二.雨に逸る(2)
「どうかされましたか、隊長」
その中で独り泰然としている樽井に視線を戻せば、泰四郎にもどこか敢然たる気骨が蘇るようだった。
「胸壁を築くぞ。三春城の官賊どもも、恐らく俺たちの糠沢布陣に気付いているはずだ。奴等がこのまま二本松を攻めるつもりだとしたら、ここも戦渦に巻き込まれる」
干戈を交える前に、陣営の守備を整えておかねばならないと言う。
「奴らは七連の銃さえ駆使してくるらしいからな。まず身を守るにはある程度の胸壁を廻らせねばならん。だが、この辺りの農民に手伝わせるわけにも行かぬのでな。俺の部隊の全員で作業に当たってもらおうと思うのだ」
「我々だけの作業で、敵軍の攻撃開始までに間に合いますか」
「百三十の人員がいるんだ、何とかなる」
樽井としては、農作業に勤しむ農民の手を煩わせる事を躊躇っているのだろう。
この時期、農民にしてみれば確かに農作業の忙しい時であり、戦を手伝わせるのは酷なことだ。
ただでさえ、弾薬や兵糧の運搬に農民の手を借りている様だ。農民の側からしてもこれ以上戦の手伝いなど出来る余裕はないものだろう。
「分かりました、では急ぎ――」
「ああ、そこでおまえには特別頼みたいことがあるのだが」
泰四郎が了承の意を述べると、言葉途中で樽井が遮った。
胸壁の話とはまだ別件のことであるのか、樽井はそこで一旦声を区切ると、やや声音を下げた。
「おまえには胸壁築造ではなく、斥候に出て貰いたい」
「私が、ですか」
「おまえと、他にもう一人付けようと思う。悦蔵と二人で頼まれてくれるか? それとも、別な人選が良ければおまえに任せようと思うが……」
敵軍の動きを探るための偵察役に任ずるという樽井に、泰四郎は自らの責任の重さを感じた。
部隊から離れ、恐らくはもう目と鼻の先であろう敵陣の視察に行くのだ。それなりに有能な者でなければ果たせぬ役目であった。
ちらりと視線だけを横に移ろわせれば、その先には他の隊員たちと談笑する悦蔵がいた。
雨でぬかるんだ山道を徒歩で移動してきたせいか、悦蔵を囲む皆の顔も若干疲労の色が浮かんでいる。だが、悦蔵だけは疲労も物ともしない様子で朗らかに笑っており、冗談を飛ばす余裕さえあるらしい。
泰四郎が悦蔵を見ていることを悟って、樽井もまたつられるように悦蔵を見遣った。
「なあなあ、その太鼓、俺にもちょっと触らせて」
「ええ? 別にいいですけど……、壊さないで下さい、よ?」
「馬っ鹿だなあ、泰四郎と違って俺はそんなことしないよー! ちょっと鼓手の気分を味わいたいんだって」
「んもう、しょうがないなぁ」
ほんの目と鼻の先で、悦蔵は鼓手として従軍している少年隊士を相手におどけてみせる。
番入前の幼年者でも、鼓手としてならば従軍を許されているのだ。そんな十五、六歳の少年から太鼓を借りてはしゃぐ様子は、出陣の朝と全く変わらない。
四つも五つも年下の太鼓手の少年のほうが、若干大人びて見えるくらいだ。
そうして首から太鼓を下げた悦蔵が、得意顔で鼓手さながらに行進の真似事をしてみせると、少年は勿論、その他の隊員たちもどっと笑声を上げる。
さらには泰四郎と話し込んでいた樽井までもが、呵呵と笑った。
「元気だなー、悦蔵は。おい泰四郎、あいつで決まりだな。元気そうだし、おまえもあいつとは仲が良いじゃないか」
「……腐れ縁とも申しますが」
「わはは、腐っても縁、だろ」
「隊長、それを申しますれば腐っても鯛、にございます」
結局、隊長の樽井も悦蔵と泰四郎を無二の朋友同士とでも見ているのだ。
それは何故か、悦蔵という全くの別人と己自身とを一括りにされているようで、気分が悪かった。
悦蔵という人が泰四郎の背後について来ても、右に並ぶ事はないと思っていた。
並び立つだけの度胸も、悦蔵にはないだろうと踏んでいた。
それが今では、泰四郎と言えば悦蔵の名が、悦蔵と言えば泰四郎の名が続いて出される。
もう既に、並び立つほどにまでなっているのだ。後ろを遅れてついてくると思っていた悦蔵が。
焦燥に加えて、憤りにも似た感情が泰四郎の中に芽生えていた。
「おおい、悦蔵! ちょっと来てくれ」
樽井が声を張り上げると、ふざけてみせていた悦蔵もはっとしたようにその手を止めた。
陣中で騒いだことを咎められるとでも思ったのだろう。樽井の顔を見るなり、悦蔵は苦笑して申し訳なさそうにすごすごと太鼓を少年の手に返した。
「すいません、隊長。ちょっと羽目外し過ぎました?」
「いや構わんさ。今ので皆も元気が出ただろうからな」
樽井はにっと無骨な微笑を浮かべ、悦蔵を手招く。
「おまえ、それだけの元気があるなら泰四郎と共に近辺の斥候に出てくれ」
「! た、樽井隊長っ、俺はまだこいつを供に連れて行くとは一言も……!」
泰四郎の是非も聞かぬ間に、樽井は既に斥候に出す一員を決めてしまった風である。それも隊長命令と言うなら致し方もないことだが、人選は泰四郎に任せると言った舌の根も乾かぬうちに、さっさと決められてしまうとは。
慌てて樽井の話を遮ったものの、当の樽井は心外そうに眉を跳ね上げて泰四郎を見た。
「なんだ、不満か?」
「……不満です」
すると、呼ばれるままに立ち会う悦蔵がほんの一瞬、不快そうな顔をしたのが分かった。
実際、悦蔵以外の誰かを指名しろと言われても、一体誰が適任であるか、咄嗟の判断は難しい。
この陣営に屯する者の中で一番に泰四郎が認める人といえば隊長の樽井であったが、まさか隊長を陣から切り離すわけにもいかない。
口惜しくも、樽井の他で実力の秀でた者といえば悦蔵くらいなものだろうとも思った。
「……斥候には私が一人で出ます」
「一人で大丈夫か」
「出来ます」
そう言う他に選択肢はなかった。
悦蔵と二人、同じ任務には就きたくないと思ったのだから仕方ない。単なる嫉視からなのか、それともこういうものを意地と呼ぶのかは判然としない。ただ確実に自覚していることは、悦蔵に越されて溜まるかと気が急いて、兎に角面白くないのだ。
「そういうことなら、まあ泰四郎一人でも良いが……抜かるなよ」
「無論」
「よし、じゃあ泰四郎はすぐに三春との境にまで出てきてくれ。悦蔵は、すまないが胸壁を築く作業に加わってくれるか」
樽井は首を傾げる素振りを見せたが、泰四郎の持てる裁量を認容に値すると判断してくれたらしい。手短に話を終えると、樽井は隊員の指示に当たるべく二人の許を離れた。
樽井も認める力量を備える己に僅かばかりの自信を取り戻し、泰四郎は丹羽直違紋の入った肩印を外した。
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