で頭を横に振った。


「じゃ、いくぞ」


 ディディエの肩をつかんで回れ右をさせた後、俺は後ろから倒れこむように川に飛び込んだ。


 バシャン!と弾けるような水音とともにライトブラウンが溶け行く水面に浮上し、ディディエの顎を片腕で支える。


「溺れないだろ。このまま深いとこまでいくからゆっくりしとけ」


 空を見上げながら川の中を漂う。

 ディディエが何をしているか支える腕に全部伝わってくる。

 頭を揺らして水に茶色を溶かしている、笑いながら。

 露になった黒髪を靡かせ、水の中にもぐったり、手を引いて泳いだり、俺たちはそうしてしばらく夜の川で遊んでいた。


いつかディディエとも別れる。

声が治ったら、体が治ったら…

それまでだ。それまででいい。


「手と足の動き変になってんぞ。違う違うそうじゃないって……っあははははは!」


それまでもう少し、笑っていたい。


 だけど、俺は本当に…髪も目もきれいだと言ってくれたこの子を

手放せるんだろうか。


 







 

 

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