第18話 エネルギー保存則によると、孤立系のエネルギーの総量は変化しない。何か情熱を失っても、また新たな目標が見つかる。

 ◆


 自室で祐太郎と千咲との一件を目の当たりにした真琴は、行く宛もなくとにかく走っていた。


 普段から鍛えている彼女でも息が切れそうなくらいのオーバーペース。足を止めて一旦息を入れたいのは山々なのだけれども、そうしたらまた祐太郎のことを考えてしまう。

 今は出来るだけ何も考えたくない。そんな意思だけで彼女は走り続けた。


 どこに行けば良いのかも分からず、気がついたら先程まで打ち合わせをしていた劇団の脚本担当のマンションの前まで来てしまった。

 さすがにもうこれ以上は走れないと思った真琴は、インターホンを押して中の住人を呼び出す。


『はーい。あれぇ?真琴先輩じゃないですか。どうしたんですか?忘れ物ですか?』

「ごめん藤井さん、訳は後で話すからちょっと中に入れてくれないかな」

『も、もちろんですとも!!理由なんて無くてもいつだってうちに来ていただいて良いんですよ!なんなら合鍵とか渡し――』


 会話を遮るようにオートロックの自動ドアが開く。


 インターホン越しの声の主は、劇団の脚本担当である藤井ユイカ。『元』真琴のストーカーである。

 彼女の推しである真琴と祐太郎が交際を始めて以降はユイカのストーキングがピタリと止み、陰ながら推し同士の交際を応援するようになった。

 その分のエネルギーが創作意欲に向いたのか、少し前から真琴の所属する劇団で脚本を書くようになり、次回の舞台でも脚本担当に抜擢されたのだ。


 真琴はエレベーターに乗って3階へ向かい、ユイカの部屋の前で足を止めた。


「真琴先輩!さあさあどうぞ入ってください!ちょうどたまたま偶然お茶を淹れていたところなのでゆっくりしてくださいね!」


 真琴が呼び鈴を押す前にユイカはドアを開けて待ち構えていた。お茶を淹れているところだという部屋からは焼菓子の香りもする。


「うん……、少しお邪魔するよ」


 力なく真琴が答える。それを見たユイカはなんとなく事情を察したようで、まるで旅館の仲居さんのような丁寧なおもてなしで真琴を再び部屋へ迎え入れた。

 ユイカの部屋はこぢんまりとしたワンルームながら、綺麗に片付けられていてあまり生活感がない。まるでモデルルームのような部屋だ。


 真琴はとりあえず気を落ち着けるため、部屋の真ん中にある座椅子に腰掛けると、ユイカが淹れてくれたお茶を一口啜った。


「……お茶、美味しいよ」

「先輩ったらお上手なんですから。……でも、さすがに先輩でも悄気しょげげている気分は演技で誤魔化せないんですね」


 真琴は想像以上にショックを受けたことが顔に出ていてハッとした。


「ずっと先輩のことを見ていた私なんですから、何かあったんだなーってことぐらいわかります。――女の勘ですけど、おそらくは祐太郎さんにひどいことをされたという感じでしょうか」

「……まあ、大体合っているよ。流石だね、藤井さん」

「んもう!私のことは『ユイカ』と呼んでくださいってもう120回くらい言ってる気がするんですけど!」

「ごめんこめん、いきなり下の名前を呼ぶのはちょっと慣れないからさ」

「祐太郎さんのことは名前で呼ぶくせに……、ずるいです」


 ユイカは頬をぷくっと膨らませる。

 その表情のユルさに真琴は軽く吹き出した。


「……やっと笑ってくれた。先輩って案外笑いのツボが浅いんですね、もっと笑わせるネタを用意していたんですけど完全にお蔵入りです」

「ありがとう。ボクを元気づけようとしてくれたんだね」

「そりゃもちろんです。真琴先輩は私の推しなんですから」


 ユイカも淹れたてのお茶に口をつける。

 真琴と違って猫舌なユイカは、「熱っ」と舌を火傷しそうになりながらなんとかしてお茶を味わおうとした。


「……それで、一体何があったんですか?良かったら私に話してみてください」


 湯呑み代わりのマグカップを置くと、さっきまでちゃらけていたユイカの表情は真顔へと変わる。

 その真剣な眼差しに押されて、真琴はここまでの経緯をなるべく細かにユイカへと伝えた。

 ユイカは真琴の発する一字一句を逃さないよう、手元にあるペンと紙で読めるような読めないような独特の字で何かを書き記していく。その様子はまるで問診の時の医者と患者のようだった。


「………という、わけなんだ」

「大方理解しました。要は祐太郎さんが元カノと乳くり合おうとしていたところを見てしまって逃げ出してきたということですね」

「ま、まあそういうことだよ。初めてのことだから、ボク、もうよく分からなくなっちゃって、走って逃げてここまで来ちゃったんだ」


 ユイカはもう一度マグカップのお茶を啜った。


「先輩がショックを受けたのはわかります。ただ、私に言わせてみればまだまだあまちゃんです」


 予想外なことにユイカがお説教モードに入るものだから、真琴は思わず背筋が伸びた。


「大体、男なんてものは浮気性なもんなんですよ。だから他の女性に手を出すなんて日常茶飯事なんです」

「そ……、そうなの?」

「そうですよ!有名な俳優さんとかタレントさんとか、結構スキャンダルだらけじゃないですか。祐太郎さんだって俳優なんですから多少のことは仕方がないです」

「で、でも……」


 予想もしなかったユイカの言葉に真琴は戸惑う。

 でも確かに彼女の言うこともわからなくはない。実際のところ、真琴の所属する劇団でもそういうスキャンダラスな人間はいる。


「だからといって私は先輩に祐太郎さんを諦めろと言ってる訳ではありません。むしろ、祐太郎さんは最終的に真琴先輩のもとに帰ってくると思ってます」

「それは……、どうして?」


 真琴は首を傾げる。


「それはお二人がお似合いだからに決まってるじゃないですか。傍から見ても心拍が同期しているんじゃないかってぐらい息ぴったりなんですよ、……本当に羨ましいぐらい」


 ユイカは悔しそうな、それでいてなんだか嬉しそうな表情を浮かべた。


 本来ならば思わずストーキングしてしまうくらい真琴に首ったけなユイカだが、祐太郎と一緒にいる方が余計に真琴が美しく見えたのだ。

 そうなれば自分が無理くり首を突っ込む理由は無い。


 今のユイカにとっては、真琴と祐太郎が結ばれ続けることが何よりの幸せなのである。


「でも、ボクの方から突き放すように逃げちゃったんだ。……もしかしたらもう、元には戻れないかもしれない」


 真琴は先程祐太郎へと言い放った『サヨナラ』という言葉の重さに気がついた。

 もしも自分が逆の立場でそう言われたら、真琴には元の鞘に戻られる自信など無いのだ。後悔と自己嫌悪が彼女を襲う。


 一方でそんな真琴を自信付けるかのように、ユイカは寄り添ってくる。


「それなら方法があります。大丈夫です、私に任せてください」

「……ホント?」


 まさかユイカのこの不敵な笑みがこんなにも頼りになるとは、真琴は思ってもいなかった。

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