呪蛇の刻印


 街を飛び出し、獣道を駆け、奥まった林道を抜けた先――ボロボロの民家が見えてきた。


「ここだ」


 ゼノは玄関の扉を荒々しく蹴り飛ばし、颯爽さっそうと中へ入っていく。


「お、おじゃまします」


 エレンがそう言って、ローゼス家の自宅に入るとそこには――おびただしい数の魔術書が、所狭ところせましと積まれてあった。

『魔眼全集』・『解呪の魔眼』・『後天的魔眼の発現可能性』などなど、黒道、それも魔眼についての本ばかりだ。


(す、凄い量だな……。これ全部、ゼノさんの蔵書ぞうしょなのか?)


 その異常な光景に、エレンは思わず息を呑む。


 一方のゼノは、シルフィを優しくベッドに寝かせ、すぐに薬の準備を始めた。

 台所で白湯さゆを沸かし、そこへ粉状の薬を溶かしていく。


 もう十年以上も続けているため、その動きにはまったく無駄がない。


「――シルフィ、いつものお薬だ。飲めるか?」


「はぁはぁ……っ。お兄……ちゃん、ごめ……なさい……っ。でも、今日……誕生日、だったから……っ」


「あぁ、お前の気持ちは、本当に嬉しいよ。ありがとうな」


 ゼノは絶対に外では見せないであろう柔らかな微笑みを浮かべ、シルフィの頭を優しくそっと撫ぜた。

 それから少しして、シルフィが眠りについたことを確認したゼノは、すぐにいつもの険しい表情に戻る。


「――おぃ゛、こっちだ」


 エレンを連れて居間に移動した後は、慣れた手つきで暖炉だんろの床を取り外し、『秘密の地下室』への入り口を開けた。


「これは、隠し階段……!?」


「静かにしろ。シルフィが起きちまうだろうが」


「す、すみません……っ」


 二人はその後、長い螺旋階段をひたすら下っていく。


 重たい空気が流れる中、エレンは恐る恐る口を開いた。


「あの……ちょっといいですか?」


「なんだ」


「シルフィさんのあれ……『呪い』、ですよね?」


「……あぁ」


 ゼノは重々しく頷き、静かに語り始める。


「――『呪蛇じゅじゃの刻印』。てめぇも魔術師なら、一度ぐらい耳にしたことがあんだろ」


「え、えぇ……。クラスのみんなが話していたので、一応、名前だけは聞いたことがあります」


「うちは……『ローゼス』っていう一族は、どうしようもねぇ糞ったれの集まりでな。千年以上も前から、黒道ちからばかりを貪欲に追い求め、非合法な実験や禁止された研究を続けてきた」


 彼はどこか呆れた様子で、一族の内情を暴露する。


「そんな長きにわたる馬鹿げた探求の末、とある洞穴どうけつの奥深くで『メギド』という大魔族に出会ったそうだ。うちのおめでたい御先祖様は、そのゴミ野郎となんらかの契りを結び、『呪蛇の刻印』を授かった。――この首筋に浮かぶ、薄汚ねぇ蛇の紋様のことだ」


 ゼノは自嘲気味に笑い、クイとうなじを見せた。


「それが呪いの証、ですか……」


「そうだ。――俺は生まれたときから、黒道適性がずば抜けて高くてな。この呪いにも、難なく適合できた。……まぁ確かに、使いこなせれば便利な力だ。呪蛇の刻印こいつに寿命を喰わせれば、その見返りに莫大な魔力を得られるんだからな」


 彼はそう言った後、瞳の奥にくらい影を落とす。


「だが……シルフィのように体の弱い魔術師は、呪いの負荷に耐えられねぇ。呪蛇の刻印は長い年月をかけて、起点である首から眼や肺へ進み、被呪者ひじゅしゃの体をむしばんでいく。そしてやがては、その命を食らい尽くす」


「……っ」


 残酷な現実に、エレンは息を呑む。


「俺はなんとかそれを防ぐため、ありとあらゆる手を尽くした。高名な回復術師のもとへ何度も足を運び、体にいいとされる薬草を掻き集め、呪いの専門家たちに助言を求めた。だが……呪蛇の刻印は千年前に結ばれた誓約、長い時間の中で成熟したそれは、もはや単なる『呪い』というレベルを超えていた。結局、何年も無駄な時間を費やしてわかったのは、『追憶の魔女レメ・グリステン』クラスの白道使いじゃねぇと、解呪は不可能だってことだけだ」


 ゼノは自身の無力を噛み締め、硬く強く拳を握る。


「それから俺は、レメに会うための手段を探り――ようやく一つ、現実的なものを見つけた。『王立』の学園長に頼み、レメと引き合わせてもらう方法だ」


「なるほど……それであのとき『交渉権』を欲しがっていたんですね」


「あぁ、そういうことだ」


「でしたら、俺の交渉権を使ってください! そうすれば、シルフィを助けられるんですよね?」


 エレンの提案に対し、ゼノは小さく首を横へ振った。


「……もう遅ぇんだ……」


「どういうことですか?」


「シルフィの首筋、見たか? 蛇の口が……開き掛かっていた……っ。あれは呪いの最終段階……あいつの命は、もう一日ともたねぇんだ……ッ」


「そ、そんな……っ」


 絶望的な宣告を受け、エレンは固まってしまう。


「で、でも……! 考え方によっては、まだ・・一日あるじゃないですか! 今すぐ学園長のところへ行きましょう! こちらの事情を説明すれば、きっとすぐにそのレメって魔術師を呼んでくれるはずです!」


「……レメ・グリステンは数年前に謎の失踪を遂げている。今頃どこで何をしているのか、そもそも生きているのかどうかさえわからねぇ。たとえ学園長クラスの権力があっても、一日やそこらであの魔女を捕まえるのは不可能だ」


 完全な八方塞がり。

 二人の間に痛々しい沈黙が降りた。


「……今までの呪いの侵食速度から計算すれば、最低でも後一年はもつはずだった。それなのに、一か月前から急に呪いが強くなり――このざまだ。……おかしい話だよなぁ。俺みたいなろくでなしがのうのうと生き残って、シルフィのような優しい子がつらい目を見る……。こんなの、やってらんねぇよ……っ」


「……ゼノさん……」


「……とにかく、今日が『最後の一日』なんだ。だからもう、これ・・に懸けるしかねぇ」


 長い階段を下りきり、最下層に到着したゼノは、大きな燭台しょくだいに火を灯した。


 すると次の瞬間――地下室全体に書き記された、膨大な量の術式が浮かび上がる。


「これは……!?」


「禁術・『魔王降臨』――俺が十年懸けて組み上げた、絶対に・・・成功しねぇ《・・・・・》召喚魔術だ・・・・・


「ちょ、ちょっと待ってください……っ。魔王は千年前に滅びたはずじゃ!?」


「魔術教会はそう発表しちゃいるが……あれは大嘘だ。あの化物はまだ、完全に滅びちゃいねぇ。今もこの世界のどこかで、ひっそりと息を潜めている。いつか来たる『復活の時』に備えてな」


「……っ」


 淡々と語られるその話には、どこか真に迫るものがあった。


「今から発動するこの魔術は――確実に失敗する。俺の魔術技能じゃ、魔王降臨を正しく展開することは不可能だ。だが……それでいい。魔王の本尊ほんぞんを呼び出せずとも、奴の魂のひとかけらでも召喚できれば、それで十分だ」


「そんな不完全な魔王を呼び出して、いったい何をするつもりなんですか?」


 エレンの問い掛けに対し、ゼノは別の質問で返した。


「なぁ、知っているか? 解呪には大きく分けて三つの方法がある」


「えーっと、呪いの根源に相殺術式をぶつけるか、矛盾点を突く術式破却じゅつしきはきゃくか、後は崩珠ほうじゅとかいう魔術で無理矢理壊す……でしたっけ?」


 大聖堂での一件を思い返しながら、エレンは三つの方法を全て正確に答えた。


「……よく知っているな、正解だ」


 ゼノはそう言って、一瞬だけ驚いたように眉を上げた。


「だけど実はもう一つ、魔術界でもほとんど知られていない『秘密の手法』があるんだ」


「秘密の手法……なんですか、それは?」


「――『毒を以って毒を制す』。すなわち、より上位の呪いを以って、下位の呪いを殺すんだ」


 彼はそう言って、詳しい話を語る。


「『呪蛇の刻印』という強力な呪いを殺すには、それよりもさらに邪悪な呪いがいる。だから俺は、自分の命と引き換えにして、魔王から『あの忌物』を借り受けるんだ」


あの忌物・・・・……?」


「奴の両の眼窩がんかに収まる忌物――『史上最悪の魔眼』だ」


「……っ」


 まさかここでその名前が飛び出すとは思っておらず、エレンは言葉を失った。


「あの魔眼は、わば『最強・最古の呪い』。その絶対的な力をもってすれば、『呪蛇の契り』も無効化できるはずだ」


 ゼノは親指を浅く噛み、部屋の中心部に鮮血を垂らした。


 それと同時――魔王降臨の術式が起動し、周囲に漆黒の瘴気が溢れ出す。


「ちょ、ちょっと待ってください! もし仮にこれが成功して、呪蛇の刻印が解けたとしても……ゼノさんが死んでしまったら、シルフィは悲しみますよ!? もう一度、冷静になって考えて――」


「――うるせぇ! そんなもんは、この十年で死ぬほど考え尽くした!」


 ゼノの凄まじい怒声が、狭い地下室に反響する。


「毎日毎日、頭がおかしくなるぐらい悩んで悩んで悩み抜いて……。それでも結局、どれが正解ただしいかもわかんねぇ……っ。だけどよぉ……俺にとって、シルフィはたった一人の家族なんだ。どんなことがあっても、生きて笑っていてほしいんだ……ッ」


「……そのためなら、自分の命はどうなっても構わないと?」


「あいつのためなら、惜しくもねぇよ」


 深い親愛と決死の覚悟。


 ゼノの固い決意を感じ取ったエレンは、小さく息をつく。


「――わかりました。もう無理に止めたりはしません。ですが、最後に一つだけ、俺の話を聞いてもらえませんか?」


「……なんだ」


「ゼノさんがお探しのものは……多分、これ・・ですよね?」


 彼が特殊なレンズを外すと同時、曇りのない漆黒に煌々と灯る緋色の輪廻――魔眼の中でも最高位に君臨する、『史上最悪の魔眼』が現れた。


「……嘘、だろ……!? お前、何故それ・・を……っ。いやそんなことより、どうして・・・・俺に・・明かした・・・・!?」


 魔王の寵愛を受けた証であるその瞳は、魔術界における『絶対の禁忌』。

 もしもそれが教会に知られれば、A級以上の魔術師で構成される『殲滅部隊』によって、可及的速やかに『駆除』されてしまう。


(そんなデケぇリスクを冒して、いったいこいつになんの得があるんだ……!?)


 エレンとシルフィは、今日偶然ばったりと出会った浅い仲。

 血の繋がった肉親でもなければ、古くからの親友でもない。


 そのうえ自分とは、つい先ほど激しい殺し合いをしたばかり……。 


 所詮は赤の他人でしかないエレンが、むしろこちらを煙たく思っているであろう彼が、教会に消される危険を冒してまで、魔眼の秘密を明かした理由が理解できなかった。


「どうしてもこうしてもありません。俺はただ、シルフィを助けたいだけです」


 エレンの瞳にはほんの僅かな淀みさえなく、その言葉が真実まことのものであることは、火を見るよりも明らかだった。

 彼の真意を、その懐の深さを見せ付けられたゼノは――くだらないプライドを捨て、深々と頭を下げる。


「エレン……恥を承知でお前に頼む。その魔眼で、妹の呪いを解いてやってくれねぇか……っ」


「えぇ、もちろんです」


 こうしてエレンとゼノは、呪蛇の刻印を解くため、シルフィのもとへ向かうのだった。

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