第13話 『メス堕ち』というのは男にしかできないものなので、当然だがこの世で最も男らしいことのひとつと言えるだろう。

 映画館に着いて予約していたというチケットを真琴から受け取った時点で僕は絶望した。

 彼女が観たいと言っていた映画はラブロマンスでもなければアクションでもコメディでもない。『THE』がつくほど正統派のホラー映画だ。


「……あ、あの、真琴?もしかして本当にこれ観るの……?」

「うん!ずっと新シリーズ出るの待ってたんだよねー。今度はどんな演出で怖がらせてくれるのか楽しみなんだ」

「そ、そうなんだ……。へ、へぇー、僕は初めて観るから内容分かるかなぁー、ははは……」

「大丈夫大丈夫!どこから観始めても面白いように作られてるから気にしなくてもオッケーだよ」


 真琴はこれまでにないレベルでキラキラとした目をしている。

 まさか真琴がホラー映画好きとは思わなかった。果たしてこれは演技の参考になるのだろうか?


 ……ちなみに僕は真琴とは逆で、ホラーというものが全くダメなタチである。映画やドラマはもちろん、ちょっとした怪談話ですら耳を塞ぎたくなる。

 ホラー映画などもってのほかで、本当ならば尻尾を逃げ出したいところなのだけれども、言い出しっぺとしてここで引き下がってしまうのは男として情けなさすぎる。

 今日は真琴をエスコートすると意気込んでやってきたわけなので、なんとしてもこの96分の上映時間を耐えぬかなければならない。


 ……耳栓とアイマスク、買ってこようかな。


「どうしたんだい祐太郎? ……もしかしてホラー映画は苦手かい?」

「い、いや、そんなことないよ?」

「でも……、なんだか小刻みに震えている気がするんだけど?」

「だ、大丈夫だよ、振動工具は一日の使用時間を二時間以内に抑えれば振動曝露による健康被害は――」

「……祐太郎?一体何の話?」


 あからさまに動揺している僕を不思議な目で見てくる真琴。こんなところで彼女を不安にさせてはいけない。

 頑張れ五十嵐祐太郎、負けるな五十嵐祐太郎。ここが勝負どころだ。



 ――でもやっぱり怖いものは怖い。


 歯を食いしばって座席に腰をかけたはいいのだけれども、本編が始まる前、――全く関係ない他の映画の予告の時点で既に僕は限界だった。


「真琴ぉ……、やっぱり無理ぃ……」


 ここ10年で最高の仕上がりとも言える情けない声を出してしまった僕は目に涙を浮かべてしまった。男泣きだ。

 そんな塩のかかったナメクジのように縮こまっている僕を見かねたのか、真琴は優しく声をかけてくる。


「大丈夫だよ、ボクがそばにいるから。祐太郎は怖かったらボクの手を握ってていいんだよ」


 今の真琴は完全にイケメンモードだ。お姫様に手を差し伸べる王子様そのもの。

 なんだか僕はその優しさにキュンとしてしまった。……これがもしかしてメス堕ちというやつなのか?姫になってしまったのか僕は?



 本編が始まった。真琴は食い入るように観ている。

 一方の僕はまるでコアラのように真琴の腕に捕まり、その辺の女子と大差ないレベルの悲鳴を上げている。最早映画の中の断末魔なのか僕の声なのかわからない。


「う、うう……、もう帰してくれ……、頼むから……」

「ゴメン!もうちょっとだけ頑張って!もう少しでクライマックスだから!」

「そんなぁ……」


 いつになくテンションマックスの真琴に対してホラー映画のクライマックスってなんなんだよとツッコむ余裕もなく、恐怖の96分間をなんとか凌いだ。

 事前にトイレに行っておいたのは本当に正解だった。マジで失禁しかねない。



 真っ暗だった劇場に照明が灯る。解放されたおかげなのか、僕はずっと座っていたくせに腰が抜けて立ち上がることができなかった。


「祐太郎、立てるかい?」

「……ちょっとだけ時間をください」

「もし駄目そうならボクがお姫様抱っこしてあげようか?」

「いやいやいやいやそれは結構です!これ以上僕を乙女にさせないで!」


 生まれたての仔鹿のような脚になんとか力を入れて立ち上がることができた。

 ホラー映画を真琴と観に行くのは金輪際やめておこう。僕の中のメスが反応してしまう。


 真琴が可愛すぎるせいで正気を保てるかどうか悶々としていた96分前の僕を全力疾走で助走をつけて殴りたい。


 ◆


 やっとのことで正気に戻れたところでお腹が空いてきた。もうすぐお昼だ。


「この近くにボクのおすすめのカフェがあるんだけど、そこでお昼にしないかい?パスタが美味しいんだよね」

「いいね、真琴のオススメってことなら間違いない」

「ふふふ、それは買い被りすぎだよ祐太郎」


 料理上手な真琴が推奨するパスタならば美味いに違いない。

ホラー映画で想像以上にエネルギーを使ってしまったので、ここできちんと補給しておかないと午後はガス欠でぶっ倒れてしまうだろう。


 映画館を出て、まるで何事もなかったかのように真琴についていくと。駅近くにあるとある一軒のカフェの前で二人の足が止まった。


「ここだよ。どう?おしゃれでしょう?」


 そのカフェには見覚えがあった。僕も実は何度か来たことがある。

 けれども最近は訳あってめっきり行かなくなってしまった。

 ……その、なんというか、あまり関わりたくない人が中にいるというか、そんな感じだ。


「な、なあ真琴、本当にここに入るんだな……?」

「うん、そうだけど?それがどうしたの?」

「い、いや、なんでもない。ただの確認」


 真琴は一瞬不思議そうな顔を見せる。

 しかしそんなことは大勢に影響ないと思ったのか、すぐに真琴は元の表情に戻った。


 カランコロンというクラシカルな鐘の音が出る扉を開けると、聞き慣れた声で僕と真琴は出迎えられる。


「いらっしゃいませ。――あら、真琴じゃない」


 そこにはカフェの制服を着た女子大生っぽい女の子がいた。その子はどうやら真琴と仲がいいみたいだ。


「やあ千咲、お仕事中ごめんね、ちょっとお邪魔するよ」

「あら?もしかしてデート?じゃあその隣にいるのってもしかして彼…………」


 僕と目があった瞬間、千咲は言葉を失った。

 それも無理はない。僕も彼女も、まさかここでこんな形で再会するとは思っていなかったのだから。


「や、やあ千咲、ひ、久しぶり……」

「な、なんであんたが真琴と……?」



 ――そう、僕が先日まで付き合っていた元カノというのは、真琴の親友である石井千咲だったのだ。

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