奸計

奸計(一)

 まだ日が東の空にある頃、テハイザ王都イクトゥを取り囲む二重の防壁の一つを三騎が通り抜けた。騎馬は人家がまばらな郊外の村を王都中心街を守る防壁の方へ走っていく。馬の足は単なる旅人の歩みではない。急いた蹄の音を聞きつけて、田畑に出ていた農民や朝餉の片付けをしていた宿屋の娘が何事かと道に顔を向ける。

 騎乗した者たちのなりは遠目から見ても明らかに高貴の人物だと分かる。好奇心溢れて道まで出てきた少年が、馬が通り過ぎた瞬間に騎手の羽織の徽章を見たという。

 縫い止められたしるしは、鮮やかな紅葉。




 ***




 市街からの訪問者がテハイザ王城に近づいてくると、衛兵が馬を連れた三人を止めるよりも前に、王城の重い鉄扉が内側から開いた。背後で起こった低い音に衛兵が何事かと王城内部を振り返れば、中から青年が一人、異様な速さで駆けて来る。

「シードゥス!」

 入り口から飛び出すなり、青年はシードゥスに走り寄った。

「クルックス、何で俺だと」

「上から見えた。それより聞きたいのはこっちだよ。どうしてカエルム様と——」

 シードゥスの肩を支えにしながらそこまで言うと、クルックスはぜいぜいという息を止めて正面に立つカエルムに向かって公式礼の姿勢を取ろうとした。しかしカエルムはそれに遠慮を示し、シードゥスに発言を譲る。

「国王陛下は」

「もう取り継ぎを頼んである。でもカエルム様とロスさんがなぜ」

「後で説明する。天球儀の方は」

 クルックスは唾を飲み込んだ。シードゥスの肩を掴む手に力が入る。

「そのこともあるんだ——お二人にもご覧になっていただきたいと思います。陛下をお待ちいただく天球儀の部屋へ」

 三人に入るよう促すと、クルックスは石造りの廊下を城の内奥へと先導した。


 ***


 謁見の間の壁を覆う硝子の向こうでは、海が荒々しく波立っている。海上には一艘の船も浮かんでおらず、濁った雲の下で鳴きかわす鴎の飛び方はどこか落ち着きがない。

 海面で砕ける白波を背景にすると、黒曜石の台座に載った天球儀は一層存在感があった。

「こちらがただいまお話しした通りの状態です」

 球体の表面では、カエルムとロスが以前に見た時と同じく、無数の星々がこの季節にあるべき正しい位置を示していた。そしてその中に確かに、前回テハイザを訪問した時には見られなかった光が発せられている。一つは位置から判断すれば太陽——シードゥスから話を聞いていたものだ——しかし、もう一つ目を引く発光体があった。

「月、か?」

 クルックスは頷いた。太陽と同様に光を発しているのは明らかに月の軌道上を動いている。だが、常ならば黄白色で記される星の周囲が今は青味を帯び、光の影が球面上で薄い水色の輪を作っている。

 カエルムとロスだけではない。シードゥスまでもが一言も発することなく天球儀を見つめていた。三人の顔を覗っていたクルックスは、ついに沈黙に耐えかねて口を開く。

「気がついてからそう経ってはいません。太陽だけでなく月まで光り出したのか、正確な時は分かりませんが、月が発する光の方向が気にかかるんです」

 クルックスが球面に触れるか触れないかの位置で人差し指を止める。真上から見ると、月から発せられた光は円環状ではなく錐体を作り、指の指す方向と重なって伸びていた。

「もう少し進めば、月の位置が太陽とほぼ真反対に来そうです。そうなったら月の光が太陽の光と衝突する。そしてこのまま行くと、記録から計算する限りで二つが重なるのは……」

「満月か」

「ああ」

 肯定したきりクルックスは口を閉ざし、球面上の一点を見つめた。月の青白い光はさながら言い伝えにある鬼火のようだ。

「光がぶつかったとして何も起こらないかもしれない。でもシードゥスも知ってる通り、本来満月には大潮になる」

 まだ室内の空気はぬるい晩夏のものなのに、クルックスは寒気を感じるかのように自らを抱いた。

「僕にはそれが何かを意味するようにしか思えない。一つの線上に二つの重要な星が集まり、しかも常にない強い光が衝突を起こす。それが大潮の時だなんて……まるで星の位置が重なるのに合わせているようで」

 天を照らす二つの星が球体の上で見せる明かりは、見ているだけならばきっと清洌に見えただろう。だが今の状況下でそれらを美しいと思える者はいなかった。

「何かの兆しにしか思えなくなってくる。しかも今回のことだって……」

 するとそれまでただ球体を注視していたシードゥスの顔に瞬時に動揺が浮かび、はたとクルックスの方を見た。だが、口を開くのはロスの方が早かった。

「それなんだけど、『今回のこと』ってことはその月の発光以外にも何か異常があったのか? 一体テハイザでは何が起こってるんだ」

「え? 何がって、お二人がいらしたのは陛下が例の件でお呼びしたのでは……」

 問いかけられたはずのクルックスの方が逆に目を丸くし、すぐさまロスと共にシードゥスへ疑問の眼差しを向けた。

 混乱と動揺が漂いはじめる中、カエルムだけは腕を組んで天球儀から目を離さない。

 しかし刹那ののち、蘇芳の瞳がさっと入り口に向けられ、素早く礼を取った。

「テハイザ国王陛下」

「カエルム殿……」

 入り口に姿を現した国王の立ち姿は普段の溌剌たるものとは違う。四肢には力が無く、近衛師団長に支えられる形でなんとか倒れずにいるという風情だった。

 衰弱した声は、それでもなお厳格に問う。

「貴方が、なぜ……」

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