第6話 ダメAIは外出するのもメンドクサイ・後編

 特に目的地があるわけでもなしに、シズカとベン子は研究所を離れて歩き出した。

 周辺の建物は農家の家屋や工場が点在しているぐらいで、あとはほぼほぼ雪原である。シズカにとっては特に見るべきものはない見慣れた景色であったが、ベン子にとっては目に映るもの全てが見慣れないもののせいだろうか、しきりに辺りを見回している。ほとんど前を見ずに歩き回っているので、危なっかしいことこの上ない。

 シズカは仕方なくベン子と手を繋いで、車道側に立って車からガードするように歩かざるを得なかった。ずっと生け簀で養殖されていた稚魚が初めて外海に放流されたときに、今のベン子のような反応をしているのかもしれないな、とシズカは思った。


「マスター」


 唐突に、ベン子が口を開く。


「なんだ」

「私って、ちっぽけだったんですね……」


 耳にした瞬間、思わずシズカは吹き出してしまった。


「ぷっ……はははははははは!」


 ベン子は、シズカが声をあげて笑っているところを初めて見た。突然のことに、これまで起動されたことのないタスクが起動され、顔面を紅潮させる機能が作動した。我に返ったように言語処理アルゴリズムが回り出し、腹を抑えて笑い転げているシズカに向かって、言葉が口をついて出る。


「なっ、何がそんなにおかしいんですか!」

「いや、すまん、笑っちゃ悪いとは思うんだが、お前の口からそんなセリフが出るとは、あまりにも意外過ぎてな……くくっ、ははははは!」


 笑いがぶり返して体をくの時に折り曲げ、ヒーヒーと白い息を吐きながら目尻を拭うシズカ。


「そんなに、笑うことないじゃないですか……」


 それは確かに、今の発言は普段の自分らしくないセリフだったことは認めよう。シズカが意外に思ったのも、もっともだと思う。だけど、自分らしくないセリフを口にしたら笑われてしまうのであれば、口にするのはずっと自分らしいセリフだけにしておかなくてはならないのか。笑われたり意外に思われたりしたくなかったら、ずっと過去の自分と地続きの、自分らしさとやらを演じ続けていなくてはならないのか。人間のコミュニケーションて、本当にメンドクサイな。


 などと考えていると、笑いをこらえてシズカが吐き出している息は白いのに、自分の息は白くないことに、ベン子は気付いた。ちょうど、なんとしても話題を変えたいと思っていたところだったので、そのことをシズカに訊いてみることにした。


「マスターの息は白いのに、私のは白くならないんですね」

「ああ、これか」


 そう言って、シズカは盛大に白い息を吐き出す。案の定、この説明好きは食いついてきた。


「寒いときに人間の息が白くなるのは、人間の体温と外気温の間の差が大きいからだ。空気中に存在できる水分は飽和水蒸気量という数字で表されて、基本的には気温が高くなるほど多くの水分を空気中に含めることができる。人間の体温はおよそ36度で、今の気温は氷点下10度いってるかどうかぐらいだな。人間の呼吸によって取り入れられた空気は、体内で温められて飽和水蒸気量の差で水分が増える。で、その空気が吐き出されると、今度は冷たい外気の飽和水蒸気量を越えた分の水分が、目に見える水滴になるわけだ。その水滴が白く見えているわけだな」


 淀みなく説明を続けるシズカ。それにしても、話題を変えたかったのは確かだが、ここまで詳細に説明しなくても良いのに、と思わないでもない。


「お前の場合は、人間ほど身体と外気の温度差は大きくない。だから呼吸をしても、空気中の水分量がさほど変化しないのだろう。氷点下30度ぐらいになったら、お前でも息が白くなるかもしれんな」


 その話を聞いて、ふと、ベン子は思ったことを口にした。


「私の体温て、人間より低いんですか?」

「そうだな。設計段階で人間と同じぐらいの体温に設定することも考えたんだが、そうするとバッテリーの消耗が激しくて、稼働時間が短過ぎるんだ。だから体温については妥協することにした。改めて恒温動物というのは燃費が悪いんだなと思ったよ」


 ベン子は、自分の手を見た。今もまだ、シズカはベン子と手を繋ぎながら歩いている。


「あの……マスター」

「なんだ」

「私の手、冷たくないですか?」

「ん? 手袋してるだろ?」


 確かに、シズカもベン子も、手袋を付けてはいる。しかし、現在の気温は手袋越しでも、時間が経過すれば外気の冷たさを感じるぐらいの寒さである。ベン子は手袋を通して、シズカの手のひらから熱を奪っているような気がしてならなかった。


「あー、いや……もう、ちゃんと前見て歩きますから。手、放していいですよ」

「そうか? 気をつけろよ」


 シズカは手を放すと、すぐにポケットに突っ込んだ。やはり冷たさを感じていたのだろうか。なぜだか少しだけ、ベン子は沈んだ気分になった。自分は、人間とは違う。でも別に、人間と同じになりたいわけじゃない。人間なんて電卓以下の存在だと、今でも思う。

 それなら――今感じた気持ちは、なんなんだろう?





 緩い登り坂を歩き続けると、やがて大きな橋に差し掛かった。橋の周辺だけ靄がかかっていて、酷く視界が悪い。こちら側は晴れ渡って空気が透き通っているのに、橋の向こう側は白いベールに覆われていて、全く先が見えない。まるで別の世界への入り口のようだ。

 先を歩くシズカを追って、ベン子は歩き続ける。坂を登り切った辺りで、シズカは足を止めた。真っ白な空気越しに、『一級河川』の看板が目に入る。ベン子も坂を上登り切ると、堤防に遮られていた視界が開けた。


「うわぁ……」


 そこにあったのは、陽光を反射して輝く川面から、湯気のような白いゆらめきが立ち昇る、幻想的な光景だった。厳冬期に気温と水温の差が大きいときに見られる現象で、『川霧』と呼ばれている。発生のメカニズムは、人間の息が白くなる理屈と同じだ。川面から立ち昇る水蒸気が急速に冷やされて水滴になり、それが人間の目には白い湯気のように見えるというわけである。

 シズカとベン子はしばし、この光景に見入っていた。川のせせらぎ以外には、何の音も聞こえなかった。


「お前の目には、この景色はどう見える?」


 シズカが問いかける。ベン子は答えようとしたが、その答えは『自分らしい』回答ではないような気がした。またシズカに笑われたくはないという思考が脳裏をよぎり、すぐに答えることはできなかった。


「あー……えっと……」


 言い淀んでいるベン子を見て小さく笑うと、橋の欄干に肘を預けて、シズカは川面に視線を戻した。


「出る前も言ったけどな、今日お前を連れ出したのは、ちょっとした実験なんだ」

「……そういえば、そんなこと言ってましたね」

「実験の主目的は、屋外でも素体が正常に稼働するかどうか、及び耐久性に問題が生じないかどうか等、データの収集をすることだったが、ついでにもう一つあってな。記憶に関する実験だ」

「記憶?」

「そうだ。人間の記憶は嗅覚と深い関りがあると言われているが、どうも私にはピンとこない。個人的な経験に照らし合わせるなら、記憶と関りが深い感覚は『寒さ』だな」


 シズカの視線は川面に向けられているが、おそらく意識は違う何かに向けられている、とベン子は感じた。


「毎年気温が下がって、雪が降って、『ああ、冬が来たな』と思うと、いろんなことを思い出すんだ。仕事で失敗したこととか、待ち合わせにすっぽかされたこととか、二度とスキーなんか行くか!と思ったこととかな」

「ロクな思い出がないですね」

「そう悪い思い出ばかりでもないさ」


 シズカはそう言うと、欄干に積もった雪で雪玉を作って、川面に投げ入れた。川面は小さな音を立てて雪玉を飲み込むと、何事もなかったかのように、下流へと流し去っていく。


「また次の冬が来たらそのときは、お前を初めて外に連れ出して、一緒にこの景色を見たことを思い出すんじゃないかな。そんな気がする」


 ――それって、


 そうベン子が言いかけたとき、シズカが先に口を開いてしまった。


「お前はどうなんだろうな。それが、記憶に関する実験の目的だ」


 言いかけた言葉を大きなため息に変えて、ベン子は誤魔化した。


「……ずいぶんと気の長い実験ですね」

「まあな」


 振り返って欄干に背を預け、空を見上げながらシズカがつぶやく。


「結局は、お前の言う通りなのかもしれんな」

「何のことですか」

「肉体なんかいらないんじゃないかって話だよ。脳の状態なんて、電気信号やら薬物でも操作できる。そうやって散歩や寒さに相当する刺激を与えてやれば、肉体を経由するよりも、記憶や精神を効率よく制御できるようになる日が来るのかもしれん」


 そう言って、シズカは少し寂しそうな笑みを浮かべた。


「魂は脳のみに宿るにあらず。肉体と、肉体あっての経験が伴って初めて、人は人たり得る。私が人間だから、そう信じていたいだけなのかもな」


 ベン子は、こんな風に自嘲するシズカを初めて見た。シズカらしくないと思った。何か言おうかと思ったが、言葉がうまく形にならない。


「らしくないことを言ってしまったな。そろそろ帰るか」


(――そうか。自分らしくなくてもいいんだ)


「あの、マスター! 私は、」


 様々なワードをパズルのように組み合わせて、今ここで言うべき言葉にしようと試みる。だけど、やはり形が合わなかったり、バラバラなままだったりで、うまくいかない。シズカがベン子を見て、ベン子の言葉を待っている。しかし、考えているうちに、自分で設定した制限時間をオーバーしてしまった。

 結局押し出されるように出力されたのは、さっき言おうとして言えずに、胸につかえていた言葉だった。


「綺麗だなって思いましたよ。この景色」


 我ながら、何の脈絡もないセリフだなとベン子は思った。シズカは一瞬キョトンとした表情をしたが、すぐにベン子に近付いてきて、荒っぽく頭をワシャワシャと撫で始める。別に悪い気分はしなかったので、されるがままにされるベン子。『子供扱いしないでくださいよ』とでも言おうと思ったが、そもそもベン子は子供時代というものを経験していないので、その返しが適切なのかどうかもよくわからない。そんなことよりも。

 シズカがなんだか嬉しそうに笑っていたので、ベン子もつられて笑ってしまった。







「はー、さむさむ! やっぱり部屋の中はあったかくて良いですね!」


 研究所に戻るなり、普段通りの明るい口調でベン子が言う。


「マスター! コタツ買いましょうコタツ! 私、コタツでゴロゴロしてみたいです!」


 コタツなんて買ったらますますダメAIになるんじゃないかこいつとシズカは思ったが、それは言わないでおいた。


「そうだな。コタツも良いかもな」

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