三.払暁の戦(2)

     ***


 外はほぼ無風に近かった。

 篝火と月光が照らす家屋の庭先で、泰四郎は正眼に構える。

 木刀も刃引き刀もないため、薪小屋から適当な長さの物を拝借したに過ぎない。

 ぴたりと切っ先を定め、黙した泰四郎にやや遅れて、悦蔵もまた下段に構えた。

 こうして真っ向から視線をぶつけ合うことは、立ち合わない限り滅多にない。

 苦手なのだ。悦蔵に真正面から自分を直視されることが。

「――――」

 この時ばかりは、悦蔵に昔の面影など微塵も感じられない。泰四郎と対等の、ただ一人の青年になる。

 だからこそ、泰四郎も絶対に負けられないと自らを叱咤するのだが、そうと念じれば念じるほどに、悦蔵の顔が余裕に満ちた強者のそれに見えてくる。

 じゃり、と足を摺る音がし、先に悦蔵が間合いを計り始めた。

 刹那、ハッという短い気合と共に、悦蔵の得物が斬り上げた。

 カン! と太い枝と枝とが弾く。

 泰四郎の左胴を狙ってきたのを咄嗟に受け、拮抗した。

 悦蔵の太刀筋は、泰四郎にとって容易に見切ることの出来るものだった。

 拳にぐっと力が籠もり、同時に悦蔵の得物も押し返してくる。

「泰四郎」

 じりじりと均衡を保ちながら、悦蔵が口角を上げた。一層、余裕を醸し出している笑みに見えた。

「……いつもいつも、斬りかかるのが早過ぎるんだよ、おまえ」

「泰四郎こそ、手加減しないで欲しいなぁ」

 僅かに、泰四郎の眉間が強く反応した。

 無論、悦蔵の言うように加減していた。容易に躱して直ちに追撃も出来たものを敢えて受け、悦蔵の二の太刀を待ったのだ。

 だが、悦蔵はそれでは不足だと言う。

 また加えて、泰四郎は気付いていた。悦蔵もやはり、手加減というものをしている。

 得物を構えた瞬間に、それは否応無く泰四郎の直感に響いていた。

 斬りかかるのが早いのも、その太刀筋がどこか鈍く感じるのも、すべては悦蔵自身がわざと力を抑えている事に由来する。

「悦蔵、何故本気で来ない。誰も御手柔らかに、などと頼んでいないぞ」

「だって、いきなり本気出したら面白くないじゃん。俺だって、そういつまでもがむしゃらに掛かっていくようなわっぱじゃないよ。泰四郎こそ、相手が俺だと思って高括ってないか?」

「! ――っ」

 血が逆流するかのような感覚を覚え、泰四郎は無意識のうちに悦蔵の得物を弾き、次の一手を繰り出していた。

 弾かれた木の枝は悦蔵の手を離れ、ひゅっと空を切る音を立てて放物線を描く。

 賺さず籠手に一本打ち込もうとした泰四郎を、悦蔵は後方に退いて躱す。だが、泰四郎の迫撃は寸毫も躊躇わずに繰り出され続けた。

 ついにはその勢いのまま、屋敷の垣根にまで悦蔵を追い込んだ。

 胴を取ろうと薙いだ泰四郎の一手を避けるべく、悦蔵が最後の僅かな余地に後ずさった。

 避けきれずに体勢を崩した悦蔵が、どっと地に崩れ込むと、泰四郎の切っ先はその喉元をぴたりと捉えた。

「――――」

「……こ、降参」

 そう言って両手を挙げてみせた悦蔵の顔も、今は微かに強張る。

 泰四郎は無意識のうちに、丸腰の悦蔵に寸暇も与えず勝負を着けていた。

 ほんの二、三撃で片を付けたわりに、泰四郎の息は自身でも驚くほどに上がっていた。自ずと分かるのは、一瞬のうちに平静を失ったこと、そして、己が胃の腑が熱く上気しているらしいこと。

 死地に在りながらの悦蔵の余裕が小憎らしく、流派を極めた己に対し、加減をされた事実に激しい憤りを感じた。

 恐らくは今、泰四郎自身の顔も一層険しさを増しているだろうと思えた。感情を剥き出しにして攻め、悦蔵を負かすに至った今も尚、憤慨は収まる気配も無い。

 だが、厳しい睥睨を受けるにも関わらず、悦蔵はまたも笑ったのだ。

「やっぱ泰四郎は強ぇなぁ。びっくりしたー、アハハ」

 地べたに尻餅をついたまま、悦蔵はかりかりと項を掻く。

 いつもの悦蔵の表情と、声と、口調だ。

 何事の後も、必ず笑い飛ばそうとする。どんな深刻な会話の後も、どんな苦悩の末にも。

「――俺はおまえのそういう軽さが嫌いだ」

「……っえ?」

 上からねめつける泰四郎の視線の先で、悦蔵が目を丸くした。

「なんだよ、そんなおっかない顔して……」

「今がどういう時か、分かっているのか!? 戦だぞ? これから俺たちは敵を斬るんだ。街道の友軍は壊滅状態、俺たちに援軍は来ない。そんな状況下でヘラヘラ笑うおまえの顔には、虫唾が走るんだ!」

 弱く、臆病で、泰四郎が傍にいなければいつも皆に置いていかれるだけだったはずの存在が、何故今この時に悠然と微笑んでいられるのか。

 悦蔵よりも心身ともに強いはずの己が焦り、明らかな負け戦に及び腰になっているのは、何故か。

 吐き捨てた文句が、単なる八つ当たりだということは知っていた。口に出しても詮無いことだと、泰四郎こそが誰よりもよく理解している。

 だが、それでも箍の外れた憤りを鎮めることは叶わず、気が付けば口汚く悦蔵を罵っていた。

「――もしかして」

 驚愕した表情のまま、悦蔵が口を開く。

 抑揚に欠けた、掠れた声だった。

「怖いのか? 戦が」

「!」

 瞬間、カッと頭に血が上った。

 そんな言葉を、まさか悦蔵から掛けられるだろうとは、予想だにしていなかった。

 戦が怖い。己の死すのが怖い。敵を殺めることも、怖い。

 それは怯懦以外の何物でもなく、藩兵としてあるまじきことだ。

 だが、完全なる否定でもって悦蔵を遮る事も出来なかった。

「……俺は、人を斬ったことなぞ無い。実戦は日頃の道場稽古や軍事調練とは違う。おまえにとっても同じはずだろう」

「そりゃ俺だって、まさか人を斬ったことなんて無いさ」

 打ち負かした体勢で、俯瞰で見据える悦蔵の顔が白々とした月明かりを受ける。その面持ちの些細な変化さえ容易に見て取れた。

 泰四郎の猛攻と罵倒に不意を突かれた悦蔵の顔から、思いがけず緊張が解かれる。

 またも癪に障る微笑でも見せるのかと思われたが、改めて泰四郎見上げた悦蔵の目も口許も、笑顔のそれではなかった。

「勿論、俺は怖いよ。戦うのも、死ぬのも、殺すのも。だって俺だぞ? 昔っから人一倍臆病なんだぞ? ……だから笑ってんだよ。必死んなって泰四郎に食らいついてんだよ。気付けよ、そのくらい」

 じっと見上げていた悦蔵の目が、不意に伏せられた。

 その悄然とした仕草に、泰四郎も漸く突きつけた得物を下ろし、半歩足を引く。何故か、その瞬間に己の良心が咎めた気がしたのだ。

「……悪い。そう、だよな」

 悦蔵の目がこちらを見ていないのにも関わらず、狼狽からか泰四郎の目も僅かに泳いだ。

「なぁ、泰四郎。……本当言うとさ、俺は恭順しても良いんじゃないかと思うよ」

「! 何だと?」

 つい数刻前には主戦にも恭順にも属さないと宣言した奴が、ようやっと口に出した本音である。

 泳いだ目が再び峻厳さを帯びた。

 地べたにへたり込んだ悦蔵は、胡坐を掻いて深く項垂れており、そこにはいつもの柔和さも浮薄な雰囲気もなかった。

「泰四郎だって戦は嫌なんだろ? 勝ち目のない戦に出て、一体何のために死ぬっていうんだよ?」

「それは……」

 泰四郎は、一瞬、答えに惑った。

「それは、殿様の為、藩の為、ひいては故郷の為だろうが。三春のように恭順して同盟軍から睨まれ、挙句に郷里そのものが腰抜け呼ばわりされても良いのか。俺たちだけの問題じゃない、俺たちが寝返れば、郷里は後々までも裏切り者の汚名を蒙るんだぞ」

 咄嗟に口をついて出たのは、己の言葉ではなかった。

(何を言っているんだ、俺は。全部樽井隊長の請売りじゃないか……)

 今し方の発言を悔いて歯噛みしながらも、悦蔵の手前、それを撤回するわけにはいかなかった。

 樽井の考えが正しいだろう事は認めている。だが、樽井ほどの確固たる信念など自分には無い。それを、あたかも自らの持論の如く語る己に嫌気が差した。

 つい先刻、自分の意思がないのかと悦蔵をなじったばかりだというのに。

 たった今己の放った言葉は、重大な局面にあってさえ泰四郎を真似て答えを出す悦蔵と、どこがどう違うというのだろう。

 ややあって、悦蔵が顔を上げた。

「俺は、そこまで考えられるほどの余裕はないよ。でも、分からなくはない。俺もきっと、泰四郎が腰抜け呼ばわりされたら、腹ァ立つわ……」

 独り言のようにのんびりと言う。

 泰四郎が内心で酷く動揺を覚えているのに対し、悦蔵は実に悠々としたものだ。

 視野も規模も、樽井のそれとはまるで比較にもならないほどのごく小さな物差しだが、それは紛れも無く悦蔵なりの観念だった。

 その、樽井とは比較の対象にもならないだろう悦蔵の観念に、自分が勝れるものはあるのだろうか。

 腕で勝っても、心根で負けている。

 樽井の言う絶対的存在の意味が、この時でやっと一欠片分ほど理解出来たような気がした。


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