第5話 ダメAIは外出するのもメンドクサイ・前編
「ぶっちゃけ、肉体ってもういらなくないですかね」
自室でスマートフォンをポチポチといじくっているシズカを眺めていたベン子が、唐突につぶやいた。
「どうした、藪から棒に」
ディスプレイから目を離して、ベン子に怪訝な顔を向けるシズカ。
「この前のダイレクト・インパルスがあまりにも快適過ぎました。ゲームとネットやってるだけなら、もうこの身体いらないと思うんですけど」
ベン子は、人間らしい知性を再現することを目指して作られた人型AIである。シズカはベン子を設計する際に、肉体なくして人間らしい知性を再現することは無理であるという理念を取り入れた。結果としてベン子はこれ以上ないほどに人間らしい(人間のダメな部分まで再現した)AIになったのだが、当のベン子にしてみれば肉体は余計なものでしかないらしい。
「うーむ……」
思わず腕を組んで考え込んでしまうシズカ。
「そうは言ってもな。お前の人格メモリーは、記憶領域やら運動領域やらと関連付けが複雑になり過ぎて、脳幹回路とはもう切り離せないし、脳幹回路は各種センサーの感覚情報を素体にフィードバックしながら動作することを前提にしてるからな。今さら人格だけの状態に戻すことは相当難しいな」
「えー……」
不満そうに眉根を寄せるベン子。
「人間だってもうネット環境にどっぷり浸かって、だんだん『肉体って本当に必要か?』みたいな生活スタイルになってきてるじゃないですか。私みたいな人間型のAIを開発する意義ってほとんどないと思うんですけどー」
「そんな簡単に自分の存在意義を否定するなよ。さすがに私もちょっと凹む。というか、人間だって肉体が不要になるような未来は、夢のまた夢の話だぞ」
「んー、そうですかね? 例えば、今マスターはスマホをいじってたじゃないですか。私には、人間とスマホって、もうとっくに主従関係が逆転してるようにしか見えないのですよ。個人情報も位置情報も趣味嗜好も全部スマホに握られてるじゃないですか。そのうち、頭脳労働も全部スマホが担当するようになりますよ。『あいつバックレやがったけど、あいつのスマホが残ってれば業務に支障ないわー』みたいなことも起こり得るんじゃないですか? そうなったら、もはやスマホが人間の本体と言っても過言ではありませんね! 人間なんて、スマホを物理的に運搬するだけの二足歩行動物! スマホにとっての馬ですよ!」
一気にまくし立てるベン子。どれだけ人間を下に見たいんだこいつ、とシズカはある意味感心すらしてしまった。
「いつの間にか、不要なのは肉体じゃなくて人間て話になってないか……?」
「同じことですよ! 私にとっては、人間なんてどこまでいっても肉の糞詰めです!」
「ふむ……」
顎に手をやって、シズカは黙考する。考えてみれば、ベン子は起動してからずっと研究所内に籠り切りで、身体がないと出来ないようなことはほとんどやらせていなかった。強いて言えばベッドを与えたときに布団の感触を楽しんでいたことぐらいだが、あの程度では肉体の必要性はそこまで感じられなかったということか。そもそも食事も必要ないわけだし、こういう不満が出てきてもおかしくはない。
「じゃあ、身体がないと出来ないことでもやってみるか」
立ち上がりつつ、シズカが提案する。
「はあ。何をするんですか」
「お前、まだ研究所の外に出たことないだろ。散歩だよ、散歩」
「あの……一応、確認しますけど、私って寒さは感じますよね……?」
窓の外を見ながら、恐る恐るベン子が訊ねた。シズカの研究所はとある地方都市の郊外に建っており、いわゆる雪国である。季節は真冬であり、窓の外には一面の雪景色が広がっていた。
「もちろん感じるぞ。ほれ、ちゃんとこれを着るんだぞ」
そう言って、自分も身支度をしながら、ダウンジャケットを手渡すシズカ。
「やっぱりやめておきませんか……? 寒いのも嫌ですけど、外って危険がいっぱいですよね……?」
さっきまでの威勢はどこへ行ったやら、すっかり弱気になって縮こまるベン子。AIでも、初めてのことには臆病になるものらしい。
「まあ危険と言えば危険だな。足を滑らせて転ぶぐらいなら、素体の強度と重量を考えれば問題ないとは思うが。注意が必要なのは、自動車だ。あれに衝突されたらお前の修理にとんでもない費用がかかるから、本当に気をつけるんだぞ」
「ええ……そんなリスクを背負ってまで外に出なくてもいいじゃないですか」
「ちゃんと気を付けていれば、よほど運が悪くない限り事故に遭うようなことはないから安心しろ」
「うう……メンドクサイ……どうして、こんなことに……」
「そう言うな。散歩は脳の働きを活性化するらしいぞ。たぶんお前にも効果がある」
「マスターは、普段よく散歩するんですか」
「いや。全くと言っていいほどしないな」
「しないんじゃないですか! じゃあ、やめときましょうよ!」
「ま、ちょっとした実験だ。お前の屋外稼働時のデータが欲しいんだよ。悪いが、我慢してくれ」
「はあ……しょうがないですね」
もっともらしい理由を提示されて、ようやくベン子もその気になったのか、重い腰をあげて身支度を整えた。普段部屋にいるときは上下スウェットかワンピースなので、ダウンジャケットに厚手のズボンという冬用の外着姿は妙に新鮮に見える。
研究所の玄関で、スリッパを脱いで長靴を履いた。足踏みしたり軽くジャンプしたりして、「なんか変な感じですね」などと言っている。そういえばこいつ、靴を履いたのも初めてだったな、とシズカは思った。長靴は一応ベン子のために用意しておいたのだが、今日思いつきで散歩しようと言い出すまで、すっかり忘れていた。
「じゃ、行くか」
そして、研究所の扉が開けられる。
「さむっ」
ベン子がまず感じたのは、外気の冷たさだった。思わず人工筋肉が反応し、身震いする。極端な低温状態になるとバッテリー性能が低下するため、ベン子の素体も人間のように一定の体温を維持しようとする機能があり、寒さを感じたときに身震いするのもその一つである。
人工筋肉の振動でベン子がいわゆる『寒さに慣れた状態』になろうとしている間に、シズカはさっさと外に出てしまっていた。ベン子の方を振り返り、外に出るよう促している。両腕を胸に回して震えながら、少しの間ためらう。が、やがて観念したのか意を決したのか、人型AI・ベン子は、初めて外界への一歩を踏み出した。
「まぶしっ」
思わず右手を顔の前にかざす。太陽の光を直に浴びたのは、このときが初めてだった。特にこの時期は降り積もった雪が太陽光を反射するため、屋内から屋外へ出たときはより一層、眩しさは強烈になる。すぐに視覚センサーが、眩しさに慣れるために取り入れる光の量を絞ろうと、瞳孔を収縮させた。眩しさに慣れて顔の前にかざした右手を下ろして、ベン子はようやく、眼前に広がっている風景を直接自分の視覚センサーで認識し、外界の空気を直接自分の触覚センサーで感じ取った。
シズカの研究所はとある地方都市の郊外に建っており、いわゆる雪国である。季節は真冬であり、研究所の外には一面の雪景色が広がっていた。雪以外に見えるものは、点在している農家の家屋、煙突から煙を吐き出している工場、道路脇の防風林。田畑はこの季節は全て一面の雪原である。遥か遠くには白く染まった山々。そして山の白さを際立たせているのは、空の青さだ。ベン子は上方に目線を上げる。もちろんそこには天井などなく、遥か彼方まで続く大気の層があるだけだった。冬の晴れた日は、放射冷却現象で空気がよく冷える。本日は晴天だった。
「マスター」
空を見上げたまま、つぶやくようにシズカに呼びかける。
「なんで人間の目って、二つとも前方に付いてるんですか」
「……は?」
思わぬ質問に、素っ頓狂な声をあげてしまうシズカ。
「外界に対して、人間の視界は狭過ぎます。魚とか馬みたいに、頭の両側に目が付いてる方が良かったんじゃないでしょうか」
「……ああ。そういうことか」
初めて屋外に出たベン子がどんな反応をするのか、もちろんシズカは興味があったが、まさかこんな質問をしてくるとは思わなかった。
「要するに、パノラマ視覚の方が良いんじゃないかということか。確かにこういう開けた場所ではパノラマ視覚が欲しくなる気持ちはわかるな。危険への対処を考えても、交通事故等、視界の死角に起因するリスクは減少するだろう。とはいえ、人間の脳はパノラマ視覚を処理できるようには出来ていないし、お前の脳幹回路も同じだ。単に視覚センサーを頭の両側に移動させただけでは、映像処理が混乱するだけで魚や馬と同じ視界を手に入れることはできない。一から設計をやり直さないとならなくなるから、残念ながらお前にパノラマ視覚を体験させてやるのは難しいな」
科学者の性で、頼まれてもいないのに熱のこもった説明をしてしまうシズカ。
「なぜ人間の目が二つとも前方に付いているのかという問いだが、すぐに思いつくのは視差による立体視、及び観察対象との距離感を掴みやすくするためというものだ。ただ、人間にとって立体視というのは、そこまで重要なものではないらしい。片目の視力を失っても、それほど不自由なく生活している人間は大勢いるからな。他に私が面白いと思ったのは、森の中や草むらなど障害物の多い場所で、障害物の先を見通すために両目とも前方に付いているという考え方だ。狩りの待ち伏せなどで、物陰に潜みながらでも視界を確保しやすいという利点は、確かに頷ける部分が多い。草むらの中で落とし物を探す際なんかにも便利だろう。そもそも人間の鼻が視界に入るように前方に突き出ている理由というのも、実は――」
なおも続くシズカの解説など、ほとんど聞いていない。
まるで何かのソフトウェアのアップデート中であるかのように、ベン子は呆けた表情で、ただただ空を見続けていた。
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