一番大切な人
ふと気づくと、見覚えのある場所にいる。
そこは、決して大きいとは言えない一軒家だった。
木造の造りの所々に痛みもみられ、建てられてから長い年月が経過していることがわかる。
最低限暮らしていくのに必要なものが揃ってはいたが、決して裕福な暮らしとはいえない。
だが、そんなことは全く気にならないくらい私にとって大切な場所だった。
突然、家の扉がバンという音とともに開かれる。
「かあさまかあさまかあさま!」
バタバタと声を上げながら家の中に入ってくる少女。
その少女は、一目散といった様子で台所へ向かう。
そこには私が大好きだった人が立っている。
ちょうどその人の片脚にしがみついた少女は、にかっとした笑顔を浮かべて、その人を見上げた。
その人は少し困った表情を浮かべて、それに答える。
「そう何度も言わなくてよろしい。さすがに聴こえてるわよ。あー、そ、れ、よ、りー。帰ってきたらまず何をするんだっけ?」
少し凛とした声。
私はこの声が大好きだった。
「手洗いでしょ!もちろん知ってるよ!でも待って!違うの違うの!あのね、あのね!」
「落ち着いて話しなさい。なあに?」
「お腹減った!」
「なぬっ!!」
全身で驚きを表現するその人。
そう。
いつもこんなふうに大袈裟なくらい笑ったり、怒ったり、泣いたり、驚いたり…。
そんな姿を見るのも大好きだった。
「えっはやくない?!さっきお昼ごはん食べて颯爽と出かけていったのは誰よ?!あれは幻だというのっ?!」
「そうだっけ?」
「我が娘ながら、末恐ろしいわね…」
「えへへー」
そう。よくこんなふうにかあさまにおねだりしていたっけ。
こんな時はいつも、なんだかんだ言いながら美味しいものを用意してくれたものだった。
そんな事を思い出していると、いつの間にか場面が変わっていく。
辺りは暗くなって、夜。
二人は布団に入っており、寝る前の一時といったところのようだ。
「かあさまかあさま」
「なあに?」
「なにかお話して」
「それ聴いたら大人しく寝るって約束できる?」
「えー。はーい」
幼い私は、渋々といった様子で答える。
「そうね、そしたら丁度いいかな」
「ちょうどいいって?」
「ふふふ。ミラは好きなことってある?」
かあさまは幼い私の頭を撫でながら、優しく微笑んでいる。
「えっとね、ミラはかあさまが好き!あと、かあさまが作ってくれる美味しいご飯を食べることが好き!…うーんとね、あと、かあさまが好き!」
「あらあら、ありがと。かあさまもミラのこと、だいだいだーいすきよ。
それに、ミラは食べることも本当に好きなのね」
「うん!えへへー」
「…ミラ」
幼い私の名を呼ぶかあさまの顔は、それまでと違って憂いを帯びたものに変わったように見えた。
「生きているってことはね。楽しいことだけじゃなくって、つらくて泣きたくなることだっていっぱいあるの」
「ミラ、それ嫌ー」
「私だって嫌よ。でもね、そういう時はいつか必ずやってくるものなの。大人だって目に見えなくても、心の中で泣いてることもあるのよ。
だからもし、つらくって、つらくって、どうしようもなくなった時、ミラはどうする?」
「…うーん、わかんない」
「じゃあ、私との大事なお約束。そんな時は嫌なことから逃げちゃいなさい。それでミラの大好きな美味しいものをたくさん食べるの」
「美味しいもの?」
「そう。もう、お腹いっぱいでなにも考えられなーいってくらいね」
「それ楽しそう!」
「そうよ。もう楽しすぎて嫌な事なんか全部忘れちゃうんだから」
「わかった!えへへー」
「…そうね。もしそれでたくさん食べて元気になって、もう一回嫌なことに立ち向かおうって思えたなら…その時はかあさまが全力で応援してあげるわ」
そういってかあさまは、幼い私の額にキスをした。
そうだ。
なんでこんな大事なことを忘れていたんだろう。
…しかし、今更だ。
かあさま私、もうどうしようもないところまで来ちゃった。
言いつけも守れなくて、ごめんね。
先程まで見ていたかつての幸せな日常も、いつの間にか消え失せていた。
でも、最後の最後に一番大事な人に会えて、本当に良かったな。
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