四.赤鞘の二壮士(3)
「いかん、退却だ悦蔵!」
残る白兵の刀を夢中で弾き飛ばし、泰四郎は崩れた胸壁を飛び越えた。
悦蔵も事態を呑み込んでいたのか、泰四郎の呼びかけと同時に最後の一振りを敵兵に浴びせて飛び退る。
指揮系統と軍備、調練の一切が隅々まで行き届いた敵軍の、豪雨のような射撃が始まったのは、それとほぼ同時だった。
「泰四郎っ、悦蔵――っ! もう良い、引き揚げろ!!」
この場より遥か遠く、退路の殿になるまで、樽井は馬を宥めて留まり続けていた。
樽井は定助を自らの馬に乗せ、残る二人の壮士に最後の退却命令を下すとすぐに馬腹を蹴った。
ピュンッと鋭く空を切り裂く敵弾が、泰四郎の耳許を掠めていく。
敵正面を逃げるよりも、胸壁や民家の間を逃げたほうが無難と即座に判断し、泰四郎は無軌道に駆けた。
無論悦蔵もその直後に同様の退却を始める。
だが――
「! く……!」
嵐のような弾を避けきれず、敵弾は泰四郎の腕を掠め、脇腹の肉を抉った。
そのたびに、ぐらりと身体が傾げそうになるのを踏み堪えて、退路を駆けに駆けた。
腹の底が冷え切る思いがした。
「馬鹿め、逃がすな! 早う当てんか!」
命令とも罵声とも言える敵隊長の声が、苛立ちも顕わに怒鳴った。
白兵を悉く斬った泰四郎らに対しては、敵も躍起になって斃しにかかっているらしい。
今、命を永らえているのは、単に運そのものだ。覚悟はもとより決めてはいたが、生きた心地がしないとはこういうことか、と泰四郎は倉皇とする中で感じていた。
山間の農村の、僅かな平地から山道へ入るまでの距離が、やたらと遠く思える。
銃撃にはやや規則的に波があった。負傷直後に第一波が弱まったのとほぼ時を同じくして、すぐ背後からどしゃりと土を滑るような音がした。
泰四郎は、遅れてついて来ているはずの悦蔵を振り返り、愕然と瞠目する。
「!? ――悦蔵っ、おまえ……!」
見違えるばかりの奮迅を見せていたはずの悦蔵が、苦痛に顔を歪めつつも、渾身の力で尚その身を起こしかけたところだった。
瞬きするよりも早く、泰四郎の目に悦蔵の銃創が飛び込む。
肩と腹部、そして腿のあたりから鮮血が噴出していた。
「三発、くらった」
青褪め引き攣った笑顔を上げて、悦蔵は短く言う。
言って直後にその目は大きく見開かれ、ごぽりと不気味な音を立てて血を吐いた。
どろりと赤い血が、地面に叩きつけられるように落ちる。
泰四郎の全身に、かつて覚えたことのない戦慄が走った。
「――来いっ、悦蔵!」
泰四郎は臓腑の凍っていくような感覚に襲われながら、悦蔵を抱えるようにして夢中で駆けた。
一刻も早く、この場から逃れなければ――。
でなければ、待ち受けるのは死のみ。
(死ぬな――)
己の銃創もまた、酷く疼いていた。
***
這々の体で戦場を離れた二人は、緑の深い下生えの深い木を選んで倒れ込んだ。
日の差さない山道は、一昨日の雨のせいで酷くぬかるみ、重傷を負った身体で歩くには足場が悪すぎた。
腿と腹を撃たれた悦蔵は脚に殆ど力が入らないようだったし、それを支えて歩く泰四郎もまた、肩と脇腹に深い銃創を負っているのだ。
銃声は、もう聞こえてはこない。
聞こえるのは風にざわめく木立の音と鳥の声、そして悦蔵の喘鳴だけだ。
ただ、ふと仰いだ上天、木々の枝葉の合間から、立ち上る黒煙が見えた。
上之内のあの村を、焼き払っているのだろう。
食糧や、少しでも値打ちのありそうなものを略奪してしまえば、樽井隊を壊滅寸前にまで追い込んだ今、薩摩軍は村に用などないのだから。
もう殆ど斬れなくなった刀を放り出し、泰四郎は悦蔵の負った銃創を看る。
腹部の傷は完全に背から腹にかけて弾が貫通していた。
だが、肩と腿の銃創は骨に当たって、まだ弾が残っているらしい。
いずれも出血は止まる気配もなく、夥しい量だった。
泰四郎もまた、肩や脇腹に受けた傷から血を流してはいるが、悦蔵のそれほどではない。
激しい苦痛は伴うものの、まだ歩くことも話すことも出来る。
まだ刀を振れるだけの余力もある。
「悦蔵、大丈夫か」
「…………」
声を出すことも思うに任せないようで、悦蔵は喘鳴の中、首を小さく縦に振って見せるのみだった。
その状態は決して大丈夫なものではないと、泰四郎は即座に感じ取る。
苦しげに繰り返す乱れた呼吸も、随分脆弱になっていた。
早急に止血しなければ、程も無く落命するだろう。
仰向けに倒れた悦蔵の顔色は蒼白になっており、そのせいで吐血の跡がいやに鮮やかに見える。
「おい、しっかりしろ! もう戦場は離れた。あとは城へ帰るだけだぞ!」
双眸を閉じて苦悶する悦蔵の頬に触れ、泰四郎は懸命に励ました。
焦りのためか、ややもたつく手で自分の額から白木綿の鉢巻を解く。
白地に黒の丹羽直違紋が一つ染め込まれていたものが、汗を吸って埃にまみれ、薄汚れていた。
それを悦蔵の腿の付け根に、力一杯引き絞って結び付ける。
その圧迫に新たな痛みを伴ったのか、悦蔵は殊更に顔を顰めた。
ここへ来るまでに悦蔵が流した血の量に比べれば、最早その程度の応急処置が効果を成すとは考え難い。
そして腹部と肩の傷は、もう手の施しようがなかった。
何か使えそうな物はないかと辺りを見回し、自らの衣装を探っても、何も出て来はしない。
持ち物といえば、僅かな水を入れた竹筒が一つと、殆ど刃の潰れた刀のみ。
瀕死の重傷を負った悦蔵に何もしてやれないことが、ただただ口惜しかった。
いつもへらへらと笑っていた悦蔵が苦しむ様は、一層見るに耐えない。
今ここに、馬の一頭でもあれば――
そう思ってみても、馬など影も形もない。
激戦に驚いて樽井隊から逸れた馬もあったはずなのに、もうとっくに遠くまで逃げてしまったのだろう。
馬さえあれば、悦蔵を乗せて城下へ戻ることが出来るのに。
呻吟する泰四郎の手に、不意にひやりとしたものが触れた。
「定助、たちは――」
冷たい感覚を伝えたのは、悦蔵の手だった。
泰四郎の手に触れたかと思うと、探るように握り締める。焦点の定まらない目を微かに開け、悦蔵は前線に取り残されていた少年達の安否を尋ねたのだった。
咄嗟に、泰四郎は両手で悦蔵の手を握り返した。
「大丈夫だ、樽井隊長が率いて無事に退却した」
無事に退却したのは、取り残されていた三人のうち、定助ただ一人だったのだが。
他の二人が既に戦死したことを、あえて口に出すことは出来なかった。
泰四郎の返事に安堵したのか、悦蔵は紫色を帯び始めた唇で微かに笑う。
「泰四郎は、怪我……大丈夫か」
「俺は何ともない。掠った程度だ」
数発の弾は受けたが、深いものは右肩の傷のみで、他は衣服を裂くか皮膚を掠った程度の軽傷だ。
泰四郎がひとまずあの死地を潜り抜けたことに、悦蔵は一言「良かった」と呟くと、苦しげな呼吸の下で更にその声を絞り出す。
「俺は、も……駄目だ」
「馬鹿を言え、俺は城下へ帰るぞ。おまえも帰るんだろうが!」
既に力を失くした悦蔵の手を、泰四郎は殊更強く握り締めた。
辺りは先日の雨の湿気と、残暑の熱気とで草いきれが立つほどだというのに、握り締めた手は酷く冷たい。
その冷たさが、そのまま恐怖となって泰四郎の手に流れ込む。
「そうだ、止血に効く薬草があるはずだ。血止め草……ああ、オオバコならこの辺にもあるだろう、すぐに探して……」
「たいしろ……血止めは、オトギリソウ。オオバ…コは、腹痛、だろ。ちゃんと、覚えとけって」
「オトギリソウか、オトギリソウだな!? きっとある、すぐに探してきてやる!」
待っていろ、と言い聞かせて傍を離れようとした泰四郎の手を、悦蔵は力の萎えた手で引き止める。
異様なほどに青白い悦蔵の顔がこちらを向いていたが、最早その焦点は合ってはいなかった。
血を流しすぎたのだろう。悦蔵は虚空を見詰め、口の動きだけで「行くな」と呟く。
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