国語

コメンテーターの暴走

※これはエッセイです。表現の自由を利用した意見であり、参考文献やデータを用意する気は一切ありませんのであしからず。


 政治や経済、マイノリティなどのニュースのコメンテーターを見ていると、なぜ彼らコメンテーターは堂々と自分の専門外のことを話せるのだろう、という疑問が浮かぶ。そんな好き放題話して、民放の『公共性』を損なわないのだろうか。

 彼らコメンテーターは理路整然と自分の主張を語る。さすがコメンテーターになるだけあって人に伝えることが上手い。書籍やインターネットで学んだことや自分が体験したことをベースに我々視聴者に納得感を提供してくれる。ただ、その納得がふさわしいかと言われれば疑問だ。

 生理的に論理的に話せない人からすると驚くべき話かもしれないが、論理的に話すことができる人達からすれば、論理的に話し納得感を提供することは簡単だ。問題提起または意見の主張、その問題提起または意見の根拠、再度問題提起または意見の主張、の三部構成で話すことができれば納得感程度であれば提供できる。根拠の部分で 統計結果なんて出そうものならイチコロだ。

 つまり、論理的であるだけでは信憑性が疑わしいのだ。

 個々人として主張する分にはそれでも構わないのだが、一億二千億人へ納得感の伴った嘘か実かわからない灰色な意見を言うのはどうだろうという話だ。

 「でもさっき『根拠』と言っていたではないか」と言われる方も多いと思う。

 そもそも、根拠とは何か。私見ではあるが、三つに大別することができるのではないかと考えている。一つは数字などで定量的に評価することのできる自然科学的な根拠。二つは古書などから導き出される人文学的な根拠。三つは個人や友人関係などの小さな集団から生み出される個人的なもの。個人から国際まで人の関係を考える政治学の基礎原則に立てばこれらの意見は等価ではあるものの、『科学教』に無事洗脳された人は一つ目の意見を神のごとく崇め奉る。

 数字で評価できているのだから正解ではないかと述べる信徒はごまんといるのだが、そういう人に限って統計を理解しない。一度統計を触った人なら知っていると思うのだが、『有意な数』という概念がある。これは調査が統計的に正当であると認めるために人ようなものだ。まず、調査の母数が有意であるかという調査(計算)から始まる。1000人いるのに10人の意見だけ聞いて物事を決めることはあほらしいという話だ。つぎに疑似相関やらなんやらを調査するのだが、統計学の授業ではないので省略する。何が言いたいかというと、調査=真実ではないのだ。たいていの論文でこの辺は問題ないのだが、インタネットのアンケートは……。

 「じゃあ、人文学的な根拠で話せばいいではないか」と言われるかもしれないが、人文学的な根拠で話すということはかなり難しい。度々自分の意見と混同するからだ。専門ではないならなおさら。

 例えば、副業を解禁するか否かということを問題で、日本式経営は社員の忠誠心や非数的な経験を重視するので副業はあり得ないという根拠があるとする。鎌倉時代から続いた御恩と奉公の日本人的文化を根拠の根拠としているなら人文学的な根拠と言えるのだが、たかだか五十年生きたか生きてないかの人生で副業をしない経営の方がうまくいっていたからということが根拠の根拠となっているならば後者の根拠の根拠は個人的なものだ。

 上述のことから、根拠があるから正しいというわけではないということがわかってもらえたと思う。

 だからまあ、コメンテーターは堂々と話すなら根拠の源泉くらい明確にしてから話してくれないものだろうか。


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