第26話 築山殿、浜松へ向かう

幸いというべきか不幸というべきか、信康は急速に知勇を兼ね備えた武将の資質をあらわし大久保彦左衛門すらも

「これほどの殿はまたでがたし」

と感嘆せしめるほどの見事な青年武将へと着実に成長していった。しかしそれと違う生活感や感性や価値観をもつ三河武士はうけつけられず、警戒された。

また築山殿には、半分今川の血が混ざっていた。今川は、家康が留守の間ずっと岡崎城を支配していた。彼らは、三河衆を動かしいくさの扶持もほとんど払わず、年貢はしっかり取り立てた。三河衆は、百姓をして極貧の暮らしを強いられ今川への恨みを募らせていた。

築山殿母子の先進的で合理的な政策が三河衆の保守的で疑い深い性格が合わず、三河衆はまた阻害させるのではないかとの阻害妄想を増幅された。築山殿が浜松に向かっているとの報告を受けた三河衆は、焦りの色を濃くした。情報によれば、築山殿は罪人としてではなく家康御台所の体面を保ったまま旅路を続けている。このまま家康と体面すれば、三河衆の企みが全てバレてしまう。どうしてもその前に消さねばならない。

三河衆は、築山殿の処分を家康にせまった。家康は、三河衆に立てられて戻ってこられた主である。三河衆の御輿である以上、三河のいうことは聞かねばならない。家康は、彼らに築山殿はいずれ処分するといい放った。

しかし家康は、築山殿の話を聞いてから判断するつもりだった。家康は、浜松で皆の前で釈明すれば信康は助けられると考えていた。家康の本心は、築山殿を出家させても助けたい気持ちだった。

八月二十九日、築山殿は浜松に向かっていた。付き従うのは、侍女のほか家康の命令で警護をする武士三人であった。一行は岡崎から木坂の関を越え三ヶ月に至りそこから船で浜名湖に入るというコースで、この路は永緑十一年冬、遠州平定を目指して浜松城入りをした家康に同行して供に辿った道筋であった。

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