かあさま


私は、辺り一面が真っ暗な空間を一人歩いていた。


ここには寒さも暑さも匂いも、何もない。


きっとこれから向かう所は、そういう所なんだろうと自然に理解する。


ということは、この真っ暗闇の道を抜けた先に、きっとかあさまが待っている。


そう頭によぎった瞬間、私は一目散に走り出す。


急がなきゃ。


ああ、かあさま。

今すぐそっちにいくから待っていて。


「…ミラ」


突然、耳元に届いた声。

その声が誰のものかなど間違うはずがない。


「かあさま?」


その声に驚いて、私は咄嗟に身体を止める。


しかし、一番会いたいその人の姿は、どこを見渡しても見当たらない。


「…本当にまあ大きくなって。私に似て美人になりそうでなによりだわ。ふふふっ」


そんな軽口はどこか懐かしくもあった。


間違いない。

かあさまだ。

私の大好きなかあさま。


そう思い至った瞬間、私は身体の力がふっと抜けてしまう。

そして、思わずその場に膝をついていた。


「かあさま!お願いだから姿を見せて!」


何かにすがるように真っ暗闇の中で声を上げる。


そして、それを皮切りにしたように、自分の中であらゆる感情が溢れてくるのを抑えきれずにいた。


「…もう、こんなつらいのは嫌。私、色んなこと必死に我慢したんだよ?でも、それでも嫌なことが波のように押し寄せてきて…。そんな時も、いつも私は一人きりなの…」


私は顔を下に向け、そんなことを呟く。

自分の手の甲に涙がポタポタと垂れているのを、他人事のように感じていた。


「…ミラ」


突然、頭の上に感じる温かいぬくもり。


忘れるはずもない。

そうやっていつも私の頭を大事そうに撫でてくれていた、かあさま。


私は驚きで顔をあげる。


そこには、私の大好きなかあさまが微笑んでいた。


「あなたはもう一人きりじゃないわ」


「いっぱいつらいことがあった後には、いっぱい幸せが待っているものなの。だから、これからはたくさん幸せになってね」


「大丈夫。かあさまがミラを一番近くで見守っているんだから」


そうやって私を強く強く抱き締める、かあさま。


不思議だった。


言いたい言葉も山ほどあったはずなのに。


それなのに私は、安心してしまって何も言えない。


そして、その一瞬が永遠に変わって欲しいという願いをよそに、再び意識を失ってしまった私だった。



ーー



意識を取り戻した私が、まず最初に感じたのは口の中が潤っている感覚だった。

どうやら私は誰かに生かされているらしい。


まだ目を開けたり身体を動かす事は到底できそうにないが、全身が鉛になったように重くなっている感覚はある。

その事で確かに自分が生きて存在していることを認識する。


…また、死にそびれちゃったな。


そんな事を考えていると、顔の右頬あたりにポタッと水滴が垂れてきた。


「…絶対に死なせないなんて、なにを偉そうなことを言ってんだろうな」


その後も、私の顔に次々と水滴が落ちてきていた。

ふと、その声の主には心当たりがあることを思い出す。


「全然、起きる気配もないじゃないか…。こんなんでほんとに助かるのかよ…。くそっ、もっと医療の知識でもなんでも入れときゃ良かった…」


その声色からは悲痛な感情が読み取れ、自分への苛立ちのようなものをこの男が抱いているのが分かった。


男は少し間を開けるようにして、静かに語りだした。


「…俺さ、ほんとにダメな人間で、人生で何一つまともにやり遂げたことってないんだ。いつも中途半端で、勉強だって、運動だって、何事もそうだった」


「でも、最近ようやく夢中になれることができてさ。それだけは続けて行こうって思ってた矢先、こんなことになって…まあ、正直ショックだった」


何を話しているのか内容が理解できない部分もあったが、とにかくこの男が打ちのめされているということだけは理解ができた。


「はは、人生ってほんと何があるかわかったもんじゃない。参っちゃうよな。たぶん、君も相当色々あってこんなことになってるんだと思うし…」


「…だけど、もったいない。やっぱりもったいないと思う。たしかに人生って、つらくて悲しくて、苦しいことって沢山ある」


私は、ようやく開けるようになってきた瞳を少しづつ開いていく。


「でも、楽しいことだって沢山ある。嫌な事なんか逃げられるなら逃げてもいい。そんな時は美味しいものでも沢山食べて、一度忘れちゃえばいいんだ。

…それでその先、もう一回嫌なことに立ち向かえる時が、きっとくるから」


視界が定まった先には、涙と鼻水でぐちゃぐちゃの男の顔があった。


その表情は精一杯の笑顔を浮かべようと必死のようだった。

それを見た私は、思わず言葉が出てしまう。


「……たい」


まだ満足に口を動かせない。

かすかな私の呟きに、その男は驚いた表情を見せる。


「意識が!な、なんだ?!何か言いたいことがあるのか!?」


もう一度言葉を振り絞るように、繰り返す。


「おいし……たい」


「美味しい…もの?食べたいって事か?」


私は、顔をコクリと少し頷くようにする。

それが今できる精一杯だった。


「…ああ、絶対に美味しいもの食べさせてやるから。約束だ」


それを聴いて安心したのか、私は再び意識を失ってしまったのだった。


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