第25話 立った、立ってない!

しかし戦後大御所は、槍が立っていなかったといって槍奉行の忠教を責めた。忠教は旗についている槍であるので旗についていたと弁明したが、家康は旗が立っていなかったと怒って反論した。それでも忠教は立っていなかったと言い張ったため、立っていた、立っていなかったと双方言い合いになった。

ついに家康は、立っていなかったとキレて大声で怒鳴ったがついに忠教は持論を変えなかった。忠教としては、御旗の恥は徳川の恥である。旗奉行の保阪や庄田なにがしの恥ではすまない。恥が崩れればそれは徳川の恥辱、ひいては歴戦の譜代衆をさいおいて器でないものに御旗を委せた幕府の落ち度となる。忠教は、大御所が逃げたということがバレても幕府の体面を重視した。御旗も御槍も本陣にずっとあったと主張し続けたのは、こういう訳があったのだ。

そういうことを心得ぬ者達が旗を見なかったおのれこそコソコソ逃げまわっていたくせに忠義面して言うものを腹立たしくおもい軽蔑していた。忠教は、こうした名も知らぬ新参ものが長く仕えてきたも見なかったとしたり顔でいう。なかには自分たちよりマシに見ている大御所も恨めしく思っていた。生粋の硬骨漢である忠教は、三河物語で現在私たちが思っている三河武士と違う一面を露出している。

三河の武士社会は、現在のイメージとはかけ離れた主従の掟社会が働いていた。三河武士は、家康が思った以上に意固地でうるさい連中だった。家康は、次の手にうってでた。築山殿と直接面会して詰問することにしたのだ。

築山殿は、浜松に弁明しに浜松に赴くことになった。築山殿が、夫家康に従わず岡崎に残ったのはひとえに一人息子の信康のためであった。築山殿は、信康を立派な後継者として誰にも文句のつけられない武将に仕立てあげることに熱中した。そして由緒ある血筋のものとして、誇り高く生きることを信康に求めた。

もともと才分も教養もあり気位い高い築山殿と三河衆の村社会的な気風とが、あうはずがなかった。 

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