三.払暁の戦(1)
雨が上がり、上ノ内の界隈も梅雨の晴れ間を見せていた。
相変わらず三春城の土佐兵が動く気配はなく、奥州街道の同盟軍本隊も小競り合いを繰り返しながらじりじりと圧されているらしい。
薩長率いる敵軍は既に本宮宿に本陣を移している様子で、二本松の城下へ目と鼻の先ほどにまで迫っていた。
「城下は大丈夫なのか!? 我々も一旦城へ戻った方が良いのではないか?」
「だが、城からは引き揚げの命令などないのだ。戻らずここで守備にあたるべきであろう」
「殆どの兵が国境にまで出払っているんだ。そこを敵に突かれてみろ、城は一溜りもないぞ!?」
「まさか俺たちの知らぬ間に帰順、なんてことはないだろうな?」
糠沢に宿陣する樽井隊の中に、そんなやり取りが盛んに交わされるようになった。
兵糧を運搬する農民たちから聞こえてくる城下の様子というのは、非常に輪郭が曖昧であった。
間近に迫った敵軍に対し、城は恭順派と徹底抗戦派とで揉めているらしい。
勿論、又聞きである以上、その真偽は定かでないのだが。
届く噂は悪報ばかり。どの藩が降伏しただとか、友軍の誰と誰が戦死しただとか、そんな話ばかりである。
その上、肝心の城中が揺れているともなれば、国境に布陣する樽井隊が動揺するのも無理はなかった。
中には既に及び腰で、「我が藩も手遅れにならぬうちに帰順を考えた方が良い」だとか、実に弱気な発言をする者さえ出る始末。
はじめこそは、樽井が持ち前の剛毅さで叱咤をすれば動揺は収まった。だが、それも立て続けになると、そう簡単には収束出来なくなるものだ。
徐々に、恭順を唱える者と主戦を唱える者の間の境界が明確になり出した頃であった。
***
「悦蔵。おまえはどっちだ」
泰四郎は何気なく悦蔵に話題を振った。
皆が鬼気迫る面持ちで議論を交わす中にあっても、悦蔵は依然として穏健な笑顔を絶やさない。相変わらず、定助から太鼓を借りては手持ち無沙汰にとんとこ鳴らしている。
「そういう泰四郎はどうなのさ?」
「俺が先に訊いたんだぞ。そういう答えは狡いじゃないか?」
「あはは、そう? だけど、俺にそういうこと訊いても仕方ないよ。泰四郎が戦うんなら俺も戦うし、帰順するっていうなら俺も帰順する」
まるで戦などどうでも良いような口調で、悦蔵は言う。
主戦と恭順、その真っ向対立する選択肢でさえ、泰四郎次第で自分もそれに従うというのだから驚きだ。生死をも分かつ問題だというのに。
なるほど確かに、こういうところは昔とちっとも変わらない。樽井の言っていた金魚の何某そのものだ。
すべて人任せのようにも聞こえ、それなのに少しも投げやりな空気が無いのが不思議であった。
「おまえには自分自身の意志というのがないのか? 何から何まで俺と同じにしようだなんて、呆れた奴だな」
言葉通り、泰四郎は本当に呆れていた。鞘を揃いにするだとか、行く先々にくっ付いて来るのはまだ可愛いものと笑って許せても、重要な決断を他人に任せることは許しがたい。
自らの意見も持たず、誰かがそうするから自分も同じ道を選んでおけば間違いなかろう。そんな風に考えているのだとしたら、それはもっと噴飯物だ。
泰四郎の顔にも僅かに苛立ちが出たのか、悦蔵は刹那的に怯んだように顎を引いた。
「……ごめん」
「もう良い。おまえに話を振った俺が馬鹿だった」
「ごめんってば」
しつこく謝る悦蔵を尻目に、泰四郎は踵を返した。
***
その夜は雨も風も止み、珍しく静かな夜だった。
いつもなら自然と耳に届く虫や蛙の声も、今日は何故か耳を澄ましても聞こえてはこない。
不寝番の役目を担い、泰四郎は相変わらず悦蔵と共に待機していた。
何から何まで、命ぜられる事は悦蔵と同じ。互いの不足を補い合うに最適な組み合わせだとでも思われているようで、泰四郎もいい加減辟易してきた頃である。
四六時中顔をつき合わせているのには慣れているはずなのだが、最近になって首を擡げてきた妙な劣等感がそれを不快にさせていた。
時折頬を撫でる風は重く、焚いた囲炉裏の火もやけに鈍く揺らめく。
そんな重苦しい空気の中、平素と変わらぬものといえば目の前の悦蔵の顔だけだろう。
泰四郎の顔を飽きもせずににこにこと見詰めている。
暇を持て余して囲炉裏の灰を火箸でぐるぐると掻き回していた手を、泰四郎はふと止めた。
「……おい」
「うん?」
「うん、じゃない。さっきから気持悪いぞ、俺の顔はそんなに面白いか」
「ううん、面白くないけど?」
「だったら、穴の開くほど眺め続けるのはやめてくれ」
「面白くはないけど、飽きないから」
「ほう。……それは要するに面白いんだろう、俺の顔がっ」
嫌味ではないらしいが、いけ好かない返答である。
泰四郎が思わず語気を強くすると、悦蔵は慌ててしぃっと人差し指を立てた。他の者が就寝していることに気遣ったのだろう。
そのことに気付き、泰四郎も咄嗟に口を噤んだが、周囲に雑魚寝する仲間たちは寝返り一つ打つ者もなかった。
二人の声が止めば、ただ囲炉裏火の熾る音がごうと鳴るだけである。
静か過ぎて、気味が悪いほどだ。
会話らしい会話もなく、悦蔵と二人で顔を突き合わせているだけ、というのが何故か居た堪れない。
絶対的存在の有無。
樽井に言わせれば、それが悦蔵と泰四郎との大きな違いであるらしいが、実際に悦蔵はそこまで自分を必要としているのだろうか。
誰の助けも要らないほどに腕を磨き、誰とも分け隔てなく接し、誰からも好かれるようなこの男が、である。
隣に泰四郎のような年中顰め面の男がいたのでは、悦蔵にまで人は寄り付かなくなるのではないのだろうか。
それでも、泰四郎にくっ付いて来る理由とは何なのか。
じっと考え込むと、悦蔵が小さく吐息した。
「……静か過ぎても落ち着かないもんだね」
そわそわしている風など臆面にも出さないくせに、泰四郎にそういう話を振ってくる。
こういう時、昔の悦蔵なら敵を恐れておどおどしていただろうに。
今の悦蔵は言葉とは裏腹に、実に泰然自若とした構えである。
「ちょっと外で立ち合ってみないか? どうせ泰四郎も暇だろ?」
「……なんでこんな夜中におまえと二人で立合い稽古なんかしなきゃならないんだ。暇と体力を持て余してるなら独りで行ってこい」
「なんだよ、少しくらい付き合えよ。それとも何、俺と立ち合うの、嫌?」
眉尻を下げて泰四郎を覗き込む悦蔵は、ほんの少し寂しそうな顔をする。
この媚びたような目も、相変わらず昔の面影を残している。突き放されそうになると必ず、こうしてあからさまに寂しげな顔を見せるのだ。
本人に悪気はないのだろうが、悦蔵のそういうところだけは昔から好きになれない。
付き合いが悪いと逆上したり、或いは強引な口調で食い下がられるのなら、まだ突っ撥ねようもある。だが、しょ気た顔でがっかりされれば、断り難いと感じずにはいられないものだ。
まるで泰四郎が悪いことでもしたような雰囲気になる。
その目を一瞥してから、泰四郎は結局これも降参したのだった。
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