#2「いまだ知られざる秘密」

仕事を残してきたと言ったモルフォが立ち去れば、メタの手元に残ったのは青く新しい指輪ひとつきりだ。性急にすぎる求婚を反芻していたメタは、いまだ呆然としたまま広げたハンカチへ指輪を降ろす。空いた指に毛糸を絡め、機械的に編み針を動かせばいくらか気は紛れた。だが、夕方を過ぎ、定時を超え、夜が来ても、頭の中はモルフォからよこされたプロポーズのことでいっぱいだった。項垂れたままのメタは冷える脳を強いて、モルフォの真意を推し量ろうとした。たちの悪い冗談というのが一番ありそうな線だったが、冗談で指輪は作れない。歪み一つない新品の指輪をさしだしてきたモルフォを思う。焦りは募れど答えが掴めるはずもない。青い髪。まっすぐにこちらを射貫く青い眼差し。思惑がどうであれ、彼女は真剣だった。


ちくちくと縫い進む。時計の長針が天井へ戻り、辺りが闇に閉ざされてようやくメタは我に返る。消灯時間だった。手元を見れば、本命のセーターを放り出して手慰みに作り始めた靴下は腿を覆うまでになっている。メタは深いため息をつくと、消えた蛍光灯のもとで抗うように白い縫い目を綴じた。そうまでして作業を続けても結局のところ心の整理などつかないまま、余った毛糸玉を拾うメタは半ば無意識に作業場を見渡した。だが、片付けが終われば次はない。留まる理由を見つけられず、今夜はもう引き上げるべきと悟ったメタは重い足取りで部屋へ戻った。扉を開けば、見慣れたはずの自室さえどこかよそよそしくメタを迎えた。編み物の箱を机に降ろして丈の短い白衣を脱ぐと、どっと疲れが押し寄せてくる。メタはベッドに倒れ込んだ。考えることはたくさんあって、なにひとつとだって向き合いたくはなかった。


青い髪を持つ水の一族、『S型第二世代』の子供は全員が闇夜の黒髪で生まれ、二次性徴と共に夜明けの青がきざしていく。メタがモルフォと出会ったのは彼女が十四になる年で、当時の彼女はそれこそ青い羽根を持つ蝶のような、重い黒色の髪に光る青がまじりだす年頃の女の子だった。仕事の相棒であるアズールが連れてきた幼い隠し子は、以来、メタの暮らしへと加わった。だが、庇護を受けていた彼女もいまや立派な成人だ。ベッドに背をつけたまま両足のシューズを落とし、メタは深い溜め息をつく。そうだ、自分と彼女は成人の男女で、午後の会話も、メタが頷けば即座に婚姻は成った。だからこそメタは返事を先送りにした。


嫌だと言って突っぱねるのは簡単だった。二次性徴の最中から成人するまでを見届けた相手と番おうという感性はメタの中にはない。かつてそうあれかしと望んだように、モルフォは職を得てクローニング技師として身を立てた。メタがここで何と返そうが、経済的に自立した彼女の暮らしが転覆することはない。だが一方で、金銭では解決しないこともある。望んだ相手と手を取り合って歩む人生の得がたさはメタ自身よく知っていて、モルフォには選択の自由を、と折に触れて考えていた。だからこそ、相手としてメタの名が挙がったことに内心ひどく戸惑っている。メタの側には難を示す理由が、それこそ片手の指では収まらないほどにはあった。自分が介入したのではモルフォを不幸せにするだろうという確信さえも。けれど、彼女のご所望はまず第一にメタである。調整の余地さえない、真っ向からの無理難題だった。なるだけ早くと言われた以上、あまり結論を先延ばしにはできない。額に手を当て、メタは指の隙間から暗い天井を睨む。


「アズールに相談してみるか……」


S型第二世代が支配するクローニング研究所で、ただ一人変化のないミルク色の金髪を持つメタには、相棒であるアズールの他に頼るものがない。なんとも嫌な気持ちを覚え、寝返りを打つ。選択肢など最初から一つだってないようなものだ。しかし、いくら虚偽とは言っても、建前上アズールはモルフォの実父である。ここで巻き込んだとしてもまさか文句は言わないだろう。たとえ母たる配偶者が架空の人物で、父子としての血縁さえ絶無だとしても、元を正せば全ての責はあのクローニング狂いの男にあるのだから。


血縁的な繋がりをもたない人間が父親を名乗る所以はない。実際のところ親子関係というのはモルフォがアズール当人の手で造られた脱法クローンだということからくるレトリックにすぎない。クローン製造禁止法の施行によって無申請のクローン製造は違法となった。だが、依然として社会は造っては殺すルーティーンから抜け出せずにいて、研究施設では突発事故や誤発注分の数量調整、否認可個体の第三者処分と偽っては廃棄物の量を誤魔化してきた。そんな最中にモルフォは生を受けたと聞く。場に居合わせたわけではないが、メタは状況証拠からそれが真実であると理解した。アズールが何故『モルフォ』を実子と偽り、他の検体と同じ所へ送ることを避けたのか今となってはわからない。彼女の出自は全て、大小様々な嘘と粉飾の上に成り立っていた。それは当時、紙ぺら一枚の偽装で造られた数多のクローンたちと同じように。


始まりに一枚、終わりに一枚。安っぽい紙にインクが乗れば生命は宿り、それは同じだけの気安さで破棄されていく。いくら世間から人間の腹で育ったと見做されていても、モルフォは本来人間の頭数として数えられる命ではない。アズールが偽装の書類を一枚書くたび、迷いのない指が注射器を組むたびに、命に数えられなかった子供達が元の水へと帰っていった。いくたりも、いくたりも。モルフォも本来ならばそちら側に入るはずであったのだろう。大人になるまで生き延びたのは、単純に運が良かったのだろうとメタは思う。


今更どちらでも状況は変わらない。メタは何度目かもわからないため息を吐く。モルフォはメタにとって特別な相手だった。それは結ばれたいという意味でも、特別な愛情があるという意味でもない。人並みの愛着はあるつもりだった。学校に通うことなくアズールに引き取られたという彼女に読み書きを教え、踊りを仕込み、日々の食事を世話していたのは他でもない自分だからだ。けれど、それは問題の本質ではない。二人の間にある可視、不可視の繋がりはそれだけではない。


かつてやむにやまれぬ事情により、生まれ持った容姿を捨て、授かった名を捨て、築いてきた社会的繋がり全てを捨て、機械の身体を持つサイボーグとなった。新たな名を得て再度の生を受けたメタが、完全な機械の身体を手に入れてさえ手放さなかった最難関のピース。銃火器用の排熱機構を体内に備え、二百度までを耐える鋼の装甲を持つメタにとって『生身の脳』はある種の枷でもあり、名によらぬ『自己』を規定するたった一つの持ち物であった。いまや失われて戻らないそれは、ひとときアズールの手へ渡り、この世に特別な一体を生んだ。僅かばかり他人と違う形質を持ったが故に、自己から肉体全てを切り離した彼の『前身』を模した原本なき複製。存在そのもの抹消されて二度と戻ることはない『女』の、現世にひとつきり残った最後にして最大の楔。


メタは頭を悩ませる。真なる水の中に発生した存在するはずもない遺伝子配列。

それこそが件の指輪の送り主であり、長じたモルフォそのひとであるのだった。

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