五.御城下の戦い(1)

 

 

 深手を負った体には、城までの道のりは至極困難なものだった。

 本来ならば、休み無く行けば半日と掛からずにたどり着ける距離だ。

 だが、街道に出るのは愚か、山中の間道でさえ堂々と行くには危険が伴うのである。

 もしも今、この状態で敵に出会せば、勝てる自信はない。

 空にはまだ残照が漂っているはずだが、わざと間道を外れて木々の深い道無き道をゆく泰四郎の周囲には、既に宵闇が満ちていた。

 空に月や星が出ているのか否かさえも判らない。

 人の気配は無く、己の荒い息遣いだけが風と森の音に混じった。

 山中には、日中に立ち上った草いきれの残り香。

 乱れた息を整えようと深く息を吸い込めば、微かな鉄の匂いが鼻を突く。

 己の血と、悦蔵の流した血、そして、誰のものとも知れぬ返り血の匂いだった。


     ***


 夜半には、一面に墨を流したような暗闇の中を歩かなければならなかった。

 些か血を流し過ぎたせいか時折眩暈に襲われながらも、泰四郎は歩みを止めずに一路二本松の城下を目指す。

 負傷のためか、或いは単に深い夜陰のためなのか、心成し視界が薄ぼんやりとしているのも感じていた。

 ほぼ壊滅状態にまで追い込まれた激戦から間もなく、足場の悪い夜の山中を手探りで行かねばならないことが、泰四郎の疲労に拍車をかける。

 銃創の疼きは依然として消えず、執拗に泰四郎の身体を蝕んだ。

 ――城下に程近い糠沢上之内が戦場となった。

 奥州街道側の守備が未だ守られているかどうかは知る由も無いが、遅かれ早かれ、軍事総裁・丹羽丹波率いる二本松主力軍も城下へ引き揚げざるを得ない状況に陥るだろう。

 今の泰四郎は、忌々しいほどに敵の強さを痛感している。

 あたかも張りぼて人形のようにばたばたと斃された大勢の味方の屍を踏み越えて、ここにいるのだ。

 敵が間もなく城下に迫るであろうことは、火を見るよりも明らかだった。

 敵よりも早く、城下に辿り着かねばならない。

 悦蔵を弔った後、泰四郎の念頭に浮かんだのは次に差し迫った二本松城下の守備であったのだ。

 死に至らないまでも重傷を負った身体、長い緊張、そして徐々に襲い来る空腹と乾き。

 山中は充分な湿気があるというのに、喉は内側から罅割れそうなほどだ。

 泰四郎は最も傷の深い右肩を庇いながら、夜通し山中を歩き通した。


     ***


 七月二十七日未明。最後には身体を引き摺るようにして、泰四郎は漸く二本松城下に入った。

 糠沢から山中を突っ切って来たために、既に体は衰憊の色濃い。

 足は愚か、まるで体中の感覚が麻痺したかのように五体の全てが覚束ない。

 それでもようよう山を抜け、開けた視界の中に朝靄漂う阿武隈河が見えると、泰四郎は安堵の息をつき、そして僅かな憂いを覚えた。

 この河を越えれば、城下だ。

 だが、渡し舟を出す船頭の姿は無く、小さな船が数艘放置されているのみ。

 白々とした薄藍色の暁闇の中、ひぃんと静寂が聞こえるようだった。

 人影がないのは、此処が日の出前の町外れだから、というばかりではない。

 恐らく民は皆、家を捨てて城下を離れたのだろう。

 ここが戦場となることは、最早避けられない。

 それでも士たる者たちは城と主君がある限り、如何に無謀と知りながらもそれを守らんと戦うだろう。

 悦蔵とともに帰り着くことが叶わなかったのは、彼にとって幸いなことだったと思うべきなのか。

 生き残ったばかりに、己にはもう一つの死地が待ち構えている。

 城下での戦も、きっと上之内での戦とそう大差はあるまい。

 二本松の主力部隊がいくら束になって守備しようとも、敵の兵力とはその軍備からして雲泥の差があるのだ。

 泰四郎は、これからこの地に訪れるであろう惨状を思い、ふと目を伏せた。

 その伏せた視界に、自らの手許がゆらりと映る。

 そこには拭いきれない血糊と膏がこびり付いた、自らの得物。激しく撓んだ刀身が、斬り捨てた敵兵の多さを物語る。

 最早使い物にはならないだろう。

(刀、か)

 それは武士たる者の魂。

 捨てても捨てきれぬ、自らの命。

 それは歪な姿となった今も確かな鈍色を放っていた。

 そこで泰四郎は、漸くあることに気が付いた。

「――鞘が」

 どこで落としたものか、腰に差していたはずの朱塗りの鞘が無くなっていた。

 混戦の最中に落としたのか、それとも、城下へ向かう山中で気付かずに落としたのか。

 どちらにしても、上之内の戦からこれまで、腰から鞘の重みが消えたことにすら気付けないほど、余裕を欠いていたらしい。

 手許に残るのは、還るべきところを失った一振りの刀だけ。

 それがまるで、自分自身のようだと泰四郎は思った。

 彼誰時の靄に煙る、阿武隈河のほとり。

 泰四郎はふと、今歩いてきたばかりの背後を振り返ったが、そこには誰の姿もない。

 森の深い茂みの中から、今にも息せき切って追い掛けて来るような気がしたが、やはり泰四郎の後を追ってくる者はいなかった。


     ***


 阿武隈の急流の中に小舟を漕ぎ出し、渾身の力をもって対岸へ渡ると、既に此処高田口の守備についていた味方の一隊と巡り会った。

 泰四郎はそこで僅かな兵糧を分けて貰い、漸く空腹を凌いだのである。凌いだとは言っても、当然充分な量ではない。味方も必要最低限の蓄えしか携帯してはいないのだ。

 先に退却した樽井も、どうやらこの高田口を通過して城下に帰り着いているらしい。

 ならば既に上之内での大敗の報も城に届いていることだろう。

 樽井隊がほぼ全滅の憂き目を見、生き残った者はごく僅かだということも、高田口の守備兵は知っていた。

「青山。おまえ、酷い傷じゃないか。銃創だな、手当をしたほうが良いぞ」

「ああ。だが一刻も早く光現寺に着きたい。手当はそこでする」

 城下の砦はまだいずれも無事か、と問えば、守備兵は強く頷いた。

「どの入口もまだ無事だが、いつ敵が迫ってもおかしくない」

 そう言うところを見ると、やはり奥州街道沿いを転戦していた本隊も、押されに押されているのだろう。

 城下へは白河城奪還戦以来、敗報続きだという。

「樽井隊の生き残りは、おまえの後にもまだ居そうか?」

 守備兵は、敗残の味方を敵影と見違えた誤射を懸念して、泰四郎に尋ねる。

 泰四郎はその瞬間、思わず眼裏に悦蔵の顔を浮かべてほんの数拍押し黙ったが、やがて静かに首を左右に振った。

 自らの手でその遺体を弔ってもまだ、心のいずこかが悦蔵の死を頑なに拒んでいるようだった。

「――いや、恐らく俺で最後だろう」


     ***


 城下、光現寺。

 そこは、隊長・樽井弥五左衛門の示した約束の場所であった。

 泰四郎は高田口を後にすると、行く手を遮るように横たわる小高い丘陵地帯を迂回して、広がる稲田の畦道を抜けた。

 稲は徐々に項垂れはじめたものも多いが、刈り取るにはまだ少々早い頃だろう。

 光現寺の境内へと続く石段は、高田口からの道が奥州街道に交わる、ほんの手前にある。

 泰四郎は高田口から城下へと入り、竹ノ内を過ぎ、そして亀谷平に辿り着いた。

 このあたりにまで来ると、逃げずに家に留まる町人たちの姿がちらほらと見られるが、彼らも間もなく城下を後にしようという者たちだ。彼らの出で立ちと倉皇振りを見れば、それは自ずと知れることだった。

 ある一家は財産を丸ごと持ち出そうと、大八車に荷を山と積み、ある老人は名残惜しそうにしながら、小さな荷物を手にとぼとぼと歩く。まだ若そうなある母親は、風呂敷包みを一つ背負い、片手に幼い子どもの手を引いていた。

 各々が、散り散りに逃げていく。

 泰四郎は道の端で足を止め、一家が大八車に家財を乗せて慌しく立ち退いていく様をぼうっと眺めた。

 すれ違い様、一家の主らしき初老の男が、道端の泰四郎に気付いて気まずそうに会釈し、足早に去っていく。

 町屋の者だろうが、戦場から舞い戻った武士の姿に、何か胸に痞えるものでも感じたのだろう。

 まるで、逃げていくことを恥じているかのようだ。

 武士なら、戦から逃げることは確かに恥だろう。だが、女子どもや町屋の者が戦を逃れるのは至極当然のことで、恥でも何でもない。

 彼が恥と感じるのは、恐らく、故郷を捨てて出奔することにあるのだろう。

 逃れ行く人々は、まだ敵の手が及ばない北を目指して城下を出ていく。

 泰四郎はその流れに逆らうようにして、再び城下の内へ向けて歩み出した。


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