二.雨に逸る(4)

 

 

「自分の飯くらい、持って出ろよー。泰四郎らしくないな」

 そう言って苦笑する悦蔵の顔は、今も疲弊など微塵も感じさせない。

 だが、差し出された握り飯から悦蔵の足元に視線を落とせば、その脚絆と野袴は夥しく泥が跳ねて付着していた。

 涼しい顔こそしているが、悦蔵も急ぎの道行きであったらしい。

「食えよ。腹減っただろ? 俺も自分の分は持ってきたから、これ、やるよ」

 ずいと押し付けるように手渡され、泰四郎は押されるままに握り飯を受け取った。

「おまえ……樽井隊長には何て言って来たんだ。胸壁だって一人でも多く手が欲しいだろうに」

「あはは。隊長の許可はちゃんと貰ってきたから怒られやしないよ、そう心配するなってー! 泰四郎はほんと昔から変わらないよなぁ」

「何がだ」

「そういう心配性なとこ。ま、俺も泰四郎が心配で追いかけてきたクチなんだけどさ」

「別におまえの心配をして言ってるわけじゃない。俺はただ、陣営の守備が気になっただけだ」

「まーたまたぁ。んじゃあ、御飯にしようか?」

「人の話を聞けよ、おまえ」

 泰四郎の本心などすべて見通しているとでも言うようなかわし方である。

 悦蔵は泰四郎が少しも変わらないと笑うが、そこには昔の悦蔵が持っていた弱々しい影は全くない。だが、これまでの泰四郎が無意識に漂わせていたであろう、人を見縊るような響きもなかった。

「おまえに心配されるほど、俺は零落れちゃいない」

「わあ、そんな言い方酷くないか? だって泰四郎、絶対俺も一緒に連れてってくれると思ってたのに、一人で行くとか言うんだもん。そりゃ俺だって心配になるよ」

 確かに、悦蔵は一回りも二回りも大きく変わった。

 だが、その礎にある悦蔵その人も、昔と何一つ変わってはいないのだ。

 泰四郎を案じて追いかけてきたなどと、昔では考えられないほどの大きな口を叩くようになったが。

「悦蔵、おまえなぁ……」

 敵陣の目と鼻の先だというのに、何とも気の抜ける調子でぽんぽん言い返してくる悦蔵に呆れ、泰四郎ははっと短く吐息した。

 幼い時分から見慣れたその目は、今もどこかあどけなさを残している。その目で、ただひたすらに泰四郎の背中を追いかけてきたのだろう。

 まだほんの子供の頃から秀でていた剣術における天賦の才と、泰四郎自身が持って生まれた剛毅な気質に、悦蔵はただ純粋に憧憬の念を抱いていたのかもしれない。

 それは二人の実力の差が縮まった今でも、なんら変わりなく存在している。悦蔵にとって、泰四郎とはそういう存在なのかもしれない。

 平たく言うなら、身近な目標なのだろう。いつかこの人のようになりたい、という。

 斥候として陣を離れた時に感じていたはずの焦燥感は、悦蔵の間の抜けた笑顔を見た途端に消し飛んでいた。

「向こうに岩場になってるとこがあるからさ、そこで一緒にメシにしようよ」

 くるりと今来た方向を指し示す悦蔵をよそに、泰四郎は受け取った握り飯をぱくりと頬張ると、一気にそれを平らげた。

「ああああっ!! ちょ、ちょっとちょっと泰四郎! 何一人で先に食ってるんだよー!?」

「喧しい。飯なんぞ、立ったままでも食える」

「行儀悪ぅ」

「うるさいっ! 遊びに来てるんじゃないんだぞ!? 大体おまえ、俺を越えるとか何とか抜かしていなかったか、んん? 飯を食うことですら先を越せんでどうするんだ」

 指についた飯粒の一つ一つを舌で舐め取り、泰四郎はちらりと悦蔵を流し見た。

 ついさっきまで焦りを感じていた自分が更に悦蔵を挑発するようなことを言えるとは、我ながら奇妙なものだった。

 先を越されそうになれば慌て、それでも悦蔵が後から追いかけてくることに言い知れぬ安堵を覚える。

 そんな己の矛盾に対する答えは出せる気配もなかったが、それでも今、泰四郎は自分が苦笑を浮かべながらも、気を緩めていることだけは分かった。

「なんだよもう、折角一緒にメシ食えると思って来たのに」

「おまえは俺と飯を食うためだけにここまで来たのかっ!? 曲がりなりにも尖兵としての気概はないのかっ、おい!?」

「だってぇ」

「だっても糞もないわ、馬鹿!」

「あっ、泰四郎、あんまり近寄るなって! 汗臭い!」

「煩いっ! おまえだって汗臭いっ!」

 無論、飯を持って追い掛けて来た悦蔵が即刻引き返していくことはなく、結局は泰四郎と悦蔵の二人で斥候を担ったようなものだ。

 その後、最寄の村落に身を寄せて一夜を過ごしたが、それでも三春との国境から兵が出される気配は一向に無く、泰四郎は一旦陣へ戻ることとした。


     ***


 泰四郎が帰陣したその夕刻から、雨は降り出していた。

 ただでも蒸し暑いというのに、雨が降れば尚更過ごし難くなり、更に日が暮れると雨脚も一層強まった。

 雨風を凌ぐために村の民家に分宿することと決まり、泰四郎は隊長の樽井と共に名主宅へと身を寄せたのだった。

 とはいえ、狭い農村に二百人が止宿するのだ。この名主の家屋敷内も寝転がったり壁にもたれて休息を取る兵で溢れ、ごたごたしている。

 囲炉裏端に顔を付き合わせた樽井の顔は、やや渋い。

「三春の板垣は動かぬか……。背盟した三春が今更我等を庇い立てするとは思えぬし」

「奴等、このまま二本松を攻めずに真っ直ぐ会津へと攻め込む気なのかもしれません」

「それはどうかな。会津へ攻め込む峠は幾つもある。その気であれば白河や郡山を制した時点で何れかの峠を越えて会津へ向かっているだろう」

「……二本松を落とし、母成峠から会津を攻めるつもりでしょうか」

「俺はそうと考えるな。或いは奴らめ、既に我が藩東隣の三春を降伏させたことで、二本松もすぐに白旗を揚げると高を括っているのかもしれん」

 舐められたものだと、樽井は嘲るように鼻を鳴らした。

 たかが十万石の、東北の小国、二本松藩。

 白河城を手に収め、これまで不敗の戦況を誇って進軍してきた敵軍を前にしては、奥羽越の諸藩が組んだ同盟軍の力も既に限界まで来ている。

 徳川の泰平の世に慣れきった各藩の兵たちは、盟主たる仙台藩の者も同じであった。辛うじて戦の経験のある藩といえば、京都守護職を務めた会津ただ一藩のみ。

 兵力の差も、軍備の差も歴然である。

 同盟軍側には新式の銃砲もごく僅か、その上敗北続きで士気も頗る下がっていることだろう。

「殿様が、あくまでも抗戦すると仰せなんだ。そう簡単に降参する二本松じゃねえ。な、泰四郎」

 にんやりと笑って泰四郎を見た樽井も無論、藩の立場や置かれた状況を解している。それでもまだ、勝てる気がしているのだろうか。

 白河から奥州街道を北へと転戦してきた本隊からの情報によれば、新式銃や大砲を駆使する敵軍の前には、同盟軍が如何に束になってかかろうとも赤子同然に捻り倒されている有様だというのに。

「兎も角、どちらにしろこの界隈も奴等の進軍経路だ。この上ノ内本陣から各方面に何組か尖兵を出しておこう」

 そう結論を出し、樽井は短く息を吐いた。

「樽井隊長」

「うん? なんだ」

「この戦、我々には――」

 勝機など欠片もないのではないか。

 いくら奥羽越諸藩の攻守同盟に殉じるためといえ、いくら隣藩会津を守護せんがためといえ。軍備、士気、更にその軍組織統制力においても、敵軍が圧倒的に勝っているのだ。

 ――我々は、犬死するだけなのではないか。

 そう抗議しようとした口を、泰四郎は固唾を呑むことで思い止まった。

 そんなことは誰もが承知いていることなのだ。無論、ここにいる樽井も。

 泰四郎の言葉が途切れたことに、樽井は若干眉宇を顰めた様子だったが、やがて膝元に置いた椀を手に取ると、冷め切った白湯をぐいと煽った。

「泰四郎、俺たちは戦うしかない」

「! 隊長……?」

 まるで、泰四郎がたった今何を言わんとしたかを全て見透かしているような口振りだった。

 泰四郎はぎくりと身構えたが、樽井の目はほんの小さく燻る囲炉裏火に注がれたままである。

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