四.赤鞘の二壮士(1)

 

 

 隊長・樽井が撤退を決意した頃には、既に日は高く昇りきっていた。

 薩摩兵であるらしい敵の攻撃が緩む気配も薄く、退却するにも困難が付き纏う状況である。

「隊列を組んで行軍する余裕はない。それぞれ散開して退却するとしよう」

 敵味方の放つ銃声の合間にそう言うと、樽井は未だ激戦の最中にある自軍の陣営を見渡した。

 纏まって引き揚げたとしても、纏めて追撃の的となる。

 小銃の撃ち合いは今も続いており、間もなく弾薬も底を尽くだろう。撤退戦を繰り広げながら城まで戻ることは不可能に近かった。

 加えて、地理不案内だろう官軍にとって、退いて行く樽井隊は二本松城下への格好の嚮導役ともなり得るのだ。

 樽井は暫し呻吟した後、眉間を一層狭めた。

「青山、和田。俺たちが守るべきは、主君のおわす城――。そうではないか」

 樽井の口調は、二人へ賛同を求めるものだった。或いは、不本意な退却の理由として、樽井自身が自らに言い聞かせたものかもしれない。

 二本松藩は既に殆どの兵を奥羽の同盟軍として城下外に送り出してしまっている。そして、各地に派遣された藩兵は未だ帰藩していないだろうとも思われた。

「此処で全滅するよりは、一旦引いて再起するのが得策……」

 樽井が言い終えるか否かのうちに、敵陣より再び砲声が轟いた。

 辺りの梢を軋ませる轟音は、泰四郎らの身体の芯をも震わせる。

「! 隊長、一刻も早く退却の号令を――」

「敵は最早壊滅寸前! 逆賊・二本松を殲滅せよ!」

 泰四郎の声に重なるように、敵隊長らしき人物の大音声が聞こえ、続けざまに喊声が上がる。

 その声は、極限まで追い詰められた二本松兵に止めを刺そうと、自軍の士気を鼓舞するものだった。

 見れば敵兵の中に、馬上の黒い獅子頭が爆風に悠と靡く。

「官賊輩め、ここを一気に潰しにかかる気だ」

 射程距離に対峙する樽井もまた、口惜しげに唸った。

「隊を解散しよう。ここから城下までは、幾つか間道がある。生き残った兵は思い思いの道をゆけ」

 草木の生い茂る中に身を隠しながら城下を目指せ、と樽井は言う。

 そうして、樽井は陣太鼓を手に持つと、けたたましく撥で打ち鳴らした。

 退却の合図だ。

「兵は皆、明朝、城下光現寺に集合せよ!! 撤退だ!!」

 樽井は一際声を張り上げると、颯爽と馬の背に飛び乗った。

 敵の銃撃に驚いて躍り上がる馬を往なし、樽井は周囲の兵を率いて退陣を開始する。

「俺たちも行くぞ、悦蔵」

「…………」

「おい、聞いてるのか!?」

 急き立てるように言ったが、悦蔵はそれには答えず、眉目を険しくして戦場を振り返った。

 樽井隊は後方から撤退を始め、最前列で小銃を使う兵は未だ退く気配も見せずに弾を撃ち続けている。

 悦蔵は敵陣に睥睨を投げ、早急に退却しようと促す泰四郎の手を払った。

「!? 悦蔵っ!」

「駄目だ泰四郎、定助がまだ前にいる……!」

「何だと!?」

 本来鼓手である定助が前線にいるはずがなかった。

 そもそも、身を潜めて伏せていろと泰四郎自ら指示していたのに、いつの間に前線などへ出て行ったのか。

 泰四郎は未だ幾多の硝煙が立ち上る前線に目を凝らす。

 定助がいた。

 従軍する以上、形として刀を佩いてはいるものの、銃撃戦でそれは役には立たないし、たとえ白兵戦であっても定助がそれを扱える冷静さを保っているとは思い難い。

 定助は身を縮めて胸壁の影を這いずっていた。

 そのすぐ傍らでは、定助と歳の近い二人の銃手が射撃の腕を揮っている。

 樽井隊に従軍する者の中では、定助が最年少だが、今土埃と硝煙にまみれて銃を構える二人も、まだ齢十七ほどだ。

 泰四郎よりも、悦蔵よりも年少の者たちだった。

「あいつら、何をいつまでもしがみついているんだ。ここで死ぬつもりか……!」

 このままでは退くに退けなくなる。

 すぐに退却させなければ、いずれ弾が尽きて敵兵に斬り伏せられるか、敵の銃弾に斃れるかの末路だ。

 まだ年若い少年である三人を放置したまま、先に逃げるわけにはいかないと思った。

 だが、見据える先の三人は、途切れることなく敵弾の飛び交う前線にいる。

 既に胸壁は崩れ落ちたものもあり、味方も撤退し出した今、彼らの許へ向かうのは困難だろう。

「くそっ、これじゃあ近付けやしない」

 泰四郎は、ただ身体の動くままに樽井隊の退路に目を向ける。

 既に退却を始めた樽井隊の生存兵は、その数を瞬く間に減らしていた。

 隊長である樽井は、今も馬上から兵に指示を下し、その退路を示している。

 相当の調練を重ねたであろう屈強な栗毛の馬だが、敵弾の激しさに驚いているのか、落ち着きのない様子で、時折樽井を乗せたまま躍り上がった。

 このまま退けば、生きて城まで戻ることは可能だろう。ここから城下までは、そう遠くはない。

 ――俺たちが守るべきは、主君のおわす城だ。

 退却を決意した樽井の言葉が、泰四郎の脳裏を掠める。

 守るべきは、主君と、その城。

 己自身よりも歳若の藩兵を見捨て、城へ急ぐべきか。

 だが、それでは大儀を盾に保身することと同義にはならないだろうか。

 泰四郎は奥歯を噛んで逡巡した。

「泰四郎」

 そんな泰四郎の心のうちに気付いてか否か、悦蔵は訝しげに泰四郎の名を呼ぶ。

 名を呼ばれ、泰四郎は改めて悦蔵の視線を真っ向から見返した。

 焦燥と、怯懦と、そして僅かな猜疑をも含んだ目が、こちらをじっと見詰める。

 泰四郎は思わず目を逸らし、歯を食い縛った。

「ちくしょう、このまま退けるかっ……!」

 呻くように口走ると、泰四郎は抱えていた銃をかなぐり捨てた。

 代わりに、腰の朱鞘からすらりと鈍色の刀身を引き抜く。

「こいつで斬り込んでやる。悦蔵、おまえは先に退け」

 言うが早いか、泰四郎は民家の影に飛び込み、敵軍の死角を素早く駆けた。

 無論、敵軍の背後に回りこむことは不可能に近かったが、側面に回ることは叶いそうだった。

 硝煙と土埃が噎せ返りそうなほどに蔓延していたが、血と臓腑の放つ異臭のほうが強い。

 戦とは、噎せ返るほどに血生臭い殺戮だ。

 敵は樽井の言った通り、やはり薩摩の軍だった。

 その側面に回りこんだ事で、泰四郎は漸く敵兵の様子を窺い知る事が出来た。

 当初、急襲したのは三春城に駐屯していた土佐兵だろうと踏んでいたのだが、その予測は外れていたのだ。

「泰四郎っ」

 小声ながらに緊迫した声音が泰四郎を呼んだ。

 僅かにぎくりと肩を竦めた泰四郎だったが、すぐに、敵兵が名を呼んでくるわけがないと判断して胸を撫でる。

 悦蔵だ。

 先に退却しろと言ったばかりだというのに、悦蔵もまた銃を捨て去り、抜き身を手にして泰四郎の後をついて来ていた。

 泰四郎は悦蔵の双眸を一瞥し、嘆息する。

「退けと言ったのに、この馬鹿め。……城には帰れんぞ」

「泰四郎だって同じだろ」

 そう揶揄するように言った悦蔵の喉が、ごくりと固唾を飲み下す。

 ――自分自身の意思というものがないのか。

 常に泰四郎と同じ道を選び、同じ選択をする。

 そんな悦蔵に、いつしか抱いていた軽い侮蔑。

 それを今、泰四郎は悔いていた。

 泰四郎に倣い、後をついてくることは、能のない者の猿真似に過ぎないと思っていた。だが、悦蔵に限っては、それは当てはまらないということが漸く分かったからだ。

「覚悟の上か」

「覚悟がなくて、こんな選択が出来るかよ」

 悦蔵はその柔和な顔立ちに似合わぬ剛毅な笑みを浮かべ、泰四郎もまたつられるように笑う。

 間近で繰り広げられる銃撃戦の騒音が、耳に煩わしかった。

 ――やはり、こいつは怖い。

(俺の後をついて来ているようで、とうに俺を追い越していやがる)

 泰四郎は軽い戦慄を覚えた。

 これから踏み込もうとしている敵軍に対してではない。

 昔からの馴染みである、悦蔵その人に対してだ。

 払暁の銃撃戦ではあれだけ尻込みしていた奴が、今は何の恐れも感じていない様子なのだ。

 少なくとも泰四郎は、恐ろしくて堪らないというのに。

 退くか否かの逡巡を断ち切って尚、泰四郎は自らの戦死が恐ろしかった。

 だが。と、泰四郎は崩れかけた民家の土壁に背を添わせて敵軍の兵を見遣る。

「ここで戦わずして、のこのこと城下になぞ帰れるものか」

 斬り込むと決めた自らと、それについて来た悦蔵の手前、今更怯懦は吐けなかった。死地の戦慄を呑み込み、泰四郎は得物の刃を返して呟いた。

 悦蔵もまた、袴の帯を固く締め直して腰の朱鞘の位置を整えた。

「泰四郎。どちらが多く敵を斃すか、これで競うぞ」

「臨むところだ」

 言葉短な会話が終わるか否かで、二人はほぼ同時に物陰を飛び出した。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る