二.雨に逸る(3)

     ***


 土は梅雨で湿り、掘り起こし易かった。

 土嚢を用いるにも余計な手間がかかり、時間を無駄に費やすと見た樽井の指示により、胸壁は掘り返した土を盛って叩き固めるものを築くこととなった。

 兵は手に手に借出した農具を持ち、掘っては積み上げる。

 隊長の樽井も自らその作業に加わり、悦蔵も指示に従った。

「樽井隊長」

 手は休めずに、悦蔵はふと声をかけた。

「なんだ?」

「俺も泰四郎と一緒に斥候に出たいんですが、駄目ですか?」

「しかし、泰四郎は一人で良いと……」

「でも、行きたいんです」

「そんなに泰四郎と離れたくないのか? 可笑しな奴だな」

「可笑しくないですよ。今の泰四郎、なんだか焦っているように見えます」

 思いがけず悦蔵の生真面目な声を聞き、樽井は顔を上げた。

 だが、悦蔵のほうは相変わらず作業をやめる気配はなく、石の混じる土をざっくりと掘り起こしては、積み始めたばかりのまだ低い胸壁に盛り固めていく。

「焦っている、だと? そうか?」

 樽井にしてみれば、泰四郎が一人で行くと申し出た顔は実に頼もしく思えたものだが。

 悦蔵は何か気がかりなものを感じ取っていたらしかった。

 その証拠に、どんな時でも絶えることのなかった微笑が、悦蔵の顔から消え去っていた。

「俺も行かせてください」

 手を止め、改めて樽井に向き直る悦蔵の声は悠揚としたものだったが、真っ直ぐに許可を請う目は気迫に満ちていた。


     ***


 二本松藩丹羽家の兵と分かる装備は一切外し脚絆を巻き直すと、泰四郎はすぐに陣営を離れて泥土でぬかるむ間道に分け入った。

 敵の側でも幾多の間諜を出しているはずで、今日中には三春に滞在する敵陣営まで、糠沢上ノ内二本松兵着陣の報が伝えられることだろう。

 三春には今、土佐の板垣退助の軍が駐屯している。

 板垣の決断が早ければ、即日上ノ内への派兵が為される恐れもあった。もしも板垣軍の兵と泰四郎が行き違うような事態になっては斥候に出た意味がそもそもなくなるのだ。

 鬱然とした細い山道を行く泰四郎の足元は頗る悪く、しっかりと踏み締めるように歩いても時折水を含んだ土に足を取られそうになった。

 悦蔵の同行を断ったのは正解だったかもしれない。急を要する任務の上に、身動きさえ思うに任せない道行きでは、かえって単独のほうが身軽なものだ。

 それでなくても、梅雨独特の蒸し暑さのせいで、体力は必要以上に消耗する。

(日が暮れる前に三春との境に出られれば良いが……)

 針葉樹や竹笹の森々たる中では、低く垂れ込めているであろう空の灰色雲さえ見上げる事は叶わない。昼日中だというのに尚暗い陰に覆われていた。

 本来ならば、もう少し道幅の或る街道もあるにはある。だが、敵の目を盗み様子を探るとなれば、堂々と明るみの道を行けるはずも無い。頭上からしな垂れかかる枝葉を潜り、草の根を掻き分けて進むのは、我が身が敗残の兵に成り果てた気さえ起こさせた。

 己の任務の心配をしつつ、胸中にはそれとは全く別の思いもまだ根強く残っている。

 悦蔵ならば、絶対に自分も連れて行けと駄々を捏ねると思っていたのだが、どういうわけか今日の悦蔵はいやに物分りの良い反応をした。

 快く泰四郎の決断を了承したとは言い難いが、それでも一応は黙認したのだから、悦蔵にしては珍しくあっさり引き下がった。

 逆に、あまりに反応が薄すぎて拍子抜けである。

 これから敵陣を探ろうという時に、不思議と緊張は和いでいる。つい先刻まで気構えていた妙な力が、陣営を離れるごとにすぅっと吹き消されるように抜けていくのだ。

(馬鹿だな、悦蔵が怖いとでもいうのか俺は)

 人も寄せ付けぬほどの厳格さに満ちる顔立ちと、大柄な体躯。人から怖がられて避けられることはあっても、自ら誰かを怖いと思った例は過去に一度としてなかったというのに。

 まして、手強いと噂される薩長の敵兵よりも、味方の、それも朋輩が怖いとは笑い種だ。

(それでは俺は、悦蔵から逃げるために斥候に出たようなものではないか)

 ますます自分という人間が愚かなものに思え、泰四郎はふと自嘲の笑みを浮かべた。


     ***


 三春城には既に敵軍が占拠しており、その概が土佐兵であるようだった。

 物々しい警備は二本松藩との国境ぎりぎりにまで蔓延している。だが、警戒にあたる敵兵の姿はちらほらと見受けられても、すぐにも出兵の動きがあるような気配はまだ感じられず、既に三春から派兵が為された風もなかった。

 三春藩領内でも最も二本松との国境に近いとされる仁偉田舘にも、配置される兵はごく僅かで、とても三春から進軍してくるとは考えられないほどである。

 振り返って考えてみると、樽井隊が本陣と定めた上ノ内の陣営からこの仁偉田舘までは然程の距離があるでもなく、足場の悪い間道を通ってきた泰四郎でさえも、その足を持って歩き続ければ半日とかけず着いてしまったくらいだ。

 これが本道で行軍となれば、恐らく敵軍は今日中にも樽井の陣を急襲出来ることだろう。

 上ノ内の陣から一番近距離にある敵兵の砦といえば、この仁偉田舘。真っ向北上してくる敵軍本隊は此処よりもっと西側を縦断する奥州街道を攻めてくるだろう。

 だが、敵が二本松城を攻略するつもりならば、恐らく三春藩と国境を隔てる東側からも攻撃を加えるはず。

 仁偉田舘付近の様子を報告しに陣営へ一旦戻るか、或いは今少し変化を待って近辺に潜伏するべきか。

 間道と本道の合流地直前で立ち止まり、泰四郎は茫々と生い繁る山陰に身を潜めていた。

 息を潜めるまでもない充分な距離はあるが、地形の起伏も激しく、屹立とした崖も多い。

 さすがは戦国の世から国境の館として用いられた場所である。そこに加えて今時分、降り続く長雨のせいで山の斜面は頗る崩れやすくもなっているはずだ。

 日暮れの時は迫り、辺りは漂い始めた薄闇のせいで、一段と陰を濃くしていく。

 そういえば腹も減ってきた。

 身なりばかりは簡略に整えてきたが、せめて上ノ内の農家から握り飯くらいは貰って来れば良かったと、些か後悔した。

 腹の虫が鳴いても敵に聞こえることはないだろうが、如何せんどんな猛者も空腹には敵わない。

「腹、減ったな……」

 やはり一旦陣へ戻ろうかと考えた、その時。

 泰四郎の目の前に、握り飯を素手に掴んだ手が横合いからぬっと現れた。

「! うわっ!?」

「腹が減っては戦は出来ぬ。だろ?」

 驚き飛び上がる勢いで振り返れば、手を差し出していたその人がにんまりと笑っていた。

 一瞬、周囲の探索に出ていた敵兵にでも見つかったかと焦ったが、その姿は泰四郎に似た身なりをした悦蔵だったのだ。

 敵兵でなかったことに胸を撫で下ろしたのも束の間。やはり後を追って来ていたのかと、今度は辟易した気分さえ込み上げた。

 

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