五.御城下の戦い(2)
***
「泰四郎さん……!」
境内に上ってすぐ、声変わりをして間もない少年の声がした。
秋も近しとはいえ、境内の緑はまだ匂い立つような瑞々しさを湛えている。
暁の曙光は次第に強まり、境内を明々と照らし出していた。
朝を迎えたばかりの約束の地には、疎らながらも樽井隊の生存者の姿がある。
境内の奥まったところに木造ながらに堅牢な本堂が鎮座している。
泰四郎はその階に腰を下ろして項垂れる人物に目を留めると、ふと泣きたくなるのを堪えて一歩踏み出した。
「樽井、隊長――」
「隊長! 泰四郎さんが……!」
再び少年の声がする。
その声で樽井は漸く、項垂れていた首を擡げた。
泰四郎の視線の先で、疲弊の面持ちをした樽井のそれが、見る間に歓喜の色を帯びる。
だが、泰四郎が現れたことへの欣快と喫驚とが同時に込み上げたのか、樽井の表情はすぐさま今にも崩れそうなほどに歪められた。
「戻ったか、青山」
「遅く、なりました」
樽井を先頭に、敗走してきた仲間たちが次々と泰四郎に駆け寄る。無論、中には傷が深く、退却こそ叶えど既に身体の自由が利かない者もある。
そういう者も含めて、今この場に再び集ったのは、ざっと見ても二十名にも満たないだろう。
二百近くもいたはずの隊が、たった一度の銃撃戦でここまで数を減らそうとは――。
泰四郎は俄かに眩暈を覚えた。
「青山。戻ったのは、おまえだけか。悦蔵は――」
樽井は荒々しく泰四郎の肩に掴みかかると、充血して赤くなったその双眸で泰四郎の目を覗き込む。
瞬間、泰四郎は言葉に詰まった。
悦蔵の、最期の容相が瞼に浮かぶ。
不意に視界が潤み、泰四郎は息を止めて漸く涙を呑んだ。
それでも言葉は出てこず、ただ首を左右に振ることで悦蔵の死を伝えるより他になかった。
泰四郎の様子から全てを察したのか、肩を掴んでいた樽井の手が力なく滑り落ちる。
「……そうか」
「…………」
「あいつは、死んだのか」
茫洋として抑揚のない樽井の声に、またぞろ溢れた涙を、泰四郎は再度呑み込むことは出来なかった。
***
秋も近いとはいえ、まだ僅かに蝉の声が残り、この年は珍しく梅雨も完全に明けておらずに未だ長引いていた。
からりと晴れる日はごく少なく、雨の多い年だ。
それでも境内の其処彼処からは、蝉の声が聴こえてくる。真夏の喧しく暑苦しい声とは違い、晩夏を告げる蝉の少し音の高い声だ。
この日、二本松の城下には街道からの入口を警固せんが為、各所に守備隊を配置した。
城中では果て無き軍儀が開かれているようで、隊長の樽井も指示を仰ぐために早朝から登城したまま、未だ戻っていない。
他に逃れてきた藩士たちと同様に、泰四郎もまた光現寺の境内を借りて簡易的に傷の処置を施した。僅かながらも食事をし、水を飲んで渇きを癒す。
傷は幸いにも浅いものばかりだったが、右肩の傷だけは深く、処置を終えてもやはり右腕は上がらなかった。
左腕だけでこれからの戦に臨まねばならないことに些かの不安を抱き、だが同時に、それも己の定めなのだろう、と、半ば諦めに似た思いも胸を掠めた。
本堂の太い柱に身を預け、泰四郎は呆然と中空を仰ぐ。
重厚な庇の向うに、青空が覗いている。
戦雲立ち込める状況とは裏腹に、今日の空には晴れ間が出ていた。
雲も多いが日差しはなかなかに厳しく、夜間に漂っていた秋の気配を押し返すように、蒸し暑さを助長する。
湿った暑さの中では、余計に体力も消耗しようというものだ。
激戦を潜り抜けた仲間は皆、今以上に体力を失わぬよう、思い思いに休息を取っていた。
誰も皆、無口だった。
光現寺に集った僅かな兵卒は、樽井が戻ればまたすぐに陣地へ駆り出される事だろう。
無論、泰四郎はそれに従うつもりでいる。
刀を収める場所は、もう失ってしまったのだ。
刀は既になまくらだが、それを砥ぎに出す場所も暇もなければ、代わりの刀もない。
敵は銃と砲とで攻めてくるだろうが、藩には最早武器弾薬の余裕はないものと思われた。
元々、軍備は開戦前から明らかに不足していたのだ。
大砲も僅か数門に過ぎず、勢いに乗った強敵を邀撃するには心許ない装備。
そこに止めを刺すかのように、軍事総裁率いる藩の主力軍本隊は未だ城下に帰らなかった。
主力部隊が帰藩するのと、敵軍が襲来するのと、一体どちらが先か――。
ふと思い巡らせてみて、泰四郎は項垂れた。
たとえ主力部隊が城下戦に間に合ったとしても、この城下で惨劇が繰り広げられることに変わりはないだろう。
数多の朋輩の屍が地を埋め尽くした、上之内での戦のように。
否、今度の舞台は上之内のような辺境ではない。
奥州二本松藩、丹羽家十万石の牙城そのものを掛けた戦なのだ。敵も生半可な攻め方をしては来ないはずだった。そして、二本松藩側も死力を尽くす戦いになるだろう。
城下戦は、上之内以上に凄惨な様が広がるに違いない。
だが、そうと知った上でも、何故か二度目の戦闘が恐ろしいとは思わなかった。
泰四郎は、柱を背にしたその更に向こう側に、人の近付く気配で顔を上げた。
半ば振り返ると、その視界の隅にまだあどけなさの残る顔が見える。
光現寺に辿り着いた時点でその無事を知り得ながら、今までろくに会話もなかった少年だ。
「定助か」
定助に呼ばれるよりも早く、泰四郎は自ら声を掛けた。
見たところ、定助には目立った外傷もない。
確かに泰四郎や悦蔵、樽井によって守られていたとはいえ、敵弾の一つも受けずに戦地を抜け出たことは奇跡に近い。
定助は名を呼ばれた後も、暫く居た堪れない様子で所在なく佇んでいたが、やがて意を決したかのように泰四郎の隣に歩み寄った。
何かを言いたげだが、定助の声はなかなか用件を告げない。
それに苛立ったわけではなかったが、泰四郎は胡坐を掻いたまま、「座れ」と自らの傍らに手招きした。
すると定助は、まるでこれから叱責されることを恐れる童のような顔で、神妙に泰四郎の隣に膝を折る。
「あの……」
「ああ」
「…………」
「なんだ?」
何を躊躇しているのかと訝しく思い、泰四郎は漸く、俯いて座る定助の顔を覗き込んだ。
「……おい、何故泣く?」
煮え切らない態度と思っていた定助のそれは、咽び泣くのを精一杯堪えるものだった。
僅かに面食らったものの、年少者に泣かれることが日常茶飯事でもある泰四郎は、またか、と多少嘆息するのみだ。
定助が何を理由に泣くのかが分からず、泰四郎は定助の言葉を待った。
或いは悦蔵の死を悼んで泣くのかとも考えたが、悦蔵の訃報を伝えたのは今朝だ。哀悼には些か間合いがずれている。
「ありがとう、ございました」
定助は肩を震わせ、蚊の鳴くような声で言った。
泰四郎は一瞬、何のことかと眉を顰めたが、それが上之内での撤退援護に対する礼なのだと、間もなく気付いた。
「泰四郎さんと和田さんがいなかったら、きっと俺、あそこで死んでいました」
「……別に、おまえに礼を言われるようなことじゃない。実際おまえを生き延びさせたのは、俺でも悦蔵でもない。樽井隊長だ」
泰四郎は自ら口に上らせながら、改めてそうだと気が付いた。
何のために斬り込んだのか。
それは、前線に取り残された仲間の少年たちを助けるため――
いや、それは違う、と泰四郎は静かに目を伏せた。
本当は、自分も一刻も早く引き揚げたかったはずだ。
より年若の者を見捨てて行けば、自らの汚点になる。
あの場にもしも、悦蔵という存在がなかったなら、あのまま我先にと退却していたかもしれない。
己自身が悦蔵よりも武勇に富んでいると、尚も誇示したいがために斬り込んだのではないのか。
生死を分かつ窮地にありながら、それでも矜持を捨て切れなかった。
ただ、それだけだったのだ。
「俺は、おまえを助けてなどいない」
声音が、知らずと冷たくなった。
定助を突き放す意味の冷たさではなかったが、定助にはそのように聞こえただろう。
だが、定助は萎縮した様子もなく、泰四郎の傍らで俯いたまま、やや強く首を左右に振った。
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