薬毒(六)
入り口でロスを呼んだシルヴァは、まろびそうになりながら部屋に駆け入って来ながら息せき切って叫んだ。
「ロス、あの人は!?」
その顔は蒼白で、翡翠の瞳に焦りが浮かんでいる。灰青色の髪はロスの知る編み込んで結い上げた形とは違い、無造作に一つに結ばれている。服も巫女の正装ではなく、薄紅の簡素な貫頭衣を腰の位置で縛っているだけだ。
「まさか一人で行かせたの!?」
反射的にシルヴァの方へ駆け戻り始めたロスに向かって、池を迂回しながらシルヴァは問いを重ねる。そのあまりに切迫した調子に気圧され、ロスの口は考えなしに動いていた。
「は、自分にここは任せると……」
「何年従者やっているのよこの鈍感! あの人の性格くらいわかるでしょう!」
この女性から聞いたこともない激しい喝がロスの鼓膜に飛び込む。
「人相手ならロスが簡単にやられるわけ無いけど、その扉の中に入ったら何が起きているか分からないわ。貴方を盾にするように見せて自分が貴方を守ったのよ!」
足元の床板に高い音を立ててシルヴァはロスのところまで辿り着くと、そのまま脇を通り過ぎ様に舌打ちした。
「やられたわ。まさか禊ぎの義務の間に事を起こされるなんて」
「禊ぎ?」
「素っ裸で出てこれるわけないでしょ」
思わず訊ねたロスに振り向きもせずそう言い捨て、「フィオーラが出てくれて助かったわ」と呟く。見れば確かにシルヴァの髪は濡れているようだった。
わけもわからず慌ててロスも後を追うが、シルヴァは待つ素振りも見せずにまっすぐ部屋の最奥へ進み、扉の前で足を止めた。
「『国のため』だと言ったらこれだからもう……だからあの兄妹は王族なんかじゃなきゃいいのよ」
翡翠の目に悲痛を浮かべて嘆息し、そっと白木と並行に手指を立てる。
「え」
掲げられた白く細い指に嵌められた指環に目を留め、ロスは思わず声を挙げた。
その指輪自体はロスも何度も目にしている。シルヴァがいつも着けていたものだ。だがこれまでその指環の石座は宝玉を一つ欠いていたはずだ。それなのにいまはそこに、確かに輝きがある。
それは、碧い石——冴え渡る空を映した、珊瑚礁の海の色。
「まったく……『早晩、役には立つと思う』って……こういう勘は本当にいいから呆れるわ」
狼狽するロスには構わずシルヴァは精霊への礼を唱えると、手の甲を返して石を一瞬、扉に触れさせた。シルヴァの手を中心に光の輪が幾重にも生まれ、扉の隅まで波紋のごとく広がっていく。
ロスが先ほど見たのと同じように扉は音もなく開き、カエルムが吸い込まれていった暗い廊が姿を現した。
「来るなら来て」
シルヴァは初めてロスに振り返る。翡翠の瞳に強い意志を宿し、凛とした声に躊躇いはない。
「中の道は入り組んでいるというわ。早くしないと間に合わない」
そう言うが早いか、シルヴァは長い髪を揺らして身を翻す。迷う時間も理由もない。ロスはすぐさまその後に続いて廊の中に踏み込んだ。
だが正直なところ、胸中は混乱の極みでまず何から考えればいいのか分からない。
——ちょっと、待て……
問い質したいのに問い質せない。
同じ感覚をほんの少し前に味わった気がするのだが、ロスは先ほどよりもさらに複雑な気持ちが燻り始めるのに気がつきつつ、何とも言えずに足を急がせた。
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