彼女の幸せ

 新之介が、自分の着ていたワイシャツを脱いで、血でびしょ濡れのタオルやあて物の代わりにしようとしていた。

 取り変えるときに一瞬傷口が見える。首の4分の1は切れていた。その傷は…深すぎる。心臓の鼓動とともに動脈からはまた血が吹き出す。京香さんの顔が完全に蒼白になり、つややかな唇が紫色になった。

 お葉花魁ようおいらんが言う。


 ≪もう、おれも…どうすればいいのか分からなくなった…。あんたの言葉で、ここいらのもんは目が覚めた。もう狭間はざまには居られねぇ…≫


 花魁の周りに、十体ほどの遊女の死霊が姿を現した。お葉は、仲間の遊女や、現実に戻った『白滝城跡』を見渡しながら続ける。


 ≪ここのことわり…、娑婆しゃばはこうれて(壊れて)しもうた。もう、ここいらんもんは、ここに留まる意味はねえすけ、そのうち、ちりじりになんろう…。おれはこの子のためら思ぅて、狭間に連れて行こうと思ったろも、こうなってしまえば行く宛てもねぇ。そらろも(だけど)、この娘は、この世でいっぺぇ辛い思いをしてきたんだわ…、もう楽にさせてやってくんねろっか…。おめさんの力で、あの世に送ってもらえねぇろっかぁ…≫


 そう言うと、お葉をはじめとする遊女たちが、皆頭を下げてきた。

 俺は、今にも心臓が止まりそうな京香さんをじっと見つめ、彼女にとって何が幸せなのかを考える……。


 京香さんが生き延びたとして、この先、彼女を待ち受けているものはなんだろう?

 警察に逮捕され、取り調べに次ぐ取り調べ、裁判に次ぐ裁判。京香さんが実際に手をかけたのは、父親と祖母の二人だが、関係のある男性が数人死んでいる。そのことについても容疑をかけられるだろうか……。

 少年院へ送られ、それが刑務所になって…、出所するのはいつ頃だろう?彼女は何歳になっている?

 そこからまた、親の借金の返済をしなければならないのだろうか?

 殺人犯というレッテルが、彼女の人生を狂わせはしないだろうか…?


 この世に…京香さんが幸せになれる場所は…無いのかもしれない……。


 俺が迷っている間に、京香さんの肉体から、霊体が抜けつつあった。

 新之介や後藤、桜井さんには見えていない。彼らは懸命に、止血や声かけを行っている。


 俺には、京香さんを蘇生させるような特別な力はない。それに、蘇生させることがいいことなのかもわからない……。


(このまま死んで……京香さんの魂は一体どうなるんだろうか?)と、ふと思う。

 

 以前、俺に憑依していた自殺者の霊は『あの世に行く道が見つからない』と言っていた。それは生きることを自らやめた、天からの罰なのだろう。

 このまま上の世界に送らなければ、彼女も十年、二十年と、この世を彷徨さまようことになるのだろうか?

 俺は意識領域にいる大六に、ある事を聞いた。


〈大六、このまま京香さんのたましいを…しばってさぁ、俺のそばに置いとくことは…出来ないのかなぁ?〉


 大六は答える。


〈…出来るぞ…。俺やお前の力は、元来がんらいそういうもんなんだ。あの世に行けない魂をしたがえることができる。そして、この世を生きるお前の体験が、背負っている魂にも共有され、そいつらが〝仮〟のせいの経験として、気付きを得て浄化していくんだ。〉


(…京香さんの魂を従わせることは、彼女にとっても幸せなことなのか?)


〈そうだな、お前と一緒に浄化の道を探せれば、それはやはり、彼女にとって幸せなんじゃないか〉


 京香さんの霊体は完全に元の肉体から離れ、俺の目線よりちょっと高い位置で浮遊していた。俺は心の中で彼女に語り掛ける。


(京香さん…、俺と一緒に…この世にいませんか?…二人っきりじゃないですけど…)


 彼女は笑顔で、大きく頷いた……。



 俺は彼女の魂を縛るため、右手に力を込めはじめる。度重なる戦いで、印を結び、真言を唱えなくても、直接この手で触れさえすれば、弱い羂索が発動できるようになっていた。あとは、京香さんがこの手を握りさえすれば、契約は成立だ…。


 俺が手を差し伸べると、彼女は躊躇ちゅうちょなく、その手を握り返した。そして、


≪ありがとう、唯人くん…。私ね、唯人くんの家に行ったあの夜がね、生きてた中で一番楽しかったよ≫


 と、幸せそうに、満面の笑みを浮かべたのだった。


 俺は思わず、京香さんが握ってきた手を、そのまま彼女の肉体の、心臓の部分に押しつける。京香さんはびっくりした顔で俺を見た。


「京香さん戻れ!やっぱりだめだ、幽霊になるなんて許さない!俺の中で生きたってしょうがない。それは本当に生きたことにはならない。俺は生きてる京香さんともっと話したい。もっともっと楽しいことを一緒にしたい。京香さんが死ぬなんてもったいない。俺、何年でも待ってるから…、だから、だから…、この世で犯した罪なら、この世で償え!」


 突然の俺の行動に、言葉に。新之介、後藤、桜井さんがこちらを見た。だが、さっきまで〝この世ならざるもの〟と戦ってきた彼らには、今何が起きてるのか直ぐにさっしがついたようだ。


【若月京香の魂は、まだここに居る。唯人がつなぎ止めてるんだ!】


 それが3人の共通認識として伝わった。桜井さんが言う。


「新之助君、首の傷口は深い、押すよりも切り口をふさぐイメージで圧迫止血できるか?」


「はい、やってみます!」


「後藤さん、頭に血がいかないと脳が酸欠を起こす。命が助かっても障害がでるかもしれん。足の下にバックを入れて、出来るだけ頭が低い位置に来るようにしてくれ。」


「はい!」


「葦原君は、そのまま彼女を繋ぎとめてくれ、絶対に逃がすなよ。」


「はい!」


「俺は消防にもう一度電話して、救急車が着いたらすぐ輸液をしてもらうよう状況を伝える。ここを離れて、救急車を迎えに行くからな、それまでもたせるんだぞ。」


 俺は、例え神様が彼女の迎えに来たとしても、その手を離さない覚悟だった。

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