波紋

波紋(一)

 波の上に、奥から手前へと波紋が広がる。音もなく、決まった間隔で、一つ、また一つと輪が近づいて来る。

 檜の桟橋にしゃがみ込んで、スピカは絶えず弧を描く目の前の水面を眺めていた。シレア城の地下、最下層の階にある一室である。部屋の中は廊下とは対照的に薄暗く、木造部の多い城の中で異色にも一面が石壁で覆われていた。スピカの座る桟橋から水面を挟んで真正面にある最も奥まった壁から、一筋の水が流れ落ちている。

 壁にしつらえられた灯火が水面に朱色の影を作り出す。水は塵一つ浮かばず澄み切っているのに、目を凝らして水の中を覗いてみても、灯火と天井の岩肌が水面に映し出されている他には何も見えず、底までどれほど深いのかすら分からない。

 波がこちらへ来るのに合わせて、水面の朱色が揺れる。何を考えるでもなくぼんやりとこの絶え間ない動きを眺めながら、静寂の中に身を浸すのがスピカは好きだった。

「ああ、やはり今朝もここにいたのか」

 いつものように無音を楽しんでいると、不意に背後から声がした。スピカがこの場所での自分の沈黙を破るのを許しているのは四人だけ。そのうちの一人だった。

「スピカのおかげで私もアウロラもについては安心していられたよ。流れは止まっていないようだな」

 カエルムはスピカの横に腰を下ろし、自身も最奥の壁を見つめた。逆にスピカは首を回し、カエルムの横顔を見上げる。

「あたしは海辺で生まれましたから、海の波を見なかった日なんてないんです。だからかな。ここはいつでも波が見られるから」

「なるほど。この地下水は常に流れているからね」

「王女さまから聞きました。シューザリエ大河の流れがどこか地下を通じてここに来ているのだろうって。でも、土の中でどこを通ってどういう仕組みで城に辿り着いているのかはわからないって」

 この地下水はシレア王城に古くから存在し、この部屋に広がる池は絶えず一定の水量を保っている。日照りであれ、豪雨であれ、水面が上下することはない。従って干魃の時などに頼れる水資源として極めて貴重であり、時計台と並ぶシューザリーン王都の宝として古来、神聖視されてきた。しかしその流れの仕組みは未だ解明されていない。

「自然を前に、人が分かることは限られていると思う。ただシューザリエがここに恵みをもたらしているのはきっと本当だろう。シューザリエ川が南へ行き着いて海の水になるというのなら、確かにこの水はスピカが見ていた海と大きくは違わないかもしれない」

 カエルムは膝に置いていた手をおもむろにあげると、嵌めた指輪を眺める。王子をひたと見ていたスピカは、カエルムの指を飾る碧と珊瑚色の宝玉に目をとめた。

「王子さまのそれ、あたし国で見たことあります。王様と、あと父さんと兄さんと儀式を見た時に、他の偉い人たちも着けてました。指輪じゃなかったけど」

 言われてカエルムは二色の宝玉をスピカの方に向ける。

「スピカの観察力と記憶力には舌を巻くな。この宝玉はシレアの王族に代々伝わっているものだ。アウロラもこれと組になる耳飾りをしているだろう。ただ、元はテハイザの至宝だとされる。古の王がシレアの白木と交わしたものだ」

「古の……あ! 『国事史』!」

 記憶を辿り、スピカは目を見開いて叫ぶ。

「そう、テハイザの『国事史』にある。スピカなら覚えているのでは?」

 カエルムが挑戦めいた表情を作ってみせると、スピカは居住まいを改め、背筋を伸ばして書の一節を誦じ始めた。

「『時の標を持つ国、森の恵みにより栄える。これもまた、国の宝となりて、人々の営みを助けん。彼の国、それをもって技を磨き、木々は匠の技によりて美麗なる形に生まれ変わらん』……これは、シレアのことですよね?」

「そうだ」

 テハイザ創建以来の歴史を綴った『国事史』にある、両国の交流を示す最初の記述である。正解した喜びにはにかんで、スピカは先を続けた。

「『天の標を持つ国、自らに与えられたもう海の美しき宝玉によって、類稀なる形をつくる。やはりこれを一の宝とす。光かえし煌めくたま、国の境を越えて人の眼を驚かせること一度ならず』」

 海の色で染め上げたような碧色が、カエルムの手元で燭台の光を返した。妙なる色の移ろいを瞳に映しながら、スピカの朗誦は続く。テハイザの書庫で変色した羊皮紙を捲りながら、幼い頃には兄にせがみ、字を覚えてからは自ら繰り返し読んだ文章は、考えるよりも先に声になっていった。

「『天と時、ところを示し、流れを示す標を持つ両の国、その宝に託し、互いの信の証とす。ここに両の国の友交始まる』」

 言い伝えの節が一言一句違わず最後まで朗誦される。淀みなく歌うような高い声が石壁に当たって跳ね返り、室内に響き渡る。隣り合う二つの国が初めて友誼を交わした記録である。自然がそれぞれの国に与えた恵みを、国が誇る工芸技術の髄を尽くして作り上げた至宝が交わされた。その一つが、カエルムとアウロラが両親から継いだ装飾具にある。

 壁に跳ね返された残響までもが止むのを待って、カエルムは先に気にかかったことを口にした。

「テハイザ王以外の者もこの宝玉を持つと言ったね。確かに国王陛下は複数お持ちでいらしたが、他にこれを持つのはどういった人物なんだ——聞いて良ければ」

「ええと、これも『古伝万有譚』にあるテハイザの昔話だから話してもだいじょぶだと思います。確か」

 頭の中で国の言い伝えを集めた『古伝万有譚』の幾つもの伝説を思い返しているのだろう。しばらくスピカは下向き加減になって考え込み、先ほどよりも心許ない声音で始める。

「えと……海と珊瑚の輝き……王の手より授けられしは、国土の一部を担う責あり……」

 少しずつ切りながら続く言葉に、カエルムは耳を傾けた。

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