二.雨に逸る(6)

 そのうちに、閉めた雨戸も、がたがたと何者かに抉じ開けられようとしているかのように震えだした。

 風も出て来たらしい。

 こうまで激しい風雨だと胸騒ぎがしてならなず、樽井が雨を耳障りだと言うのも頷ける。

「私も、この雨ではとても眠れません」

「おまえも俺と同じか」

「はい」

 静かな会話は雨音に掻き消されるほどだった。

 泰四郎よりも一回り以上も年長である樽井だが、心に急くものがあるのは泰四郎と変わらぬらしい。

 そして今更如何に焦っても、どうなることでもないと知っている。

 そうと知っている以上は、焦りを行動や努力に変えることも出来ず、ただ心に煩わしいものにしかならない。

 些かの沈黙が、雨音を一層大きく響かせた。闇に白く鋭い直線を描いて降る雨の様子を、互いに目も合わせぬままじっと眺める。

 それが暫時続いて、樽井は思い出したように問うた。

「そういえば、おまえ……」

「? 何でしょう」

 ふと声を途切れさせた樽井に先を促せば、 樽井は俄かに顔を曇らせ、言い難そうに声の調子を落とした。

「あ、いや。斥候に出る前なんだが、悦蔵と仲違いでもしていたのか?」

 泰四郎は咄嗟に眉を顰めた。

 悦蔵の同行を拒んだことが気になっていたらしい。

 泰四郎が陣を出た後に、悦蔵が樽井に何と言ったかは知らない。だが、後を追いかけてきた悦蔵も同行を強く願い出たのに違いないだろう。

 僅かに思考を廻らせてから、泰四郎は静かに首を横に振った。

「いえ、そういうわけではありませんが……」

 こちらが勝手に悦蔵を避けていただけだ、とは言えなかった。それ以上詮索されるのも面倒だったし、ましてその理由を尋ねられて正直に話せるはずも無い。

 今に先を越されてしまいそうなことに焦りを感じていたなどと言えば、樽井の自分への評価が下がる気もした。

「何でもないなら良いが、あんまり突き放すなよ。おまえの身を案じて、珍しく鋭い顔付きしていやがったからな」

「悦蔵が、ですか」

「ああ。悦蔵も心配していたようだが……泰四郎、おまえ何か気がかりでもあるのか」

 何かあるなら相談に乗るぞ、と申し出た樽井は、決して茶化す様子ではなかった。

(悦蔵は、気付いているのか?)

 いや、同行を断ったことで疑念を抱かせたのは確実だろうが、胸中の焦りにまでは気付いてはいまい、と泰四郎は頭を振った。

 泰四郎は一息吐き、慮るような視線を寄越す樽井に視線を戻す。

「隊長にご心配頂くようなことは何もありません。悦蔵は昔から俺の傍にくっ付いていましたから、俺と離れての任務に不安でもあったのでしょう」

「ああ、そうか? そういやぁ、確かに悦蔵はいっつもおまえにべったりだったなぁ」

 続けざまに、樽井はぷっと吹き出した。

「まるで金魚の何某だな、悦蔵は!」

「じゃあ俺は金魚ですか」

「そうだなぁ」

(そうなのか……)

 一頻り笑い終えると、樽井は急に深刻な顔に戻る。すると樽井は顎を擦りながら、感慨深げに幾度も頷いた。

「才に華やぐ金魚のおまえにくっつき続けて、今じゃ悦蔵も金魚に転身したようだがな」

 てっきりからかわれているとばかり思っていた泰四郎は、樽井のその一言ではっと口を引き結んだ。

 他者の目にも明らかに、悦蔵は泰四郎と並び立っている。

 既に追い付かれているのだ。

 落ち着きかけていた焦燥が、またじわりと込み上げた瞬間だった。

「但し。同じ金魚でも、おまえと悦蔵では一つ決定的に違うところがある」

 泰四郎の表情など顧みる事もなく、樽井は語気を強めた。

 決定的に違うところ。樽井が何を言わんとしているのか、またその違いというものが何のことなのか、泰四郎には分かりかねた。

 学か、或いは互いの人となりか。

 決定的な違いは、一つに留まらないように思える。

 考えあぐねる泰四郎に、樽井はあっさりとその答えをくれた。

「絶対的存在だ。悦蔵にはそれがあるが、おまえにはない」

「――は?」

 絶対的存在、もう一度そう言って、樽井はニィと歯を見せて笑った。

 その意味が分からず、泰四郎は首を捻った。

 武士にとって絶対的な存在といえば、それは主君に他ならない。そういう意味で言うならば、悦蔵にも泰四郎にも主君はある。二本松藩士のすべてにとって、丹羽家の殿様が絶対の存在なのではないのか。

「おかしなことを申される。家中の誰にとっても、主君は丹羽様ではございませんか」

 腑に落ちないままに言い返すと、樽井はそれをも一蹴した。

「そりゃあ勿論だ。だが、俺の言うのはそういう意味じゃない」

「どういう意味ですか」

「憧憬の対象だ。こいつに着いていきたい、こんな奴になりたい――、悦蔵にとってはおまえがそれなんだろうよ」

 泰四郎は唖然とした。何を言うかと思えば、 そんなこと。

 そんなこと、だ。

 これまでそうあるのが当然で、この先も決して覆る事はないと高を括っていた事実だ。

 実力で両者が並び立った今は、長年疑うこともなかったその事実が、脆くも崩れ去ってしまったのだが。

「隊長、それは昔の事です。今では……」

「今も変わらんだろ、あれは」

「…………」

 昔の事です、と繰り返そうとしたと同時、樽井は畳み掛けるように続けた。

「憧憬の力は案外すごいぞ。夢中で追いかけるうちに、無自覚のまま急成長していることがあるからな」

「今の悦蔵のように、ですか」

 思わず、泰四郎の声が険阻なものになった。

 だが、樽井はそれに気付いてか否か、軽快に笑い飛ばす。

「はははっ、誰かの憧れの対象になんて、なろうと思ってなれるもんじゃない。おまえが何に焦っているかは知らんが、悦蔵には当たらんでくれよ。悦蔵もおまえと同様、俺の隊の主要戦力だ。おまえが崩れりゃ、あいつも崩れるに違いないからな」

 凝然と見詰める泰四郎を尻目に、樽井は最後に一区切り付けたように膝を打つと、屋内へと引き返して行った。

 後に残された泰四郎の耳に触れるのは、まだ勢いの衰えぬ雨音だけであった。



【三.払暁の戦】へ続く 

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