鉄壁【二】
今より三十年ほど前――。
グランレイ王国に、一人の魔術師がいた。
男の名前はダール・オーガスト。
『憤怒のダール』の名は、魔術界において恐怖と
ひとたび彼が戦場に踊り出れば、まさに『一騎当千』。
「
「お、おい、ダール……! いくらなんでも、今のはやり過ぎだぞ!」
「さっきの魔人たちとは、まだ交渉の余地があっただろう!?」
「……行き過ぎた殺しは、すなわち『悪』だよ?」
年上の部下たちの忠告、彼はそれを笑い飛ばした。
「がっはっはっはっ、そんなものは知らん! こいつらは人間を
ダールは魔術師として正しかった。
彼の考え方は決して間違っていなかった。
実際そのお陰で、大勢の人たちは助かった。
確かに多くの血は流れたが、それよりもたくさんの命が救われてきた。
しかし、彼の正しさは、
深く
それは月明かりの綺麗な夜のことだった。
魔人の大群が、ダールの屋敷を襲撃した。
「姫様の
「魔術師ダールを殺せぇええええええええ!」
かつてダールが滅ぼした、とある魔人の残党たちが、忠義の心と憎悪の
「はっ、
寝込みを襲ったところで、ダールの強さに変わりはない。
「灼道の
「「「ぐぁあああああああああ!?」」」
灼熱の大魔力が
しかし――ここは戦場ではない。
この屋敷には、ダールの守るべきものがいた。
「きゃぁ!?」
ダールが灼熱と時を同じくして、女性の悲鳴があがる。
「す、すまん……大丈夫か!?」
「は、はい……っ」
この家には今、ダールの最愛の妻ローレット・オーガストがいるのだ。
彼女はそれなりに優秀な魔術師だが、今は妊娠八か月目――激しい戦闘など、もってのほかだ。
「し、しばしの間、奥の隠し部屋に隠れていろ! この俺が、すぐに終わらせてくる……!」
ダールはそう言って、彼女を送り出した。
灼熱の力は、守りに向かない。
これまで守る力を磨いてこなかった彼は、最愛の妻の隠れる部屋に、結界の一つも掛けてやれなかった。
その後、どれぐらいの時間が経っただろうか。
「こ、の……化物、が……ッ」
「はぁはぁはぁ……っ。さすがに百体は……多いである、な……ッ」
ダールは重たい体を引きずり、大急ぎで妻の元へ向かう。
「ローレット、ローレット! 無事、か……?」
扉を開けるとそこには――腹部を貫かれた、ローレット・オーガストの姿があった。
「……嘘、だろ……?」
ダールが激しい戦闘に身を投じている最中、とある魔人がこの隠し部屋を発見し、ローレットを襲撃。
彼女は必死に応戦するも、同士討ちとなってしまったのだ。
「こ、こんなこと、あるわけが……ッ」
眼を疑った。
まるで時が止まったかのような錯覚を覚えた。
そんな中、
「……ダー、る……?」
ローレットの
「……!」
ダールはすぐさま駆け寄り、優しく声を掛ける。
「よくぞ、生きていた、ローレット! だ、大丈夫だ! 俺は超天才魔術師だからな! こんな傷、すぐに治してやるぞ!」
彼は言うが早いか、すぐさま回復魔術を展開。
「――白道の三十五・
しかし――せっかく構築した術式は、すぐに論理破綻を起こし、霧のように消えていく。
「ぐ……っ」
ダールの魔術適性は赤道と灼道。
白道は最も苦手とするところであるうえ、彼はその基礎的な修業を
「……ごめんな、さぃ……。お腹の子ども、守れなかっ……た……ッ」
ローレットの
「な、何を言っているんだ! 大丈夫、二人とも助けるって言っただろう? 俺の知り合いに、凄腕の医者がいる! 天才的な白道使いだ! ただでさえ扱いの難しいとされる回復魔術、その六十番台をなんと無詠唱で使えるんだぞ!?」
なんとか元気付けようと、明るい話を絞り出すが……現実は何一つとして変わらない。
彼女の腹部からは、鮮血が止め
(……血が、止まらない……。くそっ、いったいどうすれば……!?)
自分は白道の回復魔術を
このまま病院へ運んだとして、到底間に合うはずもない。
ダールが答えのない問題に頭を悩ませていると、
「……ありが、とう……。あなたのこと、ずっと、ずっと……愛していまし……た……」
ローレットは最後に一度だけ柔らかく微笑み、それっきり動かなくなってしまった。
「ろー、れっと……?」
名前を呼ぶが、返事はない。
「お、おい、ローレット! 意識をしっかりと持て! 大丈夫、助かるから! 絶対に俺がなんとしてやるから!」
肩を揺すれども、返事はない。
彼女の心臓はもう、鼓動を止めていた。
「……ぉ、お……ぉおおおおお゛お゛お゛お゛……ッ」
夜の闇に男の悲痛な
「……何故、だ……何故なんだ……っ」
どれだけ魔力を
時間はあった。
白道を学び、回復魔術を修めるだけの時間など、いくらでもあった。
しかし、それをしなかった。
この灼熱の力があれば、全てそれで事足りると
彼は自身の怠慢を悔い、自身の驕りを憎み、自身の無力を呪った。
「……神よ、お願いだ。もうこんな破壊の力などいらん。この命だってくれてやる! だから、頼む……頼むよ……。最愛の家族なんだ……ッ」
膝を折り、
大粒の涙をボロボロと流し、ひたすら天に願い
そのとき――屋敷の裏手にある森から、若い男女が歩いてきた。
「あ゛ー……くそっ、なんでこんな金にならねぇ仕事、このあたしが引き受けなきゃならんのか……」
「あはは。金の亡者っぷりは、相も変わらずだねぇ」
見るからに気の強そうな女とクラウンメイクを施した道化師の男。
どこか浮世離れした雰囲気を放つ二人組は、泣き崩れるダールと
「んー……? おやおや、これは酷い状態だねぇ」
「……魔族の襲撃に遭ったのか」
「ねぇレメ。なんか可哀想だし、治してあげたら?」
「はぁ……お前のその無駄な博愛主義はなんなんだ? 中は腐り尽くしているくせに……」
「あはぁ、誉め言葉として受け取っておくよ」
二人の会話の中、ダールの耳に届いたのは、『
「な、治せるのか!? 妻を……この状態を治せるというのか!?」
「うん、任せておくれ。彼女なら朝飯前だ」
「おいこら糞ピエロ、てめぇ何勝手に
「そう怒らないでよ。お金なら、後でちゃんとボクが全額支払うからさ。……でも、そんなことを言いながらも、どうせ治してあげるつもりだったんでしょ?」
「うっせぇボケが! 深夜料金だ、三割増しで請求すっからな! ――白道の九十七・
乱雑に唱えられたその魔術は、奇跡の九十番台。
本来これは、神殿で大儀式を構え、優秀な魔術師を多数揃え、年単位の長い時間を掛けて、ようやくなんとか行使する神の奇跡。
彼女はそれを気軽に無詠唱で発動してみせた。
天より舞い落ちる幾億の術式、それらは複雑に絡み合い、神秘的な回復魔術が
(な、なんという、魔術技能だ……ッ)
ダールが息を呑んでいる間にも、ローレットの顔色はみるみるうちに生気を取り戻していき、すーっすーっという規則的な呼吸音が聞こえてきた。
「ほれ、治療終わり。まだ意識は戻っちゃねぇが、そのうち目を覚ますだろ。あ゛ー……後あれだ。腹ん中のガキも、ついでに治しといたぞ」
「お、おぉ……おぉおおおお……ッ」
もはや言葉にならなかった。
「――ありがとう、本当にありがとう……ッ」
何度も何度も床に頭をぶつけ、ひたすらに感謝の言葉を繰り返す。
「気にすんな。サービス料も含めて、金はこの腹黒ピエロから、たんまりとふんだくるからな」
女がそう言って、視線をチラリと横へ向けると、
「ん゛ーっ。やっぱり君の白道は、いつ見ても本当に美しいねぇ……ッ」
道化師の男は、
「お前……可哀想だなんだと抜かしていたけど……。実際はただ、あたしの魔術が見たかっただけだろ?」
「うん」
「……はぁ、もういい。何百年経っても、そういうところだけは、なんにも変わらねぇな……」
女は大きくため息をついた後、クルリと振り返った。
「――あんた、『憤怒のダール』だろ?」
「お、俺のことを知っているのか……?」
「風の噂でな。……まぁ、あんたは確かに強い。これだけの魔人を一人で
「守る強さ……。ど、どうすればいい? 俺はどうすれば、あんたのような『本物の魔術師』になれる!?」
「知るか馬鹿。自分で考えろ」
容赦なく斬り捨てた直後、道化師の男が
「んー、そうだなぁ……。まず君は雰囲気がとても怖いから、もっと体を丸くすべきだね。後は……言葉遣いも柔らかくしてみたらどうかな? 『である』口調とか、けっこういいと思うよ?」
「てめぇは黙っとけ! ちっ……あれだ、白道を学べ。最低限、自分の大切なものを守れるだけの力を身に付けろ。まずはそっからだ」
「……白道……」
ダールがポツリと呟いた後、謎の男女はクリルと
「――そんで話を戻すが、『例の眼』はどこにあんだ?」
「さぁ? それを今から探すんだよ」
「てめっ、このペテン師野郎! 『見つけた』っつって、呼び出したよなぁ!?」
「あれぇ、そうだったっけ?」
二人は何やら奇妙な会話を交わしながら、夜闇の中に消えていった。
ダールの人生において、最も壮絶で過酷な一夜が明けた次の日――魔術教会に激震が走った。
「お、おい……待てよ、ダール! 殲滅部隊を辞めるって、本気で言っているのか!?」
「一から白道を学び直すぅ!? そりゃいったいなんの冗談だ!?」
「だ、『第三の教師』ぃ!? お前が!? なんでまた!?」
灼熱という破壊の力に
「俺は……否。吾輩は全てを守る白魔術師――『鉄壁』のダールである!」
そして新たに、
■
グリオラとダールの大魔術が激突し、凄まじい破壊が辺り一帯を
「……え?」
「何が、起こった……?」
「……私、生きて、る……?」
いくつもの声が上がり、土煙が晴れるとそこには――背中に幾多の白刃を突き立てた、血染めのダールの姿があった。
「……なんで、だよ……っ。どうして攻撃をやめた、ダールゥウウウウ!?」
グリオラの慟哭が、千年樹林に木霊する。
「せ、先生……っ」
「俺たちを、守って……ッ」
死を覚悟していた生徒たちは、ボロボロと大粒の涙を零した。
「……皆、無事のようで……何よりで、ある……っ」
ダールは口の端から血を垂らし、ニコリと笑ってみせる。
(ダール先生……っ)
魔眼を持つエレンだけが、この中で唯一、ダールの断固たる覚悟を――魔術師としての
彼は
自身の最も苦手とする広域防御魔術――『白道の八十五・
その命を
「はぁ……そうか、結局お前も
侮蔑と呆れ――グリオラの瞳は、どこまでも冷め切っていた。
「こ、この卑怯者め……!」
「一対一の勝負なら、ダール先生が絶対に勝っていた!」
「弱いのは、お前の方だ!」
生徒たちの
「ぎゃーぎゃーぎゃーぎゃー、うるせぇ
グリオラはそう言うと、懐から紫色の果実を取り出し――
それと同時、彼の全身に凄まじい魔力が溢れ出す。
大量の魔人細胞を取り込むことで、完全回復を果たしたうえ、さらに広大な力を身に付けたのだ。
そして――。
「――
超巨大な白銀の
それは万象一切を貫く、単体殲滅魔術。
その内部には、街一つ消し去るほどの大魔力が秘められている。
「よく見ておけよ、ダール。これがお前の弱さが生み出した、くだらねぇ結末だ」
「……皆、逃げるので、ある……っ」
そうは言うものの、逃げ場などもう、どこにもない。
「――さらばだ、弱き
グリオラが腕を振ると同時、極大の
「……終わっ、た……」
「こんなのどう足掻いても無理よ……」
ゼノとアリアが――否、この場にいる全員が絶望に暮れる中、
「……すみません、ヘルメスさん。約束、守れませんでした」
特殊なレンズが空を舞い、紅の瞳が
「――白道の一・
次の瞬間、漆黒の大閃光は、グリオラの
「……ぁ……?」
困惑は一瞬、
「ぐ、がぁああああああああ……!?」
焼け焦げるような痛みが、彼の胸部を駆け巡る。
「ば、馬鹿……エレン、お前……っ」
「キミ、こんな大衆面前で……正気なの!?」
ゼノとアリアが混乱する中、エレンは大きく前に踏み出す。
「――ダール先生は弱くない」
その一歩は猛毒となりて、大地を殺し尽くす。
「自分の命を
その魔力は呪いとなりて、天空を殺し尽くす。
「お前の掲げる『真の強さ』なんか、ダールさんの『本当の強さ』の足元にも及ばない……!」
その瞳は絶対の死となりて、
千年前、世界中を恐怖のどん底に陥れた『史上最悪の魔眼』が、遥か悠久の時を超えて今再び、その『真の力』を解き放つ。
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