二.雨に逸る(1)

   



 後日、胸に立ち込める靄を払い切れぬままに、泰四郎らに出陣の命が下った。

 ついに二本松の国境間近にまで北進してきた官軍の攻撃に備えての、国境警護のための派兵である。

 泰四郎は樽井弥五左衛門率いる第三番組に配され、奇しくも同じ部隊へ配属となっていた悦蔵と共に同日出陣と相成る。

 小雨のぱらつく、早朝のことであった。

 互いに見慣れた顔を突き合わせる事に何の感慨もあろうはずもない。

「よう、泰四郎」

 千人溜と呼ばれる二本松城の兵士溜りに集う幾多の武士たちに混じり、悦蔵も戦仕度を整えて現れた。

 いつもと何ら変わらぬ悦蔵の微笑は、この日ばかりはどこか余裕と自信に満ちた雰囲気を感じさせる。それも己が心の迷いの成せるものかと思い、泰四郎の気分は晴れなかった。

 集結した藩士たちが思い思いの装備に身を固める中、悦蔵は義経袴に草鞋履き、木綿の小袖を襷にかけただけの、いとも身軽な出で立ちをしていた。

 そして、腰に手挟んだ太刀は赤い鞘。

 泰四郎もまた、それに似た仕度である。具足を身に着ければ銃刀を扱いにくく、当然動作も鈍くなる。そんな古色蒼然とした装備は足手纏いになるだけなのだ。

 年嵩の藩士などは戦国の世でも彷彿とさせるような甲冑姿だが、若手の者は大抵が軽装のようである。

 唯一全員に共通する物といえば、丹羽直違紋の入った肩印のみ。

 それにしても、赤い鞘の刀を佩く者は泰四郎と悦蔵くらいなものだった。

 腰に差した赤は、同色の陣羽織を着用するよりも際立って、一層に華やいで見える。

「間に合ったのか」

「そうなんだよ、一昨日になってやっと届いたんだ。どう? 俺も泰四郎ぐらいの偉丈夫に見えるかな」

 にんまりと笑って胸を仰け反ってみせる悦蔵の声は、朗々として弾んでいた。

 元々色白で細身の悦蔵は、偉丈夫と形容するにはあまりに優しい容姿である。

「おまえな、遊びに行くんじゃないんだぞ。はしゃぐ奴があるか」

「ええー、そんな硬いこと言うなよ。俺たちで官賊どもを討ち払ってやるんだからさ。泰四郎こそもっと息巻いて登場するかと思ったよ」

 くるくると目まぐるしく表情を変えて話す悦蔵は、好奇心に満ちた子供のようであった。

 これから命を賭して戦いに行くというのに、緊張感は全くない。

 そんな悦蔵の様子には、泰四郎もすっかり呆れ果てた。

(こいつを羨むなんて、俺はどうかしていたのかもしれない)

 揃いの大刀にはしゃぐ様は無邪気そのもので、ともすると何故自らが戦場に赴くのかさえ意に介していないような印象を与える。

「な、泰四郎! 俺と泰四郎とどっちが多く敵を斬れるか、競ってみないか?」

「っは……?」

 半分は上の空で聞いた悦蔵の言葉に、泰四郎は耳を疑った。

 競うという言葉が、まさか悦蔵の口から飛び出すとは思っても見なかったのだ。

 意表を突いた誘いに目を丸くすれば、悦蔵は小首を傾げながらくすくすと偲び笑う。

「泰四郎の後から追いかけるのは、もうやめだ。今度は追い抜いてやる」

 悦蔵の笑顔には、いつだって嫌味の欠片もない。

 だが、今の悦蔵の一言は、泰四郎を顰蹙させるに充分な挑発であった。

「何だよ、引っ付いて回るなって、泰四郎が言ったんだろ? そんなに驚くことないじゃないか」

「あ、ああ……そういえば、そうだったな」

 刀を誂えるためにと連れて行かれた日、確かにそんなことを言った。

 半ば売り言葉に買い言葉で言ったことだけに、悦蔵がそれほど真正面から受け取っていたとは考えもしなかったのだ。

 今度は追い抜く。

 あの悦蔵が? と、泰四郎はまたしても不意に焦燥に駆られる思いがした。

 これまで一度だって泰四郎に抜きん出ていた試しなどなかったのに。いや、これまで通りの悦蔵ならば、泰四郎とて無闇に焦りは感じなかっただろう。今の悦蔵は充分、泰四郎に匹敵する雄偉さを兼ね備えているのだ。

 出来るものならやってみろと返すはずが、それはどうにも声にはならなかった。

 自ら挑発しておいて、いざ悦蔵がその気になればこの慌て様。表面ではいくらでも平静を取り繕う事は出来ても、胸の内に己を急き立てるものを禁じ得ない。

(俺は一体、どれだけこいつを侮っていたんだか)

 つまりはそれだけ悦蔵を見縊っていたのだ。

 泰四郎が人知れず、戦へ出て敵を斬り斃すことに苦悩していたというのに、悦蔵を見る限りではそんな類の気迷いは一切ないようである。

 長引く梅雨の曇天と同じに、泰四郎の心中には未だ厚い靄がかかっているようだった。


     ***


 樽井弥五左衛門を陣頭に、泰四郎らは一旦二本松領南方の本宮宿へ布陣することになる。

 だが、七月七日になって急遽、領内西端の糠沢村への急行が命ぜられ、一行は西側の守備にあたることとなった。

 深い木々に埋もれるようにひっそりと佇む小さな村落。それが糠沢村である。

 ちょうど二本松藩と三春藩の境界となる土地だった。奥羽北越の諸藩が挙って調印した官軍に対する攻守同盟に参加していながら、いざ脅威が迫るといとも簡単に掌を返してしまった藩と隣り合っているのだ。

 二本松藩の別動隊によれば、三春藩は薩長へ帰順するよりも早くに、奥羽越列藩同盟軍への背盟行為を取っていた。

 三春藩の部隊が、戦場で味方を攻撃したという。

 直後に誤射と称しての弁明も、あるにはあった。

 だが同盟軍の内部では、今や不戦のうちに帰順してしまった三春は、端から官軍へ寝返るつもりであったのだろうという見方が暗黙のうちに定着していた。

「泰四郎、ちょっといいか」

 糠沢村内の上ノ内界隈に着陣してすぐ、番頭の樽井が声をかけてきた。

 さすがに番頭を務める者だけあって、樽井は落ち着き払った様子だった。だが、如何せん配属の藩士たちの殆どはこれが初陣である。

 すぐ傍にまで敵が迫っているという情報は入ってきても、敵の姿を目にすることは愚か、敵味方の遣り合う銃撃戦の音さえも耳に聞くことは一度もない。そんな中で幾日も待機を命ぜられた後、今度は陣替え。

 未だに臆病風に吹かれている者もあったが、だれて緊迫感に欠ける者もちらほらと見られ始めていた。

 だが悦蔵の様子を窺うと、こちらは漸く緊張の面持ちが浮かぶようになったようだ。

 

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