第7話 ダメAIは異性と話すのも恐ろしい

「学会でしばらくの間、研究所を留守にすることになった」

「はあ。そうですか」


 シズカが告げた知らせに、ベン子はさほど関心がなさそうに返事をした。人型AI・ベン子は食事を必要とするわけではないので、電気さえ通っていれば、研究所に放置されていたとしても特に困ることはない。これまで何日間も単独で過ごしたことはなかったが、たまには良いのではなかろうか。誰に気兼ねするわけでもなく、思う存分テレビを見たりゲームをしたりして、ダラダラ生活を満喫しよう――などと、ベン子は気楽に考えた。

 しかしこのときベン子は、事態の深刻さをまるで理解してはいなかったのである。


「そこで、私が留守にしている間のお前のデータ分析とメンテナンスだが、クマダに頼むことになった」


 ベン子は天才科学者・シズカが完成させた人型AIである。その頭脳は研究データの宝庫であり、シズカは毎日欠かさずベン子のメモリーをモニターして、データ分析に努めている。また、その素体は人体の機能を再現するために精緻を極めた構造をしており、毎日のメンテナンスは欠かせない。

 ベン子は目的も用途もなく、天才の思いつきで作られた人型AIではあるのだが、科学者にとっては超一級の研究対象であり、超高額の精密機械であることには変わりないのである。

 それはさておき。


「クマダって誰ですか」

「ウチの所員だ」

「この研究所って、マスター以外に所員いたんですか」

「いたんだよ。会わせていなかっただけでな。図体はでかいが、気の良い奴だぞ」


 ベン子が初めて起動してからかなりの日数が経過していたが、考えてみればベン子はほとんどシズカの自室に籠り切りで、研究所の中のことなどほとんど知らないままだったことに思い至った。しかしベン子にはそんなことよりも、シズカの発言について気になることがあった。


「図体がでかいって……もしかして、人間の男ですか」

「まごうことなき人間の男だ」


 それを聞いたベン子のメモリーに、それまで表れたことのない波形の緊張が走った。


「あの、マスター。妙なことを聞いても良いですか」

「どうした、改まって」

「その……」


 両手の指先の先端を突き合わせて、上目遣いでシズカの表情をうかがうベン子。何やらとても言いにくいことを言おうとしている様子だった。こんなベン子は初めて見る。シズカは好奇心を必死に押さえつけながら、ベン子の発言を待った。


「私の外見って……どうなんですかね?」

「どう、とは?」

「その……人間の男が見たら、れ、劣情を抱いたりすることって考えられるでしょうか?」

「は?」


 思わず、AIの癖に何言ってんだお前は、とツッコミを入れそうになったが、ベン子自身は非常に真剣な様子なので、それは我慢して真面目に可能性を検討することにした。シズカは、改めてベン子の容姿をまじまじと観察する。


「うーむ……そうだな……」


 大きくてつぶらな瞳。触れずとも弾力があるとわかる、ぷにぷにとした頬。背中まで伸びたストレートの黒髪。胸部は設計段階でシズカ個人の感情的な理由により平坦にデザインされたが、これはこれで需要がないとも言い切れない。口を開かずに黙ってさえいれば、美少女と形容して差し支えない容姿ではあると思う。清楚な服装で、晴れた日の花畑の前にでも立たせてみれば、さぞかし絵になることだろう。


「まあ、中にはそういうもの好きがいても不思議ではないだろうな」

「えー!? いやいやいや、じゃあまずくないですか!?」

「いったい何がまずいんだ」

「だって、そのクマダって男が私のメンテナンスをするということは……その、あんなところやこんなところを見られるってことじゃないですか! 私は嫌ですよ! 耐え難い恥辱です!」


(そういやこいつ、ベースにしてる人格は15歳女子だったな)


 迂闊にもシズカは、今の今まですっかりそのことを失念していた。確かに年頃の女子の感性がベン子のアルゴリズムに反映されているのだとしたら、羞恥心というものが芽生えていてもおかしくはない。とはいえ、シズカの留守中にベン子のメンテナンスができる技能を持った人員は他にいない。どうにかしてベン子には納得してもらうしかないだろう。シズカは説得を試みた。


「そんなことを言われてもな。人間の女性だって、男の医者に診てもらうときは同じような思いをしてるんだぞ。そのぐらい我慢しろ」

「人間の医者には社会的立場というものがあるし、人間の女性は法律に守られてるじゃないですか! 私にはそういうのないですよね!? 人型AIに卑猥なことをしたところで、社会的に追い込まれたり、刑務所にぶち込まれたりしませんよね!?」

「刑務所にぶち込まれることはないだろうが、社会的にかなりまずいことになる可能性はあるぞ。安心しろ」

「いったい何に安心しろと言うんですかああああああああああああ!!」






「どうも、初めまして、ベン子さん。クマダと申します」


 シズカの自室に通されたのは、かなり大柄の男だった。190cm近い身長に、白衣の上からでもわかる筋肉質の肉体。ベン子が直接知っている人間の女性はシズカだけだったが、数少ないサンプル同士の比較であっても、男と女というのは根本的に体の造りが違う生き物なのだということを痛感させられた。

 クマダが、右手を差し出してくる。どうやら握手を求めているというのは理解したが、そんなことよりもベン子はクマダの手のサイズが気になって仕方なかった。その大きさと厚みは、優にベン子の倍以上はある。


(あ。無理。絶対勝てない)


 檻から出された猛獣と対峙したときのような心境で、ベン子は恐る恐る右手を差し出した。クマダとベン子は、ぎこちない握手を交わす。触れただけでわかる腕力と握力の違いに、ベン子は恐怖を覚えた。なんだこの力。建設機械か。


「クマダ……さん? ずいぶんと屈強な肉体をお持ちでいらっしゃいますね……?」


 震える声で、頑張って話しかけてみる。


「ええ、学生時代はウエイトリフティングをやっていましたからね。今でも趣味で筋トレは続けています。力仕事でしたらお任せください」

「お前がベッドの搬入のときにいてくれたら助かったんだけどな」


 シズカが気さくにクマダに話しかける。


「すいません所長、その日は娘の誕生日だったものですから」

「あー、いいよいいよ。気にするな」


 どうやら所内の力関係ではシズカが上のようだ。というか、シズカが所長だったことも、ベン子は初めて知った。生物的には明らかにクマダの方が力が上なのに、そのクマダがシズカに対して腰の低い態度を取っているのを、ベン子は興味深く観察する。人間の社会というのはそういうことも普遍的にあり得ると知識として知ってはいたが、実際に見てみると少し面白い。

 そんなことを考えていると、クマダがベン子に向き直る。再びベン子の背筋に緊張が走った。


「ベン子さん。僕のことが怖いですか?」


 話しかけるときにやや屈んでくれてはいたが、ベン子が感じる威圧感には全く変化はなかった。


「えっ!? いや、その……」


 思わず後ずさり、引きつった顔で口ごもってしまうベン子。そんなベン子を、今度はクマダの方が興味深そうな様子で観察した。


「うーむ、凄いですね。本当に人間みたいだ」

「だろ? 私もときどきこいつがAIだということを忘れそうになる」

「人間とコミュニケーション可能なAIというのは普通、もっと円滑に会話が進むものですよね。人間側の意図を読んでくれるし、話題の提供も的確で、飽きさせずに会話を続けてくれる。人間とコミュニケーションをするための『装置』として出来の良いAIは、珍しくなくなりました」


 顎をさすりながら、クマダは熱っぽく語り出す。


「しかし、ベン子さんは違う。どうやら、僕のことを怖がっている。僕のことを怖がっているということはつまり、僕とのコミュニケーションは二の次で、まずは自分の身を守ることを第一に考えているということです。これは確かに、自我が芽生えていると言われても納得できますね」

「クマダはもしかしたら、人類の歴史上初めてAIに怖がられた男なのかもしれんな」

「素晴らしい。実に名誉なことです」


 ベン子は呆気に取られた表情で、勝手に盛り上がっているシズカとクマダを眺めていた。


(クマダって……マスターの、同類……?)






 そんなわけで、シズカはあっさりと学会に向けて出発してしまった。「夕方5時頃にメンテナンスに伺いますので」と言ってクマダも出ていき、シズカの部屋に取り残されるベン子。

 ひとまず暇になったのでテレビを点けてみたが、全く番組の内容に集中できない。クマダがメンテナンスに来たときのことを考えると、酷く憂鬱だった。もうこんなことをしている場合ではないと考えて、ベン子はテレビの電源を切った。

 テレビなんかよりも、いざというときに身を守る方法を考えなくてはならない。ベン子はクマダが来るまでの間、延々と黙考にふけった。





「ベン子さん、お待たせしました」


 クマダは時間通りにシズカの自室にやってきた。表情は穏和そうに見えるのだが、ベン子のとっては人間の男は完全に未知の生物であり、クリーチャーであった。ベン子は注意深く観察しながら、クマダを部屋に通す。


「どうぞ」

「お邪魔します」


 礼儀正しく入室するクマダ。


「では早速ですが、まずは足回りから見たいので、そこのベッドに横になってもらえますか」

「……はい」


 普段寝ている充電用のベッドではなく、金属パイプの簡易ベッドの方に横たわるベン子。白いシーツの上に、長い黒髪が広がった。緊張しているせいか、胸部の循環ポンプの鼓動が速く感じる。いろいろ考えてはみたが、やはり実際にクマダを前にすると、下手な抵抗は無駄な相手に思えた。


「では始めますよー」


 白衣の袖をまくりながら、クマダは野太くも落ち着いた声で話しかける。ベン子は観念したように視線を逸らし、視覚センサーにウォッシャー液を滲ませた。


「痛くしないでくださいね……」


 やや紅潮し、憂いを帯びた表情でベン子が言う。


「ははは、そんな体勢で妙なことを言わないでください。思わずムラッと来てしまうじゃないですか」

「ぎにゃ―――――――――っ!!」


 奇声とともに、ベン子の蹴りがクマダのみぞおちに炸裂した。

 それなりの速度と質量を持った物体が人体に激突したときの、鈍い音が響き渡る。


「ぐほぉっ!!」


 身体をくの字の折り曲げ、崩れ落ちるクマダ。


 ベン子の素体の運動能力は確かに人間と比べると貧弱ではあるが、それでもその脚部は自身の重量を支え、不自由なく歩き回れる程度のパワーを備えている。それが全力で開放され、油断している攻撃対象の急所に命中した際には、頑強な肉体を持つ成人男性をも悶絶せしめるのに十分な威力があった。

 後にクマダが述懐したところによると、このときのベン子の蹴りは『完全に意識の外から飛んできたので、全く見えなかった』らしい。


「やっぱり何かする気だったんじゃないか――――!」


 怒りの声をあげながらベッドの上に立ち上がり、ファイティングポーズを取るベン子。先制攻撃には成功したが、油断はならない。うずくまるクマダを見下ろし、警戒を緩めることなく、追い打ちも辞さない構えを見せる。


「ぐぐぐ……」


 呻き声を漏らし、片膝をつきながらも立ち上がろうとするクマダ。


(ちっ! 仕留め切れなかったか!)


 内心舌打ちしながら、次の攻撃の構えに入るベン子。クマダの立ち上がり際に、次の一撃を見舞う予定だった。しかし、ベン子の予想に反し、クマダは立ち上がることなくその場に両膝と両手をつき、額を地面に擦り付けた。

 キョトンとした様子で、しばしクマダを観察するベン子。目の前でいったい何が起こっているのか、冷静に状況を分析する。やがて戦闘モードに入っていたアルゴリズムは、一つの結論を導き出した。


(これは……降伏の構え!?)


「ベン子さん! 申し訳ありません!」


 勝利の予感に震えていたベン子は、クマダの言葉で我に返った。


「……え?」

「非常に不適切な発言であったことを、お詫びいたします! 僕がベン子さんにどう思われているのか推察していたにも拘わらず、あのような失言にいたってしまったのは、ひとえに自身の不徳といたすところです! 考えてみれば、ベン子さんにとっては所長が不在なのは初めての経験……そんな中、僕のような無骨な男の来訪を待たねばならないというのは、さぞかし心細く、恐ろしい思いをされていたことでしょう。年頃の女性型AIに対する配慮が足りなかったと猛省しております。申し訳ありませんでした。このことは、所長に包み隠さず報告してくださって構いません。いかなる処分を受けることも辞さない覚悟です」

「は、はあ……」

「しかしながら! 僕は及ばずながら所長に信頼されて、ベン子さんのメンテナンスを任されております。その職務を全うしないわけには参りません。どうか、この僕にベン子さんのメンテナンスを任せてはいただけないでしょうか。誓って、ベン子さんを邪な感情で見ることはいたしません。さきほどのベン子さんの蹴りは見事なものでした。しかしそれだけに、その衝撃はかなりのものだったはずです。フレームに歪みが発生していないか、至急点検しなくてはなりません。どうか何卒、僕にベン子さんを診させてください」


 すっかり毒気を抜かれたベン子は、気まずそうに人指し指で頬を掻いた。やがてクマダに習って姿勢を正し、両膝と両手をベッドの上について、頭を下げる。申し訳なさと恥ずかしさが、ベン子のメモリー領域を占有した。


「……私の方こそ、ごめんなさい」






 出先でスマートフォンをチェックしていたシズカは、ベン子からのメッセージが届いているのに気付いた。それを見て、小さく笑みを漏らす。クマダとベン子がうまくやれているか少々心配ではあったが、どうやら杞憂だったらしい。


 添付写真は、ベン子の自撮り画像だった。ベン子の背後では真っ黒に染まった盤面を前にして、クマダが頭を抱えてうなだれている。ベン子の様子はと言うと、満面の笑みを浮かべてピースサインを突き出していた。



Vemco

圧勝でした! クマダ、オセロ弱過ぎです!

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