三.払暁の戦(3)
***
その夜が空け切らぬ頃、上之内の村落に大音響の砲声が響いた。
仮眠とは名ばかり、実際には一睡も出来ずにいた泰四郎は、咄嗟に跳ね起きた。ふと横を見れば、いつのまにかぴったり寄り添って眠りこけていた悦蔵も、弾かれたように身を起こしたところであった。
「な、何だ!? 今の音、砲……!?」
「敵かっ」
雑魚寝の同士たちが続々と起き出す中、俟たずに表から樽井の怒声が飛んだ。
「夜襲だっ!! 総員直ちに起床っ、配置に付け!!」
悦蔵と視線を絡めたまま、泰四郎の背筋が、ぞくりと粟立った。
怒号の中の夜襲という一言が、やけに強調されて聞こえ、起き出した兵卒が一斉にどよめく。皆も同様に眠りは浅かったらしい。
そうして口々に驚愕と困惑を叫びながら、それぞれ大小を差し、銃を片手に飛び出していく。怒涛のような音で踏み鳴らされる床板が、重く振動した。
「おい、青山、和田っ! 敵だ、早く出ろ!」
土間を飛び出す寸前のところで、樽井直属の軍監が荒々しく声を投げた。
その声ではっと我に帰り、泰四郎は慌てて立ち上がる。その次の瞬間、更に猛々しい砲声が耳を劈いた。
大砲の地響きに続いて間髪入れずに小銃の乱射が始まる。同時に、戸外が俄かに騒がしくもなった。
「ほらっ、悦蔵、おまえも早くしろ! 敵の急襲だ!」
焦慮に駆られるまま悦蔵にも声を掛けたのだが、悦蔵は茫然としたきり身動きする気配すらない。挙句、ただぼんやりと泰四郎を見上げ、
「敵、って……?」
と、間の抜けた問いを寄越す始末。
「!? 馬鹿野郎っ! こんな時に何を呆けていやがる。官賊どもが攻め込んで来たってことだ!」
泰四郎は激昂したが、やっと上体を起こした悦蔵は、喫驚したように泰四郎の目を見上げた。
程なくして、戸外に対峙した樽井隊も応戦し始め、激しい銃撃戦が展開されたようだった。
「ぐずぐずするな、守備に回るぞ!」
押っ取り刀で土間に降り立つと、悦蔵も怖じけた様子ながら、泰四郎に急き立てられて漸く配備の元込め銃を手にした。
が、その一方の手が不意に、泰四郎の纏う陣羽織の背を引っ掴んだ。
自然、後方に引き留められた状態から咄嗟に振り返ったが、悦蔵の目はこちらを見てはいなかった。
伏せた目の色は判然とせず、ただその口許が強張って引き結ばれることのみ窺い知れる。
暁闇の薄暗がりにこだます敵軍の銃声と、迎撃に出掛かる樽井の号令が轟く。
すると衣服を掴み締める悦蔵の拳に籠もる力がぐっと強められた。
「……おい、何だ。出遅れるぞ」
尋常でない様子の悦蔵に眉を顰め、泰四郎は声音を低くした。
屋内からは最後の一兵が飛び出して行き、残るは泰四郎と悦蔵の二人。
小刻みに拳を震わせるだけで、一向に何も言おうとしない悦蔵に業を煮やし、泰四郎は半ば強引にその手を振り払った。
「俺はおまえのような臆病者とは違う。俺は戦うぞ。おまえも来い、俺が戦うならおまえも戦うんだろう」
ほんの数刻前にそう言ったのは、悦蔵だ。
念を押すように言った泰四郎の口調も、知らずと剣呑になった。それは、泰四郎自身も未知の実戦に戦慄を覚えているからに他ならない。
「三春城の土佐兵だろう。官賊如き、蹴散らしてやろうじゃないか」
「……俺にも、出来るかな」
「何を言っていやがる。俺を越える気で来たんだろう! 出来る出来ないの話じゃない、やってのけろ!」
叱咤激励すれば、悦蔵も緊迫の面持ちのままに深く頷く。
そうしてそのまま、やや身を引き摺る悦蔵と共に戸外へと出た。
自らもまた実戦を恐ろしく思っても、目の前に怖気づいた者があれば無理矢理にでも虚勢を張ってしまう。そういう己の性分は、呪ってあるべきか、或いはこの際幸いとすべきか。泰四郎にはどちらとも捉え難いことだった。
***
鬱蒼とした山間の村は、暁近しといえども未だ濃厚な夜陰に包まれていた。
当然、攻め込んで来た敵軍兵も、闇と深い森林の陰に隠れて姿形は愚か影を見るのも侭ならない状況だった。
「篝を消せ! 全員胸壁に着き、迎撃せよ!」
ゆらゆらと火の手を上げる篝火は、今や恰好の標的となり、樽井陣営の兵卒の動きを敵兵に知らせる手立てとなっている。
慌てふためきながら火を消しにかかる者があり、その動向を気取った敵の弾丸が集中し出す。
しゅうっと硝煙を上げながら幾弾もが打ち込まれる中、流れ弾が当たったか、胸壁を伝った向こうから呻き声が上がった。
「隊長っ、駄目です、奴等我々の位置を完全に把握しています!」
「怯むな、撃ち返せ! 胸壁から離れるな、身を低くせねばやられるぞ!」
「こっちもやられた!」
「堪えろッ! 敵の接近を許すな、休まず撃て!」
場は騒然としていた。
周囲から続々と上がる悲鳴に近い声に、霹のような樽井の怒声は一時たりとも止まない。
「新式銃を持つ者はそのまま応戦、それ以外は火縄を持て!」
泰四郎と悦蔵も、素早く胸壁に駆け寄り、土壁の向こうの敵弾の気配に身構えた。
城下を離れる際、藩から支給されていた銃を構えるものの、深く生い茂った草木に阻まれ、標的が定まらない。
左右の隣に銃を構える隊員が、忙しなく弾を込めては茂みを狙って引き金を引く。だが、手応えは無いに等しいようだ。
命中したかどうかも判然としないことに歯がゆさを覚えたのか、断続的に銃声に混じって舌打ちするのが聞こえた。
どこに銃口を向ければ良いかすら、分からなかった。
その刹那。
泰四郎の耳元をピュンと鋭く甲高い音が横切った。
「――っ!!」
驚愕は声にならず、心の臓が跳ね上がり、瞬く間に早鐘を打ち出す。
自らの心音と、潮騒のような雑音が執拗に耳に纏わりついた。
瞬間、ざわつく耳に再び鋭い銃声が響いた。
「馬鹿! 青山、伏せろっ!」
「!」
同時、隣で応戦していた仲間が泰四郎を地面に突き倒した。
どっと地に伏したその身の上で、叫喚が飛ぶ。
泰四郎が間髪入れずに顔を上げれば、左の上腕を押し掴んで崩れる朋輩の姿があった。
敵の銃口が向いたものと気付き、咄嗟に泰四郎を庇ったらしい。
「お、おいっ、どうしたっ! 弾を受けたのかっ!」
冷静に見れば、否、既に頭では仲間が目前で被弾したのだと分かっているのに、声に出るのはそんな回りくどい言葉ばかりだった。
夜目にも銃創から血が滲み出していることが見て取れ、一つ息をする間に夥しく衣服を赤黒く染めていく。
「何を、やってんだっ! 撃ったらすぐに引っ込め! 胸壁から乗り出したまま、固まる奴があるかっ!!」
苦痛に歪んだその顔を覗き込めば、即座に叱責を浴びせられた。
泰四郎の目は、滴るほどにじっとりと溢れる鮮血に釘付けになった。だのに、その苦悶に耐えて引き攣った声音だけは、妙に鮮明に耳の奥にまで届く。
身体の芯が凍え、ずしりと鉛のように重くなる。身内にその感覚の広がり行くのを、食い止める手立てを講じかねた。
「と、兎に角血止めを……」
狼狽も顕わになった己の声は、明らかに震えていた。
「青山、血止めは後だ」
「はっ!? 何を……」
今も脈に合わせてだくだくと溢れる血を止めもせず、仲間が次に出た行動に、泰四郎は目を瞠った。
自身の銃創に齧りついたのだ。
泰四郎が凝然と見入る中、そのまま微塵の躊躇いもなく、自らの歯で銃創を食い千切ったのである。
微かにグッと呻く声と共に、食い込んでいた弾もろとも、齧り取った血肉がびしゃりと吐き捨てられた。
当然、血は滲み出るそれから一変、飛沫を上げて迸る。
「う……ぐっ!」
眼前に繰り広げられる光景に、泰四郎は思わず込み上げた。
背後で言葉すら無く控える悦蔵の喉も、やはり同様の呻きを上げたようだった。
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