薬毒(七)

 氷のような一瞥にイヌダティオは息を呑んだ。だが背筋に走る怖気を誤魔化そうとすぐに声を張り上げる。

「はっ! 強がりもそこまでにしろ!」

 小瓶を持った手首がしなり、ぱしゃん、と水が砕ける音が空間に木霊する。イヌダティオは確信に満ちてにやりと笑んだ。甘ったるい蜜の香りがあたりに充溢していく。

 だが数秒の沈黙の後、イヌダティオの釣り上がった口角は次第に下がり、代わりに疑問が浮かび上がっていく。

 カエルムの髪を伝った雫が柄を握る手に落ち、珠を作る。瞬間的に閉じられた瞼がゆっくりと上がり、よく澄んだ蘇芳の相貌が光った。

「な……なぜ……何ともない?」

 イヌダティオがつい今しがたまで見せていた自信はもはや消え去っていた。ただ無様に狼狽する様に、カエルムは冷ややかな眼差しを向ける。

「毒化した月蜜花は」

 射抜くように相手を見据えたまま、形の良い口から静かに言葉が紡がれ始めた。

「一定時間密閉容器に入れた後で空気に触れると、鮮やかな黄金色に変色する。黄白色にとどまるそれは毒性のない月水花だ」

 小さいがよく通る声が「知らなかったか?」と感情なく続ける。驚愕する相手の動きを剣に加えた圧で封じたまま、

「それに対して」

 と、カエルムは空いた左手で懐から丸みのある小瓶を取り出した。硝子の向こうで薄明かりに照らされ煌めくのは、カエルムが浴びた液体とよく似た月の色。

「毒性のない月水花は、薬効を持つと空気に触れて透明に変わる。皮膚に一滴垂らせば内部に浸透して神経を麻痺させ、通常は外科治療の痛みを緩和する薬として使われる。だが、適量を誤ると」

 小指に当てられた親指が栓を抜き、空虚な音が響いた。弾みで揺れた液体が瞬時に黄白色から透明に変わる。

「薬というものに、副作用があることくらいは知っているな?」

 自分を映す瞳に抵抗を許さぬ威圧を見てとり、イヌダティオは言葉を失い剣を滑り落とす。カランという硬質な音が響いた瞬間、カエルムは剣を失った相手の手首をぐっと引き、肌を見せるイヌダティオの首元めがけて液体を浴びせかけた。

 小瓶が空になったのと同時に、イヌダティオの手首がびくりと痙攣する。そして数秒の間もなく、上体が崩れて重い図体が床に倒れた。

「安心しろ。月水花の副作用は単なる意識障害だ。多少は作用時間が長いが」

 しぶとくもまだ眼球を反応させる賊に対し、水が滴る前髪を鬱陶しそうに掻き上げてカエルムは冷徹に言い放つ。

「私には他を制したいとか序列の上に立ちたいとかいう意味での権力欲自体が理解できない。もし王権がそんな中身のないものであるならシレアには必要ない」

 静寂の中、カエルムの声はいっそう澄んで響いた。

「王であれ人間だ。国民の信頼と尊重し合う関係は、直に皆と関わらないとできるはずがないだろう」

 その最後の言葉が終わるか終わらないかのところで、イヌダティオは完全に意識を失った。それを見届けると、足元に転がるイヌダティオを見下ろす。

「剣を向けたところで真に人の考えは変わらない。お前は私がここで斬るのではなく、お前を慕ったという者たちの声が必要だと思ったのだがな」

 こちらから剣を振るわなければ、少しでも彼らを思う言葉が聞けるかもしれないという期待は無駄だった。隙がなく険しかった蘇芳の瞳に憐れみが滲み、そして瞼が閉じられる。

 向けられた言葉はもはや聞き届けられはしない。空になった小瓶に栓をし甘い香を中へ閉じ込めると、それをそっと懐へしまって、カエルムは廊を奥へと駆け出した。

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