第十三話 RE:SPAWN

 ―――という夢を見たんだ。


 いや、詳しい内容は思い出せないのだけど。とにかく夢を見た。それも一等ひどい悪夢の類。イメージ的にはあれですよ、高い所から落ちたりとか、殺人鬼に追い駆け回されたりとか、巨大な蜘蛛に頭からバリバリとかじられるやつに近い感じ。


 端的に言って凄くホラー。

 身の毛もよだつ恐怖体験。


 そんなものとは一刻も早くオサラバしたい訳ですが、しかし生憎と僕の体は金縛りの真っ最中。指一本どころか、まぶたすら自由にできない状態だ。その有り様は俎板まないたの上の鯉さながらといった所だろう。

 なんだか肉体から精神だけ抜け落ちているような心地。

 滅多に味わえない新鮮な体験のような気がするし、その一方で懐古感を催したりもする。とても不思議な状態だった。


 でもそんなものに浸ってる場合じゃない気がするんだ。

 早く起きよう、僕。たぶんだけど、あと五分とか、そんな暢気なこと言ってられる状況じゃない。金縛りで体が動かないっていうか――さっきから心肺まで止まってて、呼吸すらできてないんですけど!


 ……などと、僕が人知れず窮地に陥っているところで。


 不意に――傍らから、童歌を思わせる柔らかな言霊が耳に届いた。


「―――ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ、ななつ、やっつ、ここのつ、とぉーう――と、なりいたれりや。

 ふるべ――ゆらゆらと――ふるべ―――――」


 瞬間、目が覚めた。


 思わず体が仰け反って跳ね起きてしまう。そして勢いのまま、僕の体は寝床から転がり落ちてしまった。実に無様である。


「は――あ……?」


 胸が荒く上下する。

 止まっていた呼吸が再開しているのを確認し、僕はゆっくりと溜息を吐いた。

 胸に手を当てると、冷たい肉の下から鼓動が伝わってくる。どくどくと全身を巡る血液の感触が心地良い。身体が内側から解凍されていくのが分かった。


 生き返った。


 もちろん比喩ひゆだ。僕は産まれてこの方、一度だって死んだことはないのだ。だからこうして生きている。

 努めて肺の中の空気を新鮮なものと入れ替えつつ、僕は空を見上げた。


 視界に在るのは夜空だ。


 これでもかというほど星が散りばめられた暗幕の天。そして夏らしく青々と茂った桜の木の枝葉が映る。ともすれば僕が寝転げているのは屋外に思えるかもしれないが、その実ここは千葉県赤牟アーカム市の片隅にひっそりと佇む、とある建物の中なのであった。


 ここは天文台に設えられたプラネタリウム・ルームだ。

 古くなって廃棄される予定だった施設をとある道楽者が買い取り、探偵事務所として運営しているのである。


 その名も酒呑霊能探偵事務所。


 僕自身が所員でさえなければ、腹を抱えて爆笑したくなる看板だった。


 しかもこのプラネタリウムは24時間・365日、一切の休みなく放映されており、その上どうやって持ち込んだのか桜の樹まで植えられている。……風情があるのは確かだし僕も嫌いじゃない光景なのだが、まるで中世の御伽噺おとぎばなしから抜き出したようなアナクロさは不気味でもあった。

 冷房が効いた空間は、墓場みたいに冷めている。

 夏であるにも関わらず、呼気がもやのように白く凍る。しかし別段、寒いとは思わなかった。


 何故なら。

 物理的な冷気よりも、もっと身を凍らせる存在が身近にいるのだから―――


「―――ああ、起きはった? 名無し君?」


 頭上から聞こえてくる中性的な声音。


 碧い枝葉の隙間から、黒い影が延びている。それは巨大な蜘蛛の形をしていた。胴体を起点に、放射状に生えた八本の脚。その内の一本が――ざわりと揺れる木陰をって、こちらへと差し伸ばされる。

 斯くして表れたのは、細くたおやかな人の腕だった。


 ……これはこれでホラーだが、今となっては見慣れた光景である。


「おはようございます、所長。すみません、ちょっと寝てたみたいです」

「おはようさん、名無し君。わざわざ言わへんでも分かっとるよ。ずーぅっとここで見物させて貰ってはったからねぇ。さて――ほなら、起き抜けに悪いんやけど、新しいアイスクリームを持ってきてくれはるやろか? 手持ちがもう、なくなってしもうてね。リハビリにも丁度ええし、お願いできる?」


 そう言って、腕は桜の樹の根元を指す。そこには大型のクーラーボックスが置いてあった。

 中にはアイスクリームの容器や包装が大量に積み上げられている。その全てが空のようだ。


 リハビリ、というのはちょっとよく分からないが。まあ、こいつはよく分からないことを言ったり、妙に難しい言い回しで人を煙に巻く癖があるのだ。一々真面目に取り合うのも面倒だし、あまり気にしない方向で行こう。

 僕は溜息交じりに立ち上がって、クーラーボックスの持ち紐を肩にかける。


「なにか注文あります?」

「そうやねぇ……折角やし、今日はカキ氷がええなぁ。小豆を乗せて、抹茶のシロップをぎょうさん垂らして、宇治金時にしてくれはる?」


 なにが折角なのかはまったく分からないが。


「りょーかーい」と適当に答えて、プラネタリウム・ルームこと事務所を横断する。


 丸いドーム状の、偽物の夜空の下を歩く。

 プラネタリウムの上映中は原則として移動厳禁だが、今となってはそんな規則も存在しない。それでもなんとなく具合が悪いので、足早に出口へ向かった。


 観音開きの扉を開けると、一気に夏の熱気が押し寄せてくる。


 この天文台で空調が機能しているのは事務所だけだ。なので一歩外を出れば即座に外気とのギャップに苛まれることになる。「夏季の寒暖差たるやサハラ砂漠の昼夜並み」とは我が探偵事務所の紅一点、アルバイトのナルコちゃんの弁だったか。

 その上電灯も着いていないときている。

 明かりは窓から差し込む太陽光頼みで、夜間の移動時には懐中電灯が必須だ。どうしてそんな面倒な仕様になっているのかといえば、偏にオーナーの趣味である。


 嫌がらせかな。

 嫌がらせだな。


 天文台を買い付ける財力もさることながら、ろくに働いている様子もないのに日々の生活費に困窮している所を見たことがない。察するに相当な量の財産を蓄えているのだろう。にも関わらず給料の払いが悪い辺り、嫌がらせに違いない。


 今は昼であるらしく、窓から陽光が差し込んでいる。


 薄暗い廊下を歩き、食堂に入り込む。

 元々は天文台の職員や観光客用にあつらえられたもので、かなり広く立派な代物だ。これを二人だけで占有するのはちょっと気後れしてしまう。ほら、管理とか面倒だし。

 アイスクリームの残骸をごみ箱に捨て、僕は業務用の巨大な冷凍庫を開いた。

 中は沢山の氷菓子でびっしりと埋め尽くされている。その種類はアイスクリームにシャーベット、市販のものから自家製のものまで様々だ。偏に酒呑の嗜好である。基本的に、あいつは酒とアイスクリーム以外の食物を口にしないのだ。


 丸く成型されたロックアイスを手に取り、台所にある業務用のカキ氷機に投入していく。十分な量に達したと判断した所で機械の下にガラス製の容器を置き、いざスイッチ・オン。


 ゴリゴリゴリと豪快な音を立てて氷が掘削され、小さな欠片になって容器の上に貯まっていく。

 全ての氷を削り終えた所で更に盛られた氷の一部を掌で丸く圧縮し、雪だるま型に成型。顔と髪に見立てて、冷蔵庫から取り出した小豆を埋め込み、とどめに緑色のシロップをぶっかけた。

 安っぽい抹茶の匂いが漂う。

 大量の保冷剤と出来上がったカキ氷をクーラーボックスに移し、そのまま事務所へとんぼ返りする。


 改めて――よくよく見てみれば、それは奇怪な空間だった。


 ぐるりと周囲を囲む観客席。

 広大な丸い空間の中央には、プラネタリウムを上映するための巨大な投影機がある。その手前には件の桜の樹があった。当然、その根は土に埋まっている。結界のように丸く区切る形で、円形の石囲いが固い床との間に境を築いていた。

 そして更にその手前に、探偵事務所らしく応接用のソファーとテーブルが設置されている。


「ただいま戻りましたよ、っと」


 肩に掛けていたクーラーボックスを下ろし、中からカキ氷を取り出す。そして応接用のテーブルに置いた。

 ややあって、するすると衣擦れに似た音が耳朶じだに届く。

 桜の樹に茂る枝葉の隙間から、八本脚の黒い影が降りてくる。


 果たしてそれは、人のカタチをしていた。


 齢は十四かそこらだろうか。

 小柄な身体に、黒いズボンと海兵セーラー服の上着をまとっている。そして肩には金箔と、白と黒の刺繍が施された豪奢な蒼い小袖を羽織っていた。和洋折衷の装い。その手には血を零したように紅い漆塗りの盃と、反対の手には瑠璃細工の青い瓢箪ひょうたんがぶら提げられている。

 胸には八本の柄が生えた、奇妙な形の剣を抱えていた。

 腰まで伸びる楚々とした黒い頭髪は艶やかで、くしけずった絹を思わせる。

 長い睫毛に縁取られた大きな瞳は、深海のような暗い蒼を湛えていた。


 その顔立ちは、ぞっとするほどに美しい。


 世には『傾国の美女』という形容があるが、これこそがそうなのだろうと思う。まさに魔性、実に可憐だ。どんな性癖を持った男であれ、この貌の前では一撃でノックアウトされることだろう。

 しかし気を付けろ、こいつは鬼だ。しかも男だ。一目見て即正気度SAN値を喪失した僕が言うんだから間違いない。


 我等が酒呑霊能探偵事務所の主――酒呑あとら。


 細い糸が寄り集まった蜘蛛の巣状のハンモックにだらしなく身を横たえた姿で、奴は甘く囁く。色素の薄い唇が艶やかな弧を描いた。


「ああ、おおきに、名無し君」


 大仰に言って、シュテンは机上のカキ氷に手を伸ばした。

 器を手に取り、添えられた匙を使って氷の山を崩す。そして碧く色付いたカキ氷を口に運んだ。


「は~ぁ、甘露甘露。労働の後はこれに限るわぁ。ほんに称賛に値しはる美味しさやねぇ。……ふふ、どーぅ? 名無し君も一口、いかが?」


 零れ落ちそうな頬に手を添えて、シュテンが微笑む。それに対し、僕は「すみません、いりません」と即答した。

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