第9話 ダメAIでも看病するのは頑張りたい・後編
「それにしても、熱が出たと聞いていましたが、カナエはわりと元気そうですね?」
ようやく泣き止んだベン子が、思い出したようにカナエに問いかけた。カナエとの会話が妙な方向に盛り上がってしまったせいで危うく忘れるところだったが、ベン子はカナエの看病をするために呼ばれたはずだったのである。
「お父さんもお母さんも大げさにし過ぎなんだよ、毎日ニュースで騒いでるもんだからさ。熱っていってもちょっとだるいぐらいで全然たいしたことないし」
カナエはそう言うと、ベッドに両手をついて、身を乗り出してきた。
「ね、何かして遊ぼうよ。おままごとする? ゲームする?」
「お? そうですね、私がやってみたいのは――」
とそのときベン子のスマートフォンから、メッセージが届いたことを知らせる通知音が鳴った。ベン子はすぐにモニターを確認する。
Shizuka
何してるんだ。早く検温して病状を報告しろ
まるで見ていたかのようなタイミングだった。
「あー……その前に、体温測りましょうか。それで熱がなかったら遊んでもいいんじゃないですかね」
「えー、全然大丈夫なのにー。ほら、おでこ触ってみてよ」
カナエはそう言って、頭を突き出してくる。ベン子はちゃんと体温計を使った方がいいんじゃないかと思ったが、とりあえず言われるがままにカナエの額に手を当ててみた。
「ひゃっ、ベン子ちゃんの手、つめたっ」
カナエはびっくりして声をあげた。ベン子の体温はバッテリーの電力を節約するために、人間よりもかなり低く設定されている。シズカが素体の設計段階で妥協した部分だった。
「うーん、よくわかりませんね……」
ベン子にインプットされている一般知識によれば、人間は熱があるかどうかを判断する場合にとりあえず額を触る方法を用いているようなのだが、ベン子にはカナエの体温が平熱なのかどうか、全く判断がつかなかった。
(私のセンサーって、感度が悪いのかな?)
これは別にベン子のセンサーの感度が悪いわけではない。人間が他の人間に触れて平熱かどうかをすぐに判断できるのは、自分の体温に近い温度帯だからである。ベン子の体温は人間よりも低いので、触れても人間の体温が高いのか低いのかの判断は難しい。人間にとって50度と52度は微々たる差でしかないように、ベン子にとっての36度と38度もまた微々たる差でしかないのである。
「やっぱりちゃんと体温計を使って測りましょう。これを脇に挟んでください」
バッグから体温計を取り出して、カナエに手渡すベン子。カナエは不満そうな顔をしながらも、渋々とそれに応じた。カナエが体温計を脇に挟んでからほどなくして、ピピッと電子音が鳴る。ベン子が数字を確認すると、37.3度だった。
「微熱ですけど、やっぱり熱出てるじゃないですか。おとなしくしてた方がいいんじゃないですか?」
「えー、つまんなーい」
ベン子は早速シズカに返信する。ベン子はダイレクト・インパルス(結局この呼称は宣言できなかったが)を見せびらかす際に自分とスマートフォンを接続していたので、そのまま入力操作を頭脳からダイレクトに送信した。
Vemco
体温37.3度。カナエ本人はいたって元気で、遊びたいと言っていますが良いんでしょうか?
Shizuka
ダメだ。あとから熱が上がるかもしれん。おとなしく寝かせておけ
「ダメみたいですね……おとなしく寝てましょう」
「ホントになんともないのにー」
Kumada
カナエ。ベン子さんの言うことをちゃんと聞きなさい
このSNSアプリはクマダも見られるようになっている。父親のメッセージを見て、ついに仕方なくといった様子で、カナエはベッドに横になった。
Shizuka
カナエちゃんが退屈しているようなら、何か本でも読んでやったらどうだ
「ええ……」
ベン子の読書嫌いは相変わらずだった。視覚センサーで判別しながら文字を読み進めるのも億劫だったのに、それをさらに音声出力しなければならないとは。人間の娯楽というのはどうしてこう非効率的なのだろう。
ベン子はそんなことを考えていたが、カナエはシズカのメッセージを背後から目ざとく盗み見していたようで、素早くベッドから這い出て本棚から一冊の絵本を取り出した。
「ね、ベン子ちゃん、これ読んでよ」
笑顔で迫ってくるカナエに押されて、ベン子は仕方なくその本を読んでみることにした。
「はあ……仕方ないですね」
朗読というのは、思いのほか悪くないとベン子は思った。ベン子にとって通常の読書というのは文章を読み進めるだけの受動的なもので、デジタル世界出身のベン子にはただただ効率の悪さばかりが目に付くものだったが、朗読となると自分で音声を出力する能動的なアクションになる。それは何かを表現するということであり、表現するためには文章を自分なりに解釈しなくてはならない。このフィードバックがベン子には面白かった。
しかし一番気に入ったのは、聞き手のリアクションが得られることだった。自分の表現一つで、カナエの表情がコロコロ変わるのはとても楽しい。ベン子はすっかり朗読に夢中になり、時間も忘れてカナエに絵本を読み聞かせた。
「ふう。終わっちゃいましたね」
本を閉じて、満足そうに息を吐くベン子。途中からカナエの反応がなくなってしまったが、寝てしまったのだろうか。そう思ってカナエの方を振り返ると、寝てはいるようなのだが、寝息が何やら苦しそうに思えた。顔色も、先ほどまでより赤みが増しているように見える。
(あれ? これはもしかして――)
気になってカナエの額に手を当ててみるが、やはりベン子には人間の体温の違いはよくわからない。そこでちょっと失礼して、カナエの脇に体温計を差し込んでみることにした。電子音が鳴って体温計を取り出すと、38.8度と表示されている。
(熱上がってる――――!?)
ベン子はすっかり動揺してしまった。
「あわわわわわわ。どどどどどうすれば……」
頭を抱えて立ち上がったとき、何かの重みに首筋が引っ張られているような感覚があった。重みの正体は、スマートフォンだった。そういえば、うなじの出力端子とスマートフォンを繋ぎっぱなしにしていたことを、ベン子はようやく思い出した。
「そうだ! 報告、報告!」
Vemco
カナエ38.8度です。ちょっと苦しそうですどどどうしましょう
Kumada
な、なんですとー!?
Shizuka
お前ら落ち着け。まずは水分の補給だ。経口補水液は用意しているな? いつでも飲めるように、手元に置いておけ。それと、洗面器に水、タオルを用意しろ。濡れタオルを額に乗せておけば、少しは楽になる
Vemco
わかりました!
Shizuka
あと、部屋を出るときは手洗いと消毒を忘れるな
「はっ! 手洗いと消毒!」
バッグから消毒スプレーを取り出して、身体中に消毒液を散布する。そして部屋を出て、洗面台で入念に手洗いを行った。
「これでよし!」
続いてクマダから洗面器とタオルと経口補水液を受け取り、部屋に取って返す。濡れタオルを絞ってカナエの額に乗せる。寝ているようだから、無理に起こすのは良くない。水分の補給は起きたときで良いだろう。
Vemco
あとはどうすれば良いですか!?
Shizuka
とりあえず何もしなくていい。黙って見てろ
Vemco
えー!?
Shizuka
最初に言っただろ。ほとんどの時間は見ているだけだって。病気と戦えるのは病人だけだ。発熱は人間の体がウイルスと戦っているときの正常な反応だから、慌てるようなことじゃない。お前が不安になったらカナエちゃんまで不安になる。でんと構えて甲子園でも見ているぐらいがちょうどいい
Vemco
わかりました……
言われた通り甲子園でも見ようかと思ったが、そんな気分にはなれなかった。結局何をするわけでもなく、ベン子はただカナエの寝顔を見続けた。
その後は、ときおりカナエが目を覚ましたときに経口補水液を飲ませてやったり、再び寝付いた後に額のタオルを取り換えてやったりしたぐらいで、シズカが言った通り、ベン子にはほとんど見ていることしかできなかった。それでもベン子は退屈だとは思わなかった。むしろ起動してから初めて、ベン子は一所懸命という精神状態になっているかもしれなかった。シズカはベン子に目的も用途も与えてはくれなかったが、初めて自分で自分のやるべきことを見つけたような気がした。
「頑張れ、カナエ」
甲子園の試合自体は見なかったが、スマートフォンで試合結果だけは確認した。ちょうど今日最後の試合が終わったところらしい。一試合目のサヨナラ試合の結果が目に入って、そういえば今日の朝はこの試合を見てたんだったな、とベン子は思い出した。もうずいぶん昔のことのような気がする。バッテリー残量も残り少ない。いつもより消費が速いような気がするが、看病で気を張っていたせいだろうか。このままスリープモードに入ったら、あと8時間はカナエの看病をすることはできなくなってしまう。
(メンドクサイけど仕方ない……やるか!)
自分の頬を叩いて気合を入れる。人間にとってはコーヒーでカフェインを摂取してもうひと頑張り、程度のシチュエーションである。しかし、研究所でひたすら自堕落な日々を送っていたベン子にとっては、生活資金が底を突きそうなのでハローワークに行こう、というぐらいの一大決心であった。
Vemco
マスター。急速充電を決行します
Shizuka
わかった。ブレーカーが落ちるかもしれんから、クマダは極力家電の使用を控えてくれ。特に電子レンジとドライヤー
Kumada
了解しました
バッグからアダプターを取り出して、コンセントとうなじのコネクターに接続する。そしてスイッチを押して、充電方式を急速充電モードに切り替えた。ベン子が自らの意思で急速充電を行ったのは、これが初めてのことだった。
(おおおおおおおお、来た来た来た……!)
大きな電圧がかかり、確かに不快な感覚はあったが、覚悟を決めてさえいればなんということはなかった。そもそも最初の頃は、再起動時はずっと急速充電だったのだ。カナエの苦しさに比べたら、このぐらいはたいしたことじゃない。
「ベン子ちゃん、何してるの……?」
目を覚ましたカナエに声をかけられた。振り返ったベン子は、気合を入れるために和式トイレで踏ん張っているときのような姿勢で充電中だった。
「あ、カナエ、起きましたか。私は今充電中で」
「へー。充電て、そういう体勢でするんだ」
「いや、そんなことは……これは気合を入れるためで」
それを聞いたカナエは一瞬キョトンとした後、クスクスと笑った。
「ね、お腹空いちゃった。ちょっと楽になったから、何か食べたい」
「わかりました。何か作ってもらいましょう」
そう言って立ち上がり、部屋を出ようとする。その瞬間、首筋を充電コードに引っ張られ、ベン子は大きくのけ反った。
「ぬおっ!?」
それを見て、カナエは愉快そうに笑う。
「あの……充電終わるまで待ってもらえませんか。すぐ終わりますから」
「うん、いいよ」
(やっぱり私はダメAIなのかなぁ……)
ベン子は思う。
(まあ、カナエが笑ってるからいいか)
その後、クマダの奥さんに作ってもらったお粥を、カナエは綺麗に平らげた。検温してみたところ、熱は平熱に近いところまで下がっていた。さらにクマダから、良い知らせが入ってきた。
Kumada
検査の結果は陰性でした。ただの風邪みたいです
Shizuka
良かったじゃないか
Vemco
良かったですね!
Kumada
良かった……本当に良かった……
小学生はもう寝る時間になり、豆電球だけを残して部屋の明かりが消された。しかしベン子にはまだまだバッテリーの電力が残っているため、スリープモードに入ることが出来ない。所在なさげに、カナエの傍らで背中を向けてスマートフォンを眺めていた。
「ベン子ちゃん、暗いところでスマホ使ってると目悪くなるよ」
「私は人間じゃないので大丈夫ですよ」
「あ、そっか」
ベン子は相変わらず、うなじの端子と接続して入力操作を送信する方法でスマートフォンを使っていた。ちなみに、ベン子の頭脳は一般に普及しているノイマン型コンピュータとは動作原理が根本的に異なるため、直接データの送受信をすることはできない。直接有線接続しているとは言っても、あくまでベン子の思考を単純な入力操作の信号に変換して、送信しているだけである。
「いいなぁ、ベン子ちゃんは。病気にもならないし、そうやってスマホ使えるのも便利そうだし。羨ましい」
「地味でつまんない、とか言われたような気がするんですけど」
「でも見てたら便利そうだなぁと思うよ」
そう言われたベン子はちょっと得意げになって、ふふんと鼻を鳴らした。
「でも、確かに私は人間みたいな病気にはならないですけど、この身体をちゃんと動くように維持するのって、けっこうメンドクサイんですよ」
「そうなの?」
「放っておいたらすぐガタがくるみたいなんですよね。だから頻繁にメンテナンスしないとなりませんし、ちょっとした傷でも人間みたいに勝手に治るわけじゃないから、いちいち直してもらわないとなりません。美味しいものも食べられないし……美味しいという感覚はわかりませんけど」
言いながら、ベン子は自嘲気味に笑う。
「あと、成長もしません。カナエは成長するから、すぐに私より大きくなりますよ。だから、私みたいなダメAIを羨むことはないんですよ」
「ベン子ちゃんはダメAIなんかじゃないよ」
「それ、前にも言われましたよ」
「あれ? そうだっけ?」
スマートフォンから目線を外して、遠くを見るような目でベン子が言う。
「そうですよ」
それきり、二人とも何も言わなくなった。やがて、背後から穏やかな寝息が聞こえてくる。カナエはもう眠ったようだ。ベン子はスマートフォンをバッグにしまい、カナエに向き直る。豆電球の弱い明かりに照らされた寝顔を眺めながら、ベン子は小さく笑った。
翌日、シズカが車で迎えに来た。すっかり元気になったカナエとクマダ夫妻が、研究所に帰ろうとするベン子を見送った。
「ベン子さん、本当にありがとうございました」
「ベン子さん、良かったらまたいらしてください」
「ベン子ちゃん、今度は私が元気なときに遊びに来てね!」
「えーと……」
ベン子は少し困ったような顔で、シズカの方を見た。シズカは何も言わずに、ビッと親指を立ててみせた。
「……ま、気が向いたらまた来てやらんでもないですよ」
「本当!? 絶対だよ! 約束だよ!」
こうして、クマダ一家に手を振られながら、シズカの車はクマダ邸を後にした。
「ずいぶん懐かれてたじゃないか。本当はもうちょっといたかったんじゃないか?」
「……別に。そんなことないですよ」
窓の外を眺めながらベン子が言う。気のせいか、以前より少し表情が大人びているだろうか。頬杖などついて、アンニュイな雰囲気を漂わせていたりする。
(私以外の人間と関わるようになって、こいつの中でも成長という現象が起こっているのかもしれないな)
そんなことを思いながら、赤信号に気付いて車を停車させる。
「マスター。一つ、お願いがあるのですが」
言われて助手席のベン子の方を見ると、両膝の上に手を乗せて居住まいを正し、何やら真剣な表情でこちらを見つめているではないか。
「どうした? いつになく真面目な顔をして」
「はい。真剣なお願いです」
いったい何をお願いされるのかと不安半分期待半分で、シズカは問い返した。
「なんだ、言ってみろ」
「目からビームを出せるようにして欲しいのですが」
それを聞いて、シズカは正面に向き直り、真顔になった。信号が青になったので、車を発進させる。何事もなく、研究所への帰路を車は走り続けた。
やがて、シズカは心の底から冷え切った声で、ツッコミを入れた。
「何言ってんだお前」
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