空は、見えるのに。

きょうじゅ

本文

 ブイブイが、また翔ぶのに失敗して墜ちた。

 ブイブイはみんなの笑い者になり、片腕を捻挫した。

 ブイブイ全治二週間。ブイブイもう13歳になるのに。

 ブイブイは蜘蛛神様に見放されてるんだって、みんなそう言う。


「くっそう」


 ブイブイだって蜘蛛アラネア族の若者。14歳の誕生日を迎えたら、アラネア族の掟に従って、空を飛んで旅に出なければならないのに。


 ブイブイの友人のスピンはこう言う。


「ブイブイ、お前は身体を軽くしすぎるんだ。だから糸を風に乗せるときに、しっかりと風の方でお前を捕まえてくれないんだ」


 ブイブイの姉のシュピンネは独特の心配の仕方をする。


「アラネア族に生まれたからってみんなが無理にセスジアカムネグモの生き方をしなきゃならないなんて、時代錯誤の閉塞だわ。現代に生きる我々は、もっと多角的な視野を持つべきなのよ。ブイブイはまだセスジアカムネグモになってはいないんだから、他の生き方だってきっと選べるはずなのよ。ナゲナワグモなんてどう? 狩りをするのよ。糸を使って。今からでも練習をすれば、きっとブイブイだって立派なナゲナワグモになれるわ」


 ブイブイの幼馴染のガールフレンド、アレニェーはこうだ。


「ブイブイだって、きっと一人前のセスジアカムネグモになれるわよ。そのときは、きっと私も連れて行ってね。二人で、どこまでもどこまでもお空の旅をしましょう」


 ブイブイの師、パウーク先生はもう既にかなり悲観的になっている。


「ブイブイ、お前は筋がいいとか悪いとか以前に、はっきり言って全く才能がないのだ。ナゲナワグモはともかく、あの掟は絶対に守らなければならないというものではない。他の生き方も、考えておくがよいぞ」


 ブイブイはしかし思うのだ。


「ぼくだってアラネア族の男と生まれたんだ。アレニェーも待っていてくれているんだ。きっと、挑戦するぞ。失敗して命を落とすことになったって、ナゲナワグモなんかとして余生を過ごすよりは、きっとずっとマシだっていうものさ」


 セスジアカムネグモは小さな蜘蛛だ。草の先で逆立ちをして、おしりから空に向けて糸を流す。そしてその糸が風に舞い上げられ、その勢いを利用してセスジアカムネグモは空を飛ぶ。この飛び方を、バルーニングという。もっともセスジアカムネグモも、大人になってしまうと体重が重くなりすぎてしまうからバルーニングはもうできない。


 アラネア族が旅に出るのが14歳、身体が大きくなり切らないうちと決められているのは、そのためだ。アラネア族のバルーニングは、アラネア族がこの大陸いっぱいに棲み処を広げるために、繰り返し繰り返し、ブイブイの御先祖様の頃からずっと行ってきた、大切な儀式だ。


 ブイブイは才能はからっきしだったが、根気と負けん気だけは人一倍だった。だから毎日毎日、お尻を空に向けて、空を飛ぶ練習をした。そのたびに、増えていくのはすり傷ばかりだったけれど。


 そんなある日のこと。


 アラネア族の村に、一人の有翼人の旅人がやってきた。その男はホークマンがみなそうであるように痩せぎすで、年はまだ二十歳をいくらか過ぎたばかりのようで、そして名はカノンであると名乗った。


 ホークマンは鳥の翼を背に持つ獣人の一種だ。空を飛ぶという異能を持つ、この大陸においても数少ない、アラネア族と並ぶ知的種族の一グループである。もっとも数の上でも知名度でもホークマンの方がよっぽど上で、アラネア族の存在を知るものはこの大陸じゅうにもあまりいないのだそうだが。


 カノンはブイブイに興味を持ったようだった。


「少年。君は空を飛びたいのに、空を飛べないのかい」

「おじさん、僕は空を飛びたいけど、空を飛べないんだ」

「おじさん、はやめてくれ。そんな年じゃない。カノンだ」

「ぼくはブイブイ」


 ブイブイ、空を見せてやろうか、とカノンは言った。

 カノン、空を見せてくれるの、とブイブイは答える。


「人を抱えて空を自由に飛べはしない。

 朝飯前というわけにはいかないが、

 今の君くらいなら何とかなるだろう」


「お願いします、カノン。

 僕は一度でいいから、空を見てみたかった」


「おかしなことを言うね」


 カノンは笑った。


「空なら、ほら、そこに見えているじゃないか」


 ブイブイは答える。


「あれは本当の空じゃあないのでしょう。

 空の上から見る空が、本当の空なのでしょう」


 さてどうかな、とカノンは顎に手をやった。


「まあ、実際に見てみるがいい。

 その方が、よっぽど話が早いからね」


 ブイブイの姉のシュピンネが、カノンの体に、自分の糸でしっかりとブイブイを括り付けた。蜘蛛の糸には縦糸と横糸、くっつく糸とくっつかない糸がある。それを利用すれば、うまくホークマンの身体にアラネア族を括り付けることは可能なのだった。


 カノンのオレンジ色の翼が、力強く羽ばたいた。ふわりと、身体が浮く。そのまま上昇。やがて空気の濃くて重いところに辿り着くと、カノンは一気に滑空し、夕焼け空の向こうへとブイブイを運んでいった。


「どうだい、ブイブイ。これが空さ」

「カノン、これが本当に空なのですか。

 なんだか、思っていたのと、違います」

「分かったかい、ブイブイ。君は、空が飛べなかった。

 空が飛べていれば気付いたはずのことに、今までずっと気付いていなかった」

「それは?」

「空は一つ。空はいつだって、見えるがままに空だってことをさ」


 夕焼けの空にかかる雲はどこまでもどこまでも桃色だった。


 それからブイブイは空を飛ぶ練習をパタリとやめてしまった。


 ブイブイの幼馴染のガールフレンド、アレニェーは失望して去って行った。


「ブイブイだって、きっと一人前のセスジアカムネグモになれたのに。そのときは、きっと私も連れて行ってほしかったのに。二人で、どこまでもどこまでもお空の旅をしたかったのに」


 ブイブイと代わってアレニェーと付き合うようになったスピンは言った。


「ブイブイ、今のお前は心を軽くしすぎているんだ。だから魂を風に乗せるときに、しっかりと風の方でお前の魂を捕まえてくれないんだ」


 ブイブイの師、パウーク先生は相変わらず悲観的だった。

「ブイブイ、お前は飛ぶ才能もなかったが、ならば他にどんな才能があるのだ? 他の生き方を考えるのはよいが、お前はじっくりと、とっくりと、これまで以上に自分自身と向き合わなければならないのだぞ」


 空を飛ぶことに興味を失ったブイブイは、糸を編むことを練習し始めた。糸を編んで、何にするのか? セーターでも作るのか? 手袋か、帽子か? そのどれでもなかった。蜘蛛の糸を使って、ブイブイは狩りをするのだ。獲物を待ち構え、糸を編んで作った罠にかかった獲物を横から襲うのだ。


 そうなると、ブイブイの姉のシュピンネは楽しげですらあった。


「アラネア族に生まれたからって、みんなが無理にセスジアカムネグモの生き方をしなきゃならないなんて、時代錯誤の閉塞だったんだわ。ブイブイの今の生き方は、とても多角的だと思うわよ。飛ぶためのものであるはずの糸を編んで、獲物が捕まるのを待つだなんて。これはきっと、アラネア族の、いいえ、蜘蛛の世界に革命をもたらすに違いないわ」


 ブイブイの作る糸の罠ははじめのうちはひどく稚拙だった。しかしいつの頃からか、頑丈な、雨に濡れても壊れない罠が作れるようになった。最初にかかった獲物は、ちっぽけなウィル・オー・ウィスプだった。ウィル・オー・ウィスプは食べることはできないが、ブイブイの家のランタンに入れられて、長くその家の灯りとなって暮らした。


 やがて。


 ブイブイが年を取って、曾孫たちに見送られて世を去る頃、アラネア族の中で儀式を行って空を飛んで旅に出る者は、半数くらいになっていた。


 老齢になったカノンがブイブイの末裔たちのもとに遊びに来るくらいの時分になると、アラネア族がかつて空を飛んでいたということを知るものは、もう誰もいなくなっていた。アラネア族はみな、巣を張り、そこで獲物を待ち構え、糧とする存在であった。


 ブイブイの子孫に、ラーニョという少年がいた。13歳だった。


 カノンはラーニョに興味を持ったようだった。


「少年。君は空を飛びたいのに、空を飛べないのかい」

「おじさん、僕は空を飛びたいけど、空を飛べないんだ」

「おじさん、はやめてくれ。もうそんな年じゃない」

「ぼくはラーニョ」


 ラーニョ、空を見せてやろうか、とカノンは言った。

 カノン、僕は空じゃなくて、地上が見たいんだ、とラーニョは答える。


「おかしなことを言うね」


 カノンは笑った。


「地上なら、ほら、ここに見えているじゃないか」


 ラーニョは答える。


「これは本当の地上じゃあないのでしょう。

 空の上から見る地上が、本当の地上なのでしょう」


 さてどうかな、とカノンは顎に手をやった。


「まあ、実際に見てみるがいい。

 その方が、よっぽど話が早いからね。

 人を抱えて空を自由に飛べはしない。

 朝飯前というわけにはいかないが、

 今の君くらいなら何とかなるだろう」


「お願いします、カノン。

 僕は一度でいいから、地上を見てみたかった」


ラーニョの母親が、カノンの体に、自分の糸でしっかりとラーニョを括り付けた。


 カノンのオレンジ色の翼が、力強く羽ばたいた。ふわりと、身体が浮く。そのまま上昇。やがて空気の濃くて重いところに辿り着くと、カノンは一気に滑空し、朝焼け空の向こうへとラーニョを運んでいった。


「どうだい、ラーニョ。これが空で、それが地上さ」

「カノン、これが本当の地上なのですね。

 やっぱり、僕の思っていた通りだ」


 朝焼けの空にかかる雲はどこまでもどこまでも桃色だった。

 それから。ラーニョは巣を作るのをやめてしまい、地上を這って暮らすようになった。あいつの頭には桃色の雲がかかってしまったんだ、とみんなは口さがなく噂をした。


 だけどラーニョはやがて自分の体内に毒素を作り出す能力を身につけ、それでもって狩りをするようになった。彼の狩りは巧妙だった。彼はもはや桃色の蜘蛛などではない、まさに、黒後家の蜘蛛ブラックウィドウと呼ぶにふさわしい存在だった。彼の真似をして狩りをする者たちも、やがては現れた。


 カノンはもう老いてほとんど飛べなくなっていたけれど、まだ自分には最後の仕事がある、誰か空を飛びたいものはいないか、と言い続けながらアラネア族の集落の中で暮らした。もちろん、その頃のアラネア族には空を飛びたがる者はほとんどいなかったけれど、やがてラーニョの年の離れた妹のシュピンネが、自分は空を飛んでみたい、と言い出した。


「アラネア族に生まれたからって、みんなが無理に巣を作る生き方ばかりをしなきゃならないなんて、時代錯誤の閉塞っていうものだわ。私たちの生き方は、もっと多角的であるべきなのよ。私はアラネア族の、いいえ、この大陸に革命をもたらしてみせるわ」


 シュピンネは糸で身体をカノンに括り付けてもらうことなく、手を繋いでカノンの羽ばたきに身を委ねた。


「どうだい、シュピンネ。これが空で、これが風さ」

「ああ、やっぱり。これが私の本当に居るべき場所なのですね」


 そう言うと、シュピンネの背中から大きな4枚の羽根が生え、シュピンネはカノンと手を放して、そのままどこかへ飛んで行ってしまった。


 自分の役割がすべて終わったことを知ったカノンは、どこまでもどこまでも、果てしなく太陽に向かって羽ばたいていった。


 シュピンネの羽は、桃色だった。桃色の蜘蛛、ピンクスパイダーは、借り物ではない自分の羽を手に入れて、こうして大空を舞うようになった。シュピンネとその種族のことを、そう、今われわれは蝶、と呼んでいるね。

 

  巣を張る蜘蛛も、地上を歩く蜘蛛も、そして蝶たちも、こうしてこの世界に生まれてきた。別に、このうちで誰が格別正しかったわけでもない。誰かは間違っていたというわけでもない。


 ただ、みんなそれぞれに思っただけなんだよ。ただ、空は見えるのにと。

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空は、見えるのに。 きょうじゅ @Fake_Proffesor

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