メタモルフォーゼ・インサート

佳原雪

#1 「血は流れなくなった」

埃をかぶったクローニング機器にはたきをかける。空いた水槽の点検が終われば、今日やることはなくなってしまった。


社会を混迷に陥れたクローン製造禁止法の成立から既に十年。社会に根深く定着していたクローニング活動は、法の施行によって名実ともに規制された。長く続いた黄金期もいまや過去、抑制された胚発生により命の値段は高騰する。クローンの腹を切って臓器を得るのは不道徳な行いとされ、遺伝子配列をパブリックドメインにするために横行した暗殺もすっかりなりを潜めていた。十年前には当たり前にやっていたような、生体認証通過のためのクローニングも廃れて久しい。社会は変容した。それは塗りつけた血で扉を開く時代の終わり。


メタは研究所で働く武装サイボーグだ。クローニング事業に従事する人間には珍しい金の髪と赤い目に、動作継続時は最大二百度まで上がる鉄の身体を持つ男は白兵戦と銃撃を得意としていた。だが、日夜問わず舞い込んでいた荒事処理もいまやクローニング需要と共に低下の一途を辿っており、戦闘技能は持て余されている。この頃は夜間出張もめっきり減って、通常業務にも空き時間ができる始末。暇にしているのもきまりが悪いために、メタは冬の祝祭へ向けてセーターを編んでいた。黒のレザーグローブを抜いた手でステンの棒を交差させ、無音の所内で退屈をしのぐ。代謝なき機械の指は汗の一滴こぼすこともない酸化チタンの白色だ。誰に邪魔をされることもなく毛糸を引けば、垢に染まることのない白い糸が机の上で僅かずつ網目へと変わる。単調な模様編みのセーターはあらかた縫い上がっていて、既にヨークと袖を残すのみだった。


ちくちくと針は進む。この頃は平和そのものだ。乱入者はなく、敵対者もなく、先の鈍い編み針が命を奪うこともない。血は流れなくなった。それは、死に、生まれ、殺めては造る日常からの離脱。荒れ狂う流動こそを尊ぶようなサイクルから抜け出して、社会は安定を受け入れた。停滞に微睡む世相の中で、全ては過去になっていく。いつか望んだような暮らしに指を絡め、メタはじっと考える。武装サイボーグという自身の在り方と、この先、本当の停滞が訪れたときの身の振り方を。


「あっいた! メタ、今ってちょっと質問いい?」

遠く投げかけられた声に、メタは編目を数える手を止めた。クリップを挟んで顔を上げれば、目を攫うのは青い長髪。キトンブルーよりなお澄んだ、水の一族の青い目と髪が戸口で大きく手を振った。黒い長スカートと標準的な白衣、肩を超して腰まで垂れるまっすぐな一つ結びには見覚えがあった。『モルフォ』。蝶を名に持つ、S型第二世代の若いクローン技師だ。

「モルフォ? ここへ来るなんて珍しいな。アズールなら今は出掛けていて居ないが……何かあったのか? 」

「中断させてごめんなさいね、トラブルは一個もないよ。今度の祝祭に出す贈り物のことで相談があるの」

足早に歩み寄ってきたモルフォが困ったような顔で、こういうの、本当は親であるアズールに聞くべきなんでしょうけど、と言ったのでメタは曖昧に頷く。今は出掛けているメタの相棒、クローン技師のアズールこそが彼女の父親であるが、メタはそれが偽装の上に立つ甘い嘘なのだと知っている。無論、口にはしない。それは倫理と法、どちらの観点からも明らかにまずい話だからだ。メタは端的に話を戻す。

「なにか悩みごとがあるのか?」

「うんとね、冬のお祭りは重要なイベントでしょう? 今年はほら、配置換えのすぐあとだし、外部の人も参加するっていうし。私は学校に行っていないぶん贈り物の経験が少ないから失敗したくないと思って」

外部の人、という一言で、ああ、それでわざわざ自分の所にきたのか、とメタは納得する。メタの持つ金の髪と赤い目は、青い一族には発現しない『外』の色だ。確かに、話を聞くには最適の人選であろうと思われた。

「モルフォはまだ入ったばかりだろ。年が若いなら、鉛筆ひと箱、レターセット一つだって文句は言われないと思うが」

「そう、そういう話をしにきたの。聞いて良かった。相場ってそれくらいだよね?」

念を押すような言い方に、メタは転がっていた毛糸玉を積み直しながら首を傾げた。

「個人的に贈られたものなら気にする必要もあるが、等価のものを返そうとしなくて良いんだ。反対に、自分より年上にあまり高価なものを渡すのは良くないな、慣例に背くとおかしな事になる」

「だ、だよね? 気をつけなくちゃね。この辺にメモしとこう」

慌てたような様子のモルフォが目を伏せ、手帳へ書きつける。メタは机の上、作りかけのセーターに目を向けた。冬の祭りは神聖なものだ。年に一度の祝祭であり、生誕を祝う節目であり、近しい者と贈り物を交換して繋がりを深める社交の場でもある。慣例上、年嵩のものからは古いコインや謂われのある品が、年少のものからは手作りの道具や消耗品がそれぞれ贈られた。このプロセスを踏むことで、手から手へ、伝統的に宝物は継承されていく。そこまで考えて、メタはふと気がつく。

「……渡すものがないのか?」

「うん? なんて?」

いくら年嵩の人間だといっても、青い髪をもたないメタは余所者だ。継承の輪に入っていない人間は、自身で渡す何かを用意する必要があった。だからメタは自分では着ることのないセーターを編んでいる。しかしその点モルフォはどうだ。青い髪を持つといっても彼女は自分とアズールの元で育ち、学校での集団生活を経験しなかった。となれば、譲り受ける機会のない彼女が何も持っていないことなど、少し考えればわかりそうなことだ。手落ちだ、と思って、メタは苦い気持ちになる。

「渡せるものがないなら俺が代わりに用意しよう。今からでも、靴下くらいなら追加で作れる。モルフォがそれでも良ければ……」

メタの提案に、途中までぼんやり聞いていたモルフォはぎょっと目を見開いた。

「あ、ち、違うの。弁明させて。えっとね…… 前々から用意していたものがあったんだけど、祝祭の日には不適格かもって気付いて、別のに変えようかなって。定規のセットとかにするよ、渡す方は。だから、そんなに気を回さないで、大丈夫だから」

わたわたと説明するモルフォは言葉通り、財の不足に喘いでいるようには見えなかった。怖れたことが早合点だと知ってメタは胸を撫で下ろす。

「ならいいんだ。正直、進物に定規セットもどうかはと思うが…… いや、口幅ったいことを言った。モルフォが好きに決めてくれ。というか、そこでコンパスが候補に挙がるなら渡さない方はなんだったんだ……?」

うーん、といってモルフォは困ったような顔をした。


「えっと、これ、ちょっと見てほしいんだけど…… どう思う?」

モルフォがポケットから取り出したのは細いリングだった。それはメタの白い手へ預けられる。鉱石にも、釉薬にも似た艶やかな青が、両端を埋める銀フレームに縁取られてチカリと光った。濃淡のある濡れたような輝きはメタの視線を奪うのに十分だった。

「指輪? これはまた随分と立派で近代的な…… 誰かに貰ったのか? それにしては綺麗すぎるような気もするが……」

手の中にある指輪は台座も石もないひと続きの輪だ。肌は滑らかで細かい傷の一つもない。メタは壊れものを触るように用心してそれをつまみ上げた。向かいに立ってじっと見ていたモルフォは、それ、と言って指輪を指す。

「あつらえなの。だから、貰ったわけじゃないよ。私が作った……作らせた? どっちでもいいか。それ、メタにあげるよ」

「……俺に?」

午後の光は青いきらめきになって手の上で弾けた。意図が読めず、メタは戸惑う。モルフォは、うーん、ともう一度言った。咳払いをしたあと少し言葉を探すように目を伏せたが、逡巡は瞬き一つきり。言葉はまっすぐメタへと触れた。

「あつらえたって言ったでしょう。私と、結婚してくれる? なるだけ早く、できるだけ、すぐに」

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