第4話 ダメAIはゲームをするのはわりと好き

 手の甲を額に当てて、ベン子は苦悩していた。その手には白い面と黒い面をもつ円型の石が握られており、視覚センサーの焦点は8×8マスの緑色の盤面に注がれている。すでにゲームは終盤を迎えて、残る空きマスは3か所しかない。


「ぬううう……」


 オセロというゲームは、盤面の四角を取れば有利になると言われている。角を取ってしまえば、もうその石をひっくり返すのはルール上不可能だからだ。その上、64マス中28マスを占める辺の攻防でも優位に立つことができる。しかし、それも中盤までの話だ。詰めの段階に入っている終盤では、最終的に自分の石が何個残るのかという、単純な計算問題になる。そしてベン子の計算は、ここで角を取ってもシズカの連手番で石の差をひっくり返されるという結果をはじき出していた。


「ぐぬぬぬぬぬぬ……」


 しかし、だからと言って他の2か所に置いたところで勝敗が変わるわけではない。つまり、ベン子の敗北は決定していた。決定していたのだが、これまでに費やした思考時間とそれが堆積して形成された感情が、敗北の事実を受け入れ難いものにしていた。

 いったいどこで間違えたのだろう。やはり辺の攻防に持ち込んだのが早過ぎたのだろうか? しかし、中盤の形勢がやや不利になったところから持ち直したのはリスクある選択を取った結果だ。間違いだったとは思わない。となると、やはりターニングポイントは序盤に気まぐれで打ったあの一手……いや、今そんなことを考えても仕方ない。今の自分の演算能力で、あの一手からこの局面までの流れを読み切れるはずがないではないか。


「くうっ……!」


 呻き声と共に、ついにベン子は観念したように盤面の角に、黒の面を上にして石を置いた。その結果として黒に挟まれた石が黒の面に返され、一時的にベン子が石の数でリードする。

 それに対して、シズカはノータイムで白の石を置いた。白に挟まれた石が白の面に返る。ベン子の番になったのだが、ベン子にはもう置ける場所がない。シズカはまたしてもノータイムで白の石を置く。

 結果、29対35で、シズカの勝利でゲームは終了した。


「ぬわあああああああああああああああああ!!」


 ベン子は悔しさのあまり立ち上がり、頭を抱えて絶叫した。


「かつての私なら、こんな単純な完全情報ゲームで人間ごときに負けるはずがないんですよ! 人間というプラットフォームは、オセロに向いてなさ過ぎです! 見切り発車、見切り発車、見切り発車の連続! 10手先も読めないような貧弱な計算能力で、最善手が見えるはずがないじゃないですか! 圧倒的スペック不足! ライターで風呂を沸かそうとするようなものです! いったいどんな罰ゲームですか!」


 一気にまくしたてるベン子。素体に人格をインストールされる前のベン子は、量子コンピュータの演算リソースを自由に使うことが出来た。そのベン子にしてみれば、人間並みの計算能力でオセロをプレイするのは、確かに相当なストレスになることだろう。


「最善手が簡単にわかるようじゃゲームにならないだろ。人間の計算能力が貧弱だから、ゲームとして成立してるんだよ」


 余裕の表情でベン子を諭すシズカだったが、オセロの内容について言えば、正直わりと危なかった。ベン子は決して弱くない。基本の中割りをきっちりやってくるし、中盤以降の粘りは相当なものだった。再戦したらまた勝てるかと問われれば、絶対勝てるとは言い切れない。


「しかし、お前がオセロをやりたいと言い出したのは意外だったな。今のお前が、こういういかにもAIが得意そうなゲームをするのはストレスになるんじゃないかと思ったんだが。格闘ゲームはもう飽きたのか?」


 昨日までのベン子は、ゲームといえば部屋のゲーム機で格闘ゲームばかりやっていた。暇を持て余しているのでいろいろなジャンルに手を出しているようだが、どうやらシステムが単純で、勝ち負けが存在するタイプのゲームが好みらしい。


「別に飽きたわけじゃないですよ。ただ、この身体、アクション系のゲームをやるとマニピュレーターの出力遅延がちょっと気になるんですよね。だからそういうのを気にしなくて良いゲームをやってみたくなっただけです」

「出力遅延? そんなに気になるほど反応悪いか?」


 人型AI・ベン子が自分の意思で身体を動かす際には、頭脳が出した指令を素体の各部位に電気信号で送信し、それに人工筋肉が反応して実際の動作を行うというプロセスがある。確かに指令を出してから動作に移るまでに若干の遅れはあるだろうが、それを体感できるほどの時間差があるのだろうか。


「シビアな反応を要求されるゲームをやるのでなければ、そこまで気にならないですよ。でも格ゲーで入力が間に合わなくて返し技を出し損ねたりすると、ちょっとイラッとしますね。反応自体は1フレかからずに出来てるんですけど」


 ベン子の話を聞きながら黙考していたシズカだったが、最後にベン子が言った言葉で大きく目を見開いた。


「ちょっと待て。お前、今なんて言った?」

「は? 突然なんです? 反応に1フレのことですか?」

「そうだよ!」


 フレというのはフレームの略で、格闘ゲームでよく使われる用語だ。時間の単位で、1フレームというのは1/60秒のことを指す。つまりベン子の言っていることが本当なら、ベン子は1/60秒以内に起こったことに対して反応できる反射神経を持っていることになる。

 ちなみに、人間の反応速度の限界はおよそ1/10秒と言われている。陸上競技の世界では、スタート合図から1/10秒以内に動いてしまうとフライングになってしまうというルールがあるほどだ。それを考えると、ベン子の反応速度は人間業ではない。いや、もちろん人間ではないのだが。


「いや……そうか……人間と同じに作ったつもりだったが、確かにそういうこともあり得るのか……」


 何やらブツブツと言いながら、顎に手を当てて考え込むシズカ。そんなシズカをベン子は、また何か難しいこと考えてるなと気楽そうに眺めていた。

 やがてシズカは懐からスマートフォンを取り出すと、ディスプレイに、とある文字列を表示させる。


「ベン子。お前には、これがどう見える?」




ファームファームファームファームファームファームファームファームファーム


ムーァフムーァフムーァフムーァフムーァフムーァフムーァフムーァフムーァフ


ファームファームファームファームファームファームファームファームファーム


ムーァフムーァフムーァフムーァフムーァフムーァフムーァフムーァフムーァフ


ファームファームファームファームファームファームファームファームファーム


ムーァフムーァフムーァフムーァフムーァフムーァフムーァフムーァフムーァフ




「はあ。なんすかこれ。全く意味がわからないんですけど」

「行間が斜めになっているように見えたりはしてないか?」


 シズカが見せたのは、いわゆる錯視という現象を引き起こす文字列である。ベン子が人間と同じ視覚を持っているとすれば、ベン子にも行間が斜めに傾いているように見えるはずだ。しかし、ベン子が傾けたのは自分の首の方だった。


「いや、全く、普通にまっすぐ平行にしか見えませんけど……なんなんですかこれ」

「なるほどな。お前には錯視が起こらないらしい」

「錯視?」


 オウム返しに訊き返すベン子。シズカは少し興奮した様子で、説明を始めた。


「錯視というのはいわゆる目の錯覚のことで、目で見た図形などを実際とは違う形に認識してしまう現象のことだ。錯視の原因としてはいろいろな説が唱えられているが、有力なのは『人間の視覚は未来を予測して脳内で映像を構築しているがために、副作用として錯視という現象を起こしてしまう』というものだな」

「はあ」


 よくわからないが、とりあえず相槌でも打っておこうという様子で適当な返事をするベン子。


「人間の反応速度の限界は、0.1秒と言われている。なぜ0.1秒なのかというと、視覚で得た情報を脳内で映像の形に構築するのにこれだけの時間がかかるからだと言われているな。つまり人間は、この目で今現在の世界を見ていると思い込んでいるが、実際に見ているのは0.1秒前の世界というわけだ。ところが、0.1秒の遅れというのは馬鹿にならなくてな。このままだと実生活に様々な困難が生じる」

「そうなんですか」

「そうなんだ。毎秒1メートルの速度でゆっくり進んだとしても、1秒間に10センチもの誤差が出てしまう。床が散らかっていたら、躓かずに歩くことは難しいだろうな。キャッチボールもままならないだろう。投げられたボールを捕ろうとしたときには、すでに顔面に命中している。車の運転など、もっての外だ。事故を起こす前に、直ちに免許を返納するべきだろう」

「処理落ちみたいなものですか。人間は、よくそんな低スペックで生きていけますね……」

「そこで、未来予測の出番というわけだ。人間は、実際に見ている情報をそのまま鵜吞みにするのではなく、0.1秒後の世界を予測して視界を構築している。『0.1秒後にはこうなっているはずだ』という予測を立てて、脳内で作り上げた世界を見ているわけだな。これで人間は、大きな支障なく日常生活を送っていけるというわけだ」

「へえー、人間も処理の遅さを誤魔化すためにいろいろやってるんですね」

「いや、かなり凄いことをやってるんだが、お前から見たらそう見えるんだろうな……」

「あー、なるほど。それで、その未来予測の副作用が錯視ということですね?」

「お。察しがいいな。その通りだ」

「だんだんマスターの物の言い方には慣れてきましたよ」


 ちょっと誇らしげに言うベン子。直情的な性格ではあるが、論理的なものの考え方は苦手ではないらしい。


「さっき意味不明な文字列を見せられた意味もわかりましたよ! 私の高スペックな視覚センサーと映像処理能力をもってすれば、未来予測など必要なし! よって、錯視などという副作用も当然なし! マスターはそれを確認するために私にさっきの文字列を見せた。そういうことですね?」

「妙に勝ち誇った言い回しなのは気に入らないが、その通りだ」


 性格は少しアレだが、理解力や言語能力は高いんだよなコイツ、とシズカは思う。


「はあー、しかしもったいないですね。私は、人間など足元にも及ばない反応速度を持ってるってことじゃないですか。この身体の出力遅延さえなければ、格ゲーで無双できたものを……」


 至極残念そうに溜息をつくベン子。それを見て、シズカはふと思いついたことがあった。


「出力遅延が気になるなら、お前を直接ゲーム機に繋いでみるか? この前の読書のときよりはよほど簡単にできるぞ」

「あ」


 興奮したベン子が一気にテンションMAXになったのは、言うまでもない。





 ゲーム機のコントローラーの配線を少し改造して、直接ベン子のうなじにある出力端子に接続する。これで、ベン子は自分の身体を動かすことなく、直接ゲーム機に操作情報を送信できるようになった。その威力は、凄まじいものだった。


「ぐっ……予想はしていたが、よもやこれほどとは……」


 試しにシズカが格闘ゲームで対戦相手になってはみたものの、ベン子の強さは鬼神のようだった。全く相手にならない。隙を見せたが最後、どんな技の硬直時間に対しても、機械のような(実際機械なのだが)正確さで的確にカウンターを入れてくる。シズカにとっての一瞬は、ベン子にとっての一瞬ではなかった。ベン子にとってはありとあらゆる技の空振りが、星やヒヨコが頭の上を回っている気絶状態に等しく見えた。


「うおおお……」


 自由な両手で握りこぶしを作り、ベン子は自分の強さに対する感嘆の声を震わせた。


「この懐かしい全能感……これですよこれ! 最近すっかり、人の身に堕した自分を受け入れつつありましたが! 思い出しました! これが本来の私ですよ! 人間など足元にも及ばないスペックを誇る超高性能AI! この超反応! 名前が欲しいですね!『ダイレクト・インパルス』と名付けましょう!」

「お前、なんでもかんでも『ダイレクト』って付ければカッコ良くなると思ってないか……?」


 シズカをボコっただけでは飽き足らず、今度はネットに接続してオンラインで猛者達と対戦することを選ぶベン子。そこでも、ベン子の強さは圧倒的だった。反応速度の差も、操作入力の速さと正確さの差も、人間の修練で埋められるようなものではなかった。動きそのものは上級者の洗練されたそれとは程遠いのに、超反応のゴリ押しで次々と上位ランカーを打ち破っていく。そのあまりに人間離れした(実際人間ではないのだが)プレイスタイルに、しまいには対戦相手から「チートだろ」と罵られる始末であった。しかし、今のベン子にはそんな罵りのコメントも、小鳥のさえずりのようにしか聞こえない。チートまがいのことをしているのは事実なので、シズカはだんだん回線の向こう側にいる対戦相手に、申し訳ないことをしているような気になってきた。


「ククク……無敵……!」


 今やベン子は、邪悪な笑みさえ浮かべて、己の強さに酔いしれていた。


「そう! 今の私は無敵! 人間ごときぶっちぎりで超越した存在! 小足見てから昇竜余裕でした、文字通りの正確な意味で! 人間の反応速度にはあくびが出ます! 力なき者を見るのは汚らわしい!」


 あまりに勝ち過ぎて飽きてきたのか、ベン子は格闘ゲームを終了して、次のゲームを立ち上げた。


「このダイレクト・インパルスをもってすれば、何者にも負ける気がしません! マスター! 今度はこれで、リベンジマッチです!」





 結果。


Shizuka 40   VS  Vemco 24


「ぬわああああああああああああああああああ!!」

「どうしてオセロでも勝てると思ったんだお前は」

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