下
更に年は明け、享保五年の春。朝晩は肌冷えするものの、寺の敷地などにちらほらと山桜が咲く頃。
この頃になると、宗兵衛は立って外を出歩けるまでになっていた。右脚を引きずりはするが、誰の手を借りることもない。ただ、転んでしまったり、野良犬に追われてしまえばどうするのか、と市右衛門が強情に言い張るので、短時間の散歩であっても岩造が供をした。
ただ必ずという訳ではなく、時には寅松がその役を代わる事もしばしばあった。昨年の秋、逃げるように麻倉屋敷を辞してからしばらくは姿を見せなかったものの、ここのところはまたぞろ日を開けず顔を出すようになっていた。市右衛門はあまり良い顔はしないのだが、それでも表立って咎め立てることはなかった。外を出歩く事を禁じたりもしない。
他にも変化があった。切っ掛けは利之助である。数えで四つ、何にでも興味を持つ年頃だ。その利之助が、ある時両親に尋ねた。
「おいたんはどうして、一緒にごはんたべないの」
市右衛門もそのも、今の今までそれを全く疑問に思ってはいなかったが、利之助の子供らしい純粋な疑問に尤もらしい理由で応えようとして、そのようなものがない事にふと気付いた。
薄暗い納戸で粥を匙で口に運ばれるばかりだった、かつての廃人然たる宗兵衛では最早ない。
「でもおみ足を使って召し上がるのは……」
「それは訳のあることだ。きちんと訳を話せばよい」
そう言われてしまえば、それはまあそうですわね、とそのもあっさり得心した。彼らの間にあったのは時間の累積がもたらした気まずさだけで、それを幼子に説くことは出来なかったし、そうするべきでない事もまた分かっていた。
今や宗兵衛は、利之助のよき遊び相手である。庭土に足先で絵を描き、言葉を教えた。あるいは滑稽話で笑いをとり、時には上腕の半ばまで残った両腕で、小さな身体を負ぶう事もあった。一年余りの時を経て、宗兵衛は麻倉家の荷物でなく、家族の一員になっていた。
その日、宗兵衛は初めて一人で出掛けた。
「ちと桜を見てくるだけじゃ」
慌てて後をついて来ようとする岩造を強引に遠ざけ、城下町の方に向かって脚を曳きながら歩き始めた。
桜を見る、と言うその言葉に嘘は無い。ちょっとした冒険のつもりだった。松原神社の方まで足を延ばそうかと、ふと考えた程度である。昼八ツの鐘が鳴る頃に引き返せば良いだろう、そう思った。
強いて言えば、日が悪かったのかもしれない
「おい、刀のねえおさむれえ様だぜ」
東海道に出る道の半ばで、そう揶揄された。甲州道から東海道に出ようという道半ば、声をした方を見れば、声を掛けたのは旅装束の二人連れだった。どちらも長脇差を差し、左手を柄にもたせかけている。近頃とみに増えた武闘派のやくざ者であろうと、容易に察しがついた。
彼らの謂う通り確かに、宗兵衛の姿かっこうはきちんとした武家のそれだが、太刀も脇差も差さずに街を闊歩している。それも、よくよく見れば懐手ですらなく、両の腕が無いのだ。
「どうもどうも、これは恐れ入りやす」
右頬に刀疵のある方が、わざとらしく宗兵衛の前に割り込んできた。もう一人はにやにや笑いながら控えている。
「おさむれえ様。刀も持たずにどちらへ?」
「腕もどこかにお忘れになってきたようで」
両者とも、口を開けば、むっと酒の匂いがした。
「その方ら、止めた方が良い」
「恐ろしや。無礼討ちはご勘弁を」
言いながらもちんぴら二人はまだ面白がって、宗兵衛を囲んでいる。
「おさむれえ様は、ご公議にお仕えするのが役目でござんしょう。そのなりで、どうやってお上のお役に立てるんで?」
尋常であれば、その場で無礼討ちになってもおかしくない物言いである。だが宗兵衛に返す言葉は何もなかった。ただ、ぐっと奥歯を噛みしめた。
「黙ってねえで教えて下せえよ」
いよいよやくざ者達は調子に乗り、脇に控えていたにやにや笑いの方が宗兵衛の肩に手を伸ばした。明らかに一線を越えた振る舞いである。
反射的に、宗兵衛は半身を引き躱しながら、不自由な方の右脚を男のひざ裏に添えるように当てた。
それだけで男は体勢を崩し、地に手を付いた。
宗兵衛は「しまった」という顔をした。黙ってやり過ごせばよいものを、ついやくざ者の気位を刺激する振る舞いをしてしまった。片輪者にやりこめられたままで、彼らが収まる筈がない。案の定、男二人は色めき立った。
「てめえ」
どちらも明らかに荒事に手慣れており、右手は脇差の柄に掛かっている。
宗兵衛は少しだけ迷っていたが、すぐに腹を決めた。左前の半身に構え、右脚を後ろに置いた。
「その方ら、何をしておる」
良く通る声がそこに割って入ったのは、そのすぐ後である。
村林伊平次である。当番の日らしく、着流しに黒の羽織を身に着けていた。気がつけば、剣呑な騒ぎを嗅ぎ付け、野次馬も遠巻きにこちらを覗っている。
やくざ二人は一瞬躊躇う素振りをみせたものの、村林がこちらに歩を進めるのと同時、舌打ちをして走り去っていった。
「かたじけのうございます」
宗兵衛は緊張を解いて、村林に頭を下げた。
「外に出るのなら、せめて供は付けい」
怒ったような顔で、村林は宗兵衛を叱りつけた。
「近頃は物騒じゃ。昼間と言えど用心せえよ」
「は……」
「そこもとに何かあれば、市右衛門に顔向けができんでな」
「あの、兄が何か……?」
急に市右衛門の名が出てきて、宗兵衛ははてな、という顔である。勘定所と町奉行所で仕事上の関わりもあるはずがなく、また個人的な親交があるとも聞かない。
あいや、と村林は気まずげな顔をしたが、渋々と言った風に訳を話すに、どうやら先般市右衛門がわざわざ奉行所まで出向き、丁寧に見舞いの礼を述べたという事だった。真に市右衛門らしい振る舞いである。
「ははあ……」
「まあ、そんなことはどうでもよい。わしも役回り中じゃ。
そこで待っておれ、と踵を返そうとした村林に、宗兵衛は尚も声を掛けた。
「あの、村林さま」
「何じゃ」
「さむらいの本分とは、何でござろうか」
不意に投げかけられた問いに、村林の足が止まった。
「何じゃと」
「さむらいの、本分にござる」宗兵衛は、辛抱強く繰り返した。
「かつて、それがしも兄に問われ申しました。それがしはその時、主君によくお仕えする事、お家を守る事と答え申しました」
「で、市右衛門は何と」
「その時は、何も」
「それでわしに訊くわけか」
村林は、いよいよ声を荒げだした。
「仁義礼智忠信孝悌。家督を継いで子をなし、お上から頂戴した役目をこなす。他に何がある」
「それがしには、なにもござらん」
村林は、流石に言葉に詰まった。
しばし流れた沈黙を破る様に、「先ほどは真にかたじけのうございました」と宗兵衛は重ねて頭を垂れた。
「帰りは一人で歩き申す」そう言ったきり、また脚を引きずりながら宗兵衛は歩き出した。
村林は、その後ろ姿を見送るしかなかった。
その年のある夏の夜、麻倉屋敷の座敷で、宗兵衛は西瓜を食べていた。宗兵衛だけではない、市右衛門も、寅松もいた。西瓜は、風物詩のように喧しく西瓜を売り歩く棒手振りから、寅松が買い付けたものだった。
座敷を開け放ち、男三人で青果を貪りながら愚にも付かぬ話で盛り上がっていた。寅松は先に江戸まで繰り出したのが大層自慢らしく、山王祭に練り歩いた神輿の豪華さを身振り手振りを交えて熱弁している。宗兵衛は、そのが小さく切り分けてくれた果肉を楊枝で刺しては口に運んでいた。
「そういえばの」話題が途切れ、ふと沈黙が座敷を満たした時分にぽつりと市右衛門が口を開いた。
「尾崎家が、養子を貰い請けたそうだ」
宗兵衛のみならず、寅松も市右衛門の方を向いた。それは取りも直さず、きよの再婚の報せに他ならなかった。
「婿殿は高山家の三男坊だとさ」
といわれても、宗兵衛にも寅松にもぴんとは来ない。市右衛門は「父御の半兵衛どのはわしの同僚じゃ。周りの評判も確かな御仁よ」と笑った。
「何というかこう、肩の荷が降り申したな」
半兵衛は、さっぱりとした顔で呟いた。
「よかった、そいつは本当にようござんした」
寅松は感極まったのか、袖で目頭を拭っている。
「馬鹿もん。男の泣くやつがあるか」
男三人は濡れ縁で、星散りばめる夏の空を仰いでいた。
「おう、奇遇じゃな」
「これは、村林の旦那さま」
麻倉家の庭先から縁側から上がろうとするところの寅松に、村林はちょうど追いつく格好となった。寅松は上りかけた濡れ縁を降り、改まって頭を垂れた。
「えらい大荷物だの」
「ええまあ、仕事道具でして」
脇に抱えた風呂敷包みを、寅松は殊更に抱え直した。白地に青竹色の青海波を染めた小袖姿はとても仕事帰りには見えないが、村林もそれ以上の詮索はしなかった。
「下り酒の良いのが入ったでな。この通り持ってきた」
「これはこれは、ご相伴に預からせて頂きやす」
勝手知ったるもので、二人は濡れ縁を上がり奥の座敷に声を掛けた。宗兵衛もいつも通り在宅である、ほどなく酒宴が始まった。
肴はそろそろ旬の根菜である大根の煮物に、その青菜の漬物だった。質素ではあるものの、大いに酒は進んだ。昼時とはいえ、寒風の吹く時節をいよいよ迎える頃でもあった。
宴もたけなわとなった頃、「そういえば」と何気ない風で村林は切り出した。
「あれは春か、夏の頃だったかの」
「何でございましょう」
「そこもとに絡んでいたやくざ者連れがおったろう」
「そういえば、そうでござったな」
「このところ、二人揃って死体があがったわ」
えっ、と寅松が頓狂な声を出した。事のあらましは宗兵衛から訊いていたのかもしれない。一方の宗兵衛は「そうでござるか」と淡々とした風だ。
「検分の様はわしも訊いたが、揃って首筋と脛の当たりを切り裂かれておるそうな」
「はあ」
「二年前、亀山某の剣筋も、そのようなものであったな」
村林の論旨は明快である。剣術道場で、相手の脛をまず狙う剣術というものはない。というより現存していないという表現が正しいかもしれない。それは正しく戦国の世の介者剣法であり、泰平を迎えて久しい当代にあってそのような卑しい太刀筋はまずもって忌避される。であればこそ、村林の眼を惹いたのだった。
「亀山が、小田原に戻っているのかもしれん。ゆめ、気を付けよ」
「心得ましてござる」
「こりゃあおちおち、夜道も歩けねえでござんすなあ」と震えあがって、寅松は早々に麻倉家を辞した。気付けばもう時期に暮れ六ツの鐘もなろうかという頃、村林も頃合いを見て退散しようと腰を上げた。
「おや、寅松の奴、仕事道具を忘れて帰りおった」
ふと見ると、寅松が昼間に抱えていた風呂敷が、部屋の隅に転がっていた。
「後で、家人に届けさせ申す」
「む、そうか」
縁側で草鞋を履きながら、村林は問うた。
「のう、先に尋ねられた武士の本分とやらだが」
「何でございましょう」
「それが何であれ、そこもとには最早関わりのない事だ。違うか」
宗兵衛は、答えない。
「何も、そこもとの今の身の上を腐している訳ではないぞ」
草履は最早履き終えている。濡れ縁の向こうに立ち、座敷を隔てて今や身体ごと宗兵衛の方を見据えながら、ゆっくりと村林は噛んで含めるように謂った。
「天下泰平となって最早久しい。わしらの爺さんですら戦など知らん」
戦国の世ならいざ知らず、腰のものを粗末に扱う者とて少なくないわ、と言いながら村林は部屋の隅の太刀に目を向けた。誰も触ってすらいないのだろう、かつて見たままの場所にそのまま転がっている。
「だが、それでええんではないか。考える時間は山ほどあろうが、ゆめ、妙な気は起こすでないぞ」
それだけを言い残して、村林は去っていった。
宗兵衛は最後まで何も答えず、村林の虚像がずっとそこに立っているかのように、ただ黙って濡れ縁の向こうを見つめていた。
その日の深夜、夜の城下町に、宗兵衛の姿があった。脇に提灯の柄を挟み、岩造を連れることなく独りで夜道を歩いている。町の灯りはとうに消え月も朧な夜道、あえかな提灯の灯りだけが辺りを照らしている。
どこか目的地があるような足取りではない。東海道まで出たかと思えば引き返し、あるいは目抜き通りを脇に折れ、ただひたすらにゆっくりと歩いている。
やがて唐人町に差し掛かる辺りで、ふと歩みを止めた。向こうから、誰かが歩いきている。近づく間に、総髪の、大小を手挟んだ着流し姿であると見て取れた。
「亀山左近だな」
着流しの男は、ぎくりと立ち止まった。
「誰だ」掠れるような声で精一杯どすを利かせ、誰何する。
宗兵衛は、答える代わりに再び歩き始めると同時、脇に挟んだ提灯をぽとりとその場に落とした。蝋燭の火が火袋に燃え移り、みるみると炎を上げ燃え始める。
「ほとぼりが冷めたとみて、古巣に戻ってきたか」
「誰だ」
亀山が、再び問うた。
「二年前、花街で貴様に斬られた者だ」
「なに」
「腕は落としたが命は拾った。だが、いま、捨てる」
「あの時の若造か、生きておったとは」声には、素直な驚きが滲んでいる。
「阿呆が」
折角拾った命を、と謂いながら亀山は黒塗りの剥げた鞘から太刀を抜いた。無抵抗の相手とはいえ、宗兵衛の剥き出しの敵意を看過するつもりはないようだった。
亀山は、かつてのように八相に構えた。その間合いの少し外で、宗兵衛は足を止め、僅かに腰を落とした。左前の半身に構え、右脚を少しだけ外に開く。
束の間の静かな睨み合いの後、亀山が動いた。鋭く踏み込み、八相から放たれた剣先が宗兵衛の左足を狙った。
ぎゃり、と鋭い金属音が響き、予期せず力を逸らされた亀山は、下方から閃くように迫るそれを躱すことが出来なかった。
首筋を深々と切り裂かれ、前のめりに倒れゆく亀山が最後に見たのは、炎に照らされながら地の上にぽつねんと立ち尽くす、宗兵衛の右脚の、脛から下だった。
仕込み刃の切っ先と、もう片方の足で身体を支えながら、宗兵衛は倒れ伏した亀山の身体を見下ろしていた。
通りの向こうの方から、激しく揺れながらこちらへ向かってくる光があった。誰かが走っている。
「おい、宗兵衛か。無事か」
息も絶え絶えといった風の塩辛声の主は、村林だった。冬も近いというのに汗まみれの顔で近寄ってきて、亀山の死体を見て息を呑んだ。
「亀山左近か」
「はい」臆する素振りもなく、宗兵衛は答える。
村林はまだ荒れる息を必死に抑えながら宗兵衛の右脚に目をやり、「
「驚かれないのですか」
「そこもとの部屋に、脇差がなかったでな。おおかた寅松に作らせたのであろう」
これには宗兵衛が驚いた顔になった。
「良いから、まずは刃を仕舞わんか」
素直に、宗兵衛は従った。置き去りにした右脚の所までよたよたと戻り、寺の敷居を跨ぐような格好で右脛半ばから生えた刃を根元まで差しこみ、少しだけ内に回した。それで脚は元に戻り、上げ下げしても刃が抜ける事はないようだった。
「ようできておるな」
「寅松は、腕の良い職人です」
改まって、宗兵衛は切り出した。
「恐れながら、村林さまにはお上への証言と、介錯をお願いしとうござる」
「介錯だと」何を謂っておるのだと村林が頓狂な声を上げる。
「さむらいの本分とは」宗兵衛はそこで一度言葉を区切り、吐息を吐くように先を続けた。
「恥を雪ぐことと、家名を守ることに尽き申す」
そして訥々と、胸の裡を語り出した。
金創医の元に運び込まれた後、右脚の予後も悪く切断に至ったこと。
意識を取り戻してからずっと、死にたいと考えていたこと。
市右衛門に武士の本分を問われ、雪辱という結論に至ったこと。
腹さえ切れば、自分が汚した麻倉家の家名を挽回できること。
寅松の罪の意識に付け込むように、義足と義手を作らせたこと。
そして今日、最後の調整を終えた義手が納品されたこと。
「義手だと?」
「一種のからくり義手にござる」
宗兵衛が簡潔に説明するところでは、それは滑車と紐を用いた機構を備え、上腕の動きに連動して腹を横に捌く動きを行えるという。義手では何かを握り込むことはできないので、そこは義手の先の方に目釘で脇差を固定しておく。
「腹に刃を突き立てるのはどうする。義手で力は入らぬぞ」
「残った左の腕で押し込み申す」
「
宗兵衛は首肯した。
「付け外しはどうする。それも寅松にやらせると申すか」
そこで、宗兵衛は言葉に詰まった。黙ったまま、村林を見た。
「甘ったれるな」村林は、一喝した。
「わしはやらんぞ。それに、腹を切る事も許さん」
「それは……」
「そも、考えてみい。花街での喧嘩は不問に付すが定石。そこもとは流行り病で手足を失った。沙汰はもう下りたのだ」
家名を挽回するもへったくれもあるか、と村林は謂う。
「しかしそれは表向きの事。世間は真実を知っており申す」
「それがどうした。腹を切ってお家が続くのであれば、そこもとの言は正しかろう。しかしそうではない。単なる無駄腹じゃ」
無駄腹とは余りなお言葉、と流石に宗兵衛は憤然とした。
「武士の意地にござる」
だが村林も引き下がらない。
「武士の本分はどうした。主君にお仕えするのではないのか」
「それがしにそれはもう、出来申さぬ。このまま穀潰しとして生くるぐらいなら、いっそ……」
絞り出すような声だった。
「出来るではないか。
「このようななりで、町廻りは出来申さぬ」
「ならば役方じゃ。
そんなことが出来るものか、と宗兵衛は村林を殆ど睨みつけた。しかし村林は構わず捲し立てる。
「
「しかし」と宗兵衛は言い淀んだ。「この一件についてはどうなさるおつもりですか」
この一件とは、この亀山左近との斬り合い以外にはない。
「亀山は太刀を抜いておる。尋常の勝負だ、そこもとが士道不覚悟の誹りを受けることはない」
わしが証人となる、わしに任せい、と村林は繰り返した。
「なぜ、そこまでして下さるのですか」
おうい、宗兵衛、宗兵衛か、と村林が駆けてきた方から誰かが叫んでいた。市右衛門の声だった。もう夜半はとうに過ぎているというのに、ずっと探し回っていたのだろうか。
「一刻ほど前にな、気になって麻倉屋敷に参ったのだ」と声の方を振り返りながら村林は謂う。
夜四ツ過ぎの訪問である、尋常であれば非常識だが、村林はこれも役目と割り切った。
訪いの声に応えて出てきた下男は村林をみて狼狽するばかり、何を問うても「お許しくだせえ」と平伏せんばかりだった。何とかなだめすかして話を訊けるようになる頃には、家主の市右衛門も起き出して様子を覗いに来た。
訊くにはこのところ、宗兵衛がこっそり屋敷を一人抜け出していることをこの下男はずっと黙認していたのだという。出掛けるのは三日に一度ほど、きまって夜半近くで、夜が白むまでにはいつの間にか帰っている。おずおず行先を尋ねるも、ただの散歩じゃとはぐらかされるばかり。先日あんなことがあったばかりなのに、村林の旦那さままで血相を変えていらして、まさか大事になってやしないかと気が気ではない……
「なあ宗兵衛、腹を切ったとて何になる」
「しかし……」
「そこもとにはそこもとの考えがあろう。それは分かる。だが、今一度市右衛とも話し合ってみるがいい」
市右衛門らしき人影が走って近づいてくるのが見えた。兄の走る姿など、半兵衛は幼少期以来初めて見た。
地に落ちた提灯は既に燃え尽きている。だがまだ燻っているのだろう、微かな風に乗って煙の匂いが鼻をついた。
向き直った村林は、朧月に照らされる宗兵衛の、肩のあたりが震えるのを見た。
「なんだ、男の泣くやつがあるか」
<了>
無腕 宗兵衛 南沼 @Numa_ebi
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