第16話 この靴、苦痛
何事かと思った僕は玄関のドアを開けた。
「……千咲?」
久しぶりにこの部屋を訪れた千咲はムスッとした表情で僕を見つめる。
「真琴はいないの?」
「いないよ、ちょっと劇団の人に呼び出されちゃって」
千咲はため息をつく。
「それじゃあ来た意味がないわね。……また今度にするわ」
「ちょっと待って!……一体何しに来たのさ?」
僕は帰ろうとする千咲を引き止めると、彼女は呆れたような表情で再び僕のことを見た。
「……真琴がちゃんと『あの事』を知っているか確認しに来ただけよ。まさか伝えていないとか言わないわよね?」
僕は胸に矢が刺さるような痛みを覚えた。罪悪感に似た、息苦しさを伴う痛みだ。
何故なら僕はまだ、千咲の言う『あの事』というのを真琴に伝えていないのだ。
「いや……、まだ真琴には……」
「それ本気で言ってるの!? いくらなんでも不誠実過ぎよ!信じらんない!」
「い、言う機会が無かったんだよ。真琴のやつ、いつも一生懸命演劇の稽古をしてて、忙しそうだし……」
「それはただの言い訳。本当に真琴のことが好きなら絶対に言わないとダメ。そうじゃないと……」
千咲は言葉に詰まった。
その先にはおそらく核心にせまるセリフが続くのだろうが、結局彼女は言わなかった。
「ううん……、なんでもない。――とにかく、絶対に『あの事』は伝えないとダメなんだから」
「わ、わかったよ……、帰ってきたら伝えるから」
「……じゃあ私は帰るから、邪魔したわね」
千咲は
その姿はなにか、以前よりも彼女が纏っている温度が低いようなそんな気がした。
「――痛っ……」
「千咲?大丈夫?」
急に何かに痛がる様子を見せた千咲。
ふと彼女の足元に目をやると、見ているだけで痛覚がうずきそうなくらいの靴擦れを起こしているのがわかった。
多分バイトが終わってそこからそのまま来たのだろう、あのカフェにいたときと同じローファーを履いている。案外こういう靴は履き慣れていても靴擦れしたりするものだ。
「だ、大丈夫だから……。気にしないで」
「いや、気にもなるよ。見るからに痛いやつじゃないかそれは。――ほら、手当てするから入りなよ」
さすがに強情な千咲も痛みには勝てなかったのか、僕が手当てをするというと恐ろしいほど素直に従ってくれた。
千咲を部屋に通すと僕は彼女をリビングのソファに座らせて、どこかに置いてあるはずの救急箱を探し始めた。
「あれ……?救急箱どこに置いたっけ……?確かこの辺に……」
「……そこじゃない、パントリーの上段」
「……ホントだ、よく覚えているね。さすが」
「当たり前でしょ、ついこの間まで1年ちょっと住んでたんだから。――ほら、早く手当しなさいよ」
「はいはい、そんなに慌てなくても手当しますって」
救急箱を手に取った僕は千咲の座るソファへ向かい、彼女の足元に膝をついた。
靴下を脱がせると、千咲のかかとは擦れて真赤になっていた。
よくもまあこんなになるまで平静を装っていたものだ。
「ちょっと沁みるけど我慢してね」
「……っ!」
僕は脱脂綿に消毒液を染み込ませて千咲の患部へ当てる。思っていたより傷が深いようで、苦痛のあまり千咲の表情が歪んだ。バカに部屋が静かなおかげで千咲の声がやたらと響く。
別に千咲の生脚にドキッとしているとか、この間まで紅色だった足先のペディキュアがマリンブルーに変わっているとか、そんなことに気を取られているつもりはない。ないのだけれども、なんだか無駄に神経を研ぎ澄ましているようなそんな感じだ。
……単なる靴擦れの応急手当なのに、どうしてこんなに変な気持ちになるんだ?
「……もういいでしょ、早く絆創膏を貼りなさいよ」
「ごめんごめん、ちょっと傷が深そうだったからつい……」
5センチ角くらいの大きめの絆創膏を患部に貼り付けて応急手当は終了。僕が救急箱の蓋を閉めたところで千咲は少しばかり申し訳なさそうに言葉を紡ぐ。
「……ありがとう。礼は言っておくことにするわ」
「はいはい、帰り道も気をつけてね」
「言われなくても分かってるわよ。――昔から自分のことより人のことばかり気にするの、全然変わってない」
「そりゃどうも」
長話になるのも嫌だったので早いところ千咲を見送ってしまおうと会話を切り上げる。すると千咲はそんな僕の返しが少し不満だったのかむっとした表情を見せた。
千咲がソファから立ち上がる瞬間だった。
彼女との付き合いの長い僕ですら、こんなにもこの子は平衡感覚が鈍かったのかなと思ってしまうくらい派手に千咲はバランスを崩してしまった。
「千咲、危ない!」
「きゃっ!」
千咲はちょうど僕の方にもたれかかるように倒れ込んだ。
突然のことに僕自身も千咲を完全に受け止めることができず、ちょっとした将棋倒しのように床へ打ち付けられた。
……よかった、昔子役をやっていたときに受け身の練習をしていなかったら後頭部を打ってえらいことになっていたに違いない。
気がつくと、仰向けになった僕の上に千咲が覆いかぶさるような状態になっていた。いわゆるマウントポジションを千咲が取っているような感じ。
ぱっと見た感じでは千咲に怪我はなさそうだ。派手な倒れ方の割に何もなく無事で安心した。
そう思ったのも束の間。
僕ら二人のフィジカル面では確かに無事だったのだが、別の事件が同時に発生してしまっていたのだ。
「ただいま。………な、何を……、やっているの?」
神様というのは本当に意地が悪い。
よりにもよって千咲が僕の上に乗っかって密着している状態のときに真琴が打ち合わせから帰ってきてしまったのだ。
「こ、これは違うんだ真琴!そういうんじゃなくて」
「そ、そうよ真琴、これは事故なの!」
僕と千咲は懸命に弁明をする。
しかし、論より証拠や百聞は一見にしかずという言葉がこの世に存在している以上、この現場の状況よりも説得力を持つものは無い。
僕はこの刹那、真琴からどんな罵声が飛んでくるのかとか、平手打ちが来るのかグーパンチが来るのかとかそんなことを考えていた。
この状況を作ってしまったのば僕だ。真琴の気が済むまでこの身を差し出す覚悟くらいなら出来ている。
しかし、真琴が起こした行動はそのどれでもなかった。
「……やっぱりそうだったんだね。ごめんよ祐太郎、千咲。ボクはお邪魔だよね。……安心して、今すぐここから居なくなるからさ」
今にも泣き出しそうな悲哀に満ちた顔で真琴は言葉を絞り出す。
これが舞台の上だったら名演技間違いなしなのだが、そうではない。正真正銘の真琴の胸の内だ。
真琴は喉を締め付けられたように「サヨナラ」と言うと、僕らが追いかける間もなく部屋から立ち去っていった。
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